映画、虎杖(イタドリ)そして宮城門

日本国内だけにとどまらず国際的にも知名度の高い映画監督として知られる黒澤明(くろさわ・あきら,1910〜1998)は、昭和25年意欲作『羅生門』を製作しましたが、この作品が翌年のヴェネチア国際映画祭で「金獅子賞」を受賞、その存在が広く知られるきっかけとなったのです。そして、この映画の「原作」というか脚本の土台になった小説が、芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ,1892〜1927)の作品『藪の中』(大正11年、雑誌『新潮』初出)でした。その筋書きの詳細は、皆さんがご自身で作品を読み、真相の究明に向け推理を存分に楽しんで頂くとして、慣用句にもなった「藪の中」には「ねた」元になった古典があったのです。

宇治大納言・源隆国(みなもと・たかくに,1004〜1077)と言ってもピンと来ない方が多いと思いますが、漫画・劇画の原点『鳥獣人物戯画』図は美術の授業などで習った記憶がありませんか?第49代光仁天皇(709〜782)の勅願によって宝亀五年(774)に創建されたと伝えられる京都の栂尾山高山寺が収蔵してきた国宝でもある同図は十二〜十三世紀頃の製作とされ、その作者の一人が鳥羽僧正・覚猷(かくゆう,1053〜1140)ではないかとする説があるのですが、この人物、なかなかの豪傑で、1138年、周囲から推されて天台座主に上り詰めたにもかかわらず、わずか「三日」で退任し鳥羽に隠居、その最期にあたっては弟子達に『私の遺産の処分は、お前達の腕力によって決めよ』(つまり強いものだけが分取れ)と遺言したとも伝えられているのです。

鳥獣人物戯画(部分) 今昔物語集(京都大学蔵)

この豪快な覚猷の父親が先に見た源隆国その人で、芥川が創作の参考にした古典『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう、成立は1120年以降。『藪の中』は巻29、第23話を題材にした)の編者ではないかとされてきた人物なのです。また、隆国の祖父である源高明(みなもと・たかあき,914〜983)は醍醐源氏の祖としても知られる人ですが、彼も左大臣に任じられた翌年の969年「娘婿にあたる為平親王を奉じて謀反を計画している」という嫌疑を受けたため大宰府権帥に左遷されたのですが、この処分を聞いた高明は「即日、出家した」と伝えられ、権力欲からは程遠く決断力と胆力に優れた血筋の一族だったことを十分に窺わせます。高明が藤原氏の策謀に巻き込まれたとされる一件は「安和の変」として知られていますが、この「陰謀」を密告し武家として台頭した男が源満中(多田満中,912?〜987)だったことは「義経の祖先」のページで詳しく紹介していますから、興味のある方は覗いてみてください。

ところで天皇の住まいでもある大内裏(宮城)の外郭を囲む壁に設けられた「門」のことを一般に禁門と言い、『養老令』では「宮城門」と呼ぶと定められ、南北に各三門、東西に各四門あって東西の最も北側に設置された二つの「通用門」を除いた十二の門を古くから総称して「宮城十二門」と呼び習わしたのだそうです。小説『藪の中』と映画『羅生門』の舞台となった「羅城門」は内裏そのものではなく「都」の中央に敷かれた朱雀大路の南端に築かれた大門のことですが、帝の住いを廻る十二の門には、当然、護衛の兵士たちが常備されていました。この門号を北面中央から順に時計周りに紹介すると、

  猪養 丹比 山部 健部 的(いくは) 壬生 大伴 若犬養 玉手 佐伯 伊福部(いふきべ) 海犬養

となりますが、朝廷の誰かが大陸の先進国文化にかぶれでもしたのか弘仁九年(818)に至り、すべての呼称が大陸風に改められたため、元々それぞれの「門」を守衛していた氏族=門部(かどべ)の名前との関連性も薄れたようです。公の記録である『日本後紀』巻第二逸文によれば、延暦十二年(793)六月庚午の条には、

  諸国に新たに宮諸門を造ることを命じた

とあり、続けて十二門の造営に携わった氏族の名前が列記されています。その中にはオノコロ・シリーズでお馴染みとなった氏族名の文字が幾つも並んで見えます。その一文には(正確には『日本紀略』が引用している『日本後紀』逸文)、

  備中、備後二国の多治氏が達智門を造った(備中備後二国造達智門多治氏也)

とあり、吉備の国を地盤とする多治氏(たじひ氏)が平安京の「達智門(丹比門)」を築造したことが分かります。この氏の名に見覚えはありませんか?そうです、前回、前々回と二度に渡って取り上げてきた「継体」帝の後裔の一族に全く同じ姓を名乗る者たちが居ましたね。それは第28代宣化帝の子・上殖葉皇子を祖とした多治比君(多治比真人)なのですが、彼らは六世紀後半には既に「帝室から分かれた貴族」の代表として朝堂で重きをなすようになっており、その本拠地も近畿の河内国であったはず。ましてや帝の近い親戚筋に当たる家柄の彼らが、他の門号氏族に混じって内裏を守護するとも思えません。となると、国紀の記述が間違っているのでしょうか?…どうやら、そうでもなさそうです。

火明命と瑞歯別尊とイタドリの花

かつて南河内郡に属していた美原町多治井という場所に「丹比神社(たちひ、たんぴ)」(下中央の画像)が鎮座しており、その主祭神は誰か?というと、火明命(ホアカリノミコト)と瑞歯別尊(ミズハワケノミコト、仁徳帝の子、反正天皇)で、今まで何度も紹介してきた大山祇命(おおやまつみ)、イザナギ、イザナミなどの面々が揃って合祀されています。また、近接する松原市の古老たちが昭和半ば過ぎまで語り伝えて来た民話によると、

  松原から美原にかけての広大な土地を「たひ(イタドリ)」が生い茂り、その大きな葉が覆う土壌には
  蝮(たじひ)が沢山生息している、とても肥沃な「肥田(ひた)」だった。だから、その土地に暮らす人々は、
  それらの土地を「丹治比の国、丹比の国、蝮の国」と呼んだのだ。また、この土地で天下を治められた、
  「はんしょう天皇はん」(第18代、反正天皇,336?〜410)が産まれられ、産湯を使っていたら、真っ白な
  とても美しい「たひの花(イタドリの花)」が湯の中に散りばめられて、とても見事だった。だから「たじ」が、
  ここの地名として後世にまで伝えられた。

とされ「日本書紀」も、ほぼ同様の出生譚を次のように記しています。

  生れましながら歯、一骨の如し。容姿美麗し。ここに、井有り。瑞井という。
  即ち汲みて太子を洗しまつる。時に多遲の花、井の中に有り。因りて太子の御名とす。
  (中略)河内の丹比(たじひ)に都つくる。是を柴籬宮ともうす。

仁徳紀にも「丹比邑(たぢひのむら)」の記述例がありますから、反正帝が河内国内に都を置いたことに疑いを差し挟む必然性は低いのですが「丹比(たじひ)」という名で呼ばれる土地が帝の誕生以前からあったのかどうかは正直分かりません。ただ、美原町には、この地域の首長を葬ったものではないかとされる黒姫山古墳(全長114m、5世紀中頃、前方後円墳)があり、竪穴室石室の内部からは大量の鉄製武具および武器が発見されていますから、継体帝が「中継ぎ役」として大和勢力に迎え入れられる直前には、丹比周辺に強力な軍事力を持った集団が居たと考えられるのです。

イタドリは多年草  黒姫山古墳

もう一方の神様に手がかりは無いものかとWEBで資料を漁っていると、次の文書にめぐり合いました。これも、このサイトの常連さん達?にはお馴染みの『新撰姓氏録』に納められていたもので、第十五巻、右京神別に以下の記述があります。

  丹比宿禰(たじひのすくね)
  火明命の三世孫、天忍男命の後なり。子、武額赤命の七世孫、御殿宿禰の子、色鳴(しこめ)
  大鷦鷯天皇の御世に、皇子瑞歯別尊、淡路宮に誕生れましし時に、淡路の瑞井の水を御湯に灌ぎ奉りき。
  時に虎杖(イタドリ)の花飛りて、御湯の盆の中に入りき。
  色鳴宿禰、天神寿詞をたたへ、号を奉りて多治比瑞歯別命ともうす。

ここまでは記紀が伝えている誕生の物語と全く同じ内容なのですが、後段に次の一文が記されます。

  すなわち丹治部を諸国に定めて、皇子の湯沐邑(ゆのむら)としたまう。すなわち色鳴をもって宰として、
  丹比部の戸を領らしめたまひき。よりて丹比連と号けて、遂に氏姓となれり。

確かに「古事記」は仁徳記の冒頭で『大后石之日売命の御名代として葛城部を定め、また太子伊邪本和気命の御名代として壬生部を定め、また水歯別命の御名代として蝮部を定め』と明記しているのですが、皇太子や親王などの直轄領とされる湯沐邑の制度そのものは、かなり時代が下ってから整備されたもので、とても五世紀の河内に存在していたとは考えられません。「壬申の乱」(672年)の詳細をご存知の読者は「湯沐」の文字を見て、多品治(おお・ほんじ)の名前を思い浮かべたと思いますが、ここで寄り道をする訳にも行きませんので、先に進むことにいたしましょう。

イタドリの花が貴人の誕生などと共に語られる例としては、宣化天皇の曾孫「たじひこ王」に関する『日本三代実録』(成立は901年)の記述にも見られることから、古くから人口に膾炙した「物語」の一つであったことが分かります。そして、これまで見てきた幾つかの事実を総合すると、次のような答えを導くことが出来るのではないでしょうか。

  1 河内の美原一体は肥沃な土地で古くから開け、古代の「天皇」も一時、宮を築くほどであった(五世紀初め)
  2 その地域には、尾張氏の一族で軍事力に優れた集団が住み、住民を直接管理していた(五世紀半ば)
  3 火明命を祖先に持つ一族は、かつて君臨した大王にあやかり丹比連を名乗った。
  4 武装集団であった丹比連一族は大王家の軍隊として体制に組み込まれた(五世紀後半?)
  5 大王家の跡取りが不在となり、近畿地方の内情にも詳しい継体が中継ぎ役として登場した(6世紀初め)
  6 元々、尾張氏の娘を妻としていた継体(或いは宣化)は、自分の子の養育を河内の丹比連に任せた(6世紀前半)
  7 少なくとも飛鳥時代には大内裏を守衛する専門の氏族が存在するようになった(6世紀終わり)
  8 丹比の地に本拠を構えた帝室の一員は「多治比公(君)」の姓を授かり臣下に下った

西暦507年に即位したとされる継体帝は、河内を地盤とした河内馬飼首らを通じて畿内のあらゆる情報を入手していたと思われますから、後に門部(かどべ)氏族と呼ばれ、宮城の護衛役を務めることになる他の氏族(猪養部、海犬養部、伊福部、若犬養部など)とも何らかの交流があった可能性は高いと思われます。また「日本書紀」が継体帝の前妃について、

  尾張連草香の娘、目子媛という。またの名は色部(しこぶ)

としているのも「新撰姓氏録」にあった「色鳴(しこめ)」との繋がりを強く感じさせます。残った疑問は、その「丹比連」と『日本後紀』が伝える「備中、備後の多治氏」が果たして「同族」なのか?という一点です。これについてはWEB上で、

  備中国、阿賀郡丹部(たちべ)郷を拠点とした丹治氏がいた

との文章に遭遇したのですが、その根拠となる文献名が一切示されていませんので、あくまでも「参考」に留めておきたいと思います。ただ、吉備は6世紀以降、古代の主要な鉄の供給地であったことに間違いはありませんから、武器として、また農耕器具として有用な「鉄」を直接管理する目的で大和の大王家が、代官のような役目の人物を派遣し、その一族がもともと河内で勢力を誇っていた豪族と親しい関係を結んでいた(姻戚関係にあり、同じ姓を名乗る者があった)と想像することは難しくありませんし、それとは逆に、もともと吉備を地盤にもっていた豪族の一員が、製鉄などの技術力・財力を背景にして大和王朝の信頼を得て河内に移り住んだ可能性も捨て切れません。ただ、いずれにしても、平安京の「達智門(丹比門)」を造営し、その門を警護した多治氏(丹比連)と、宣化帝の流れを汲む多治比氏(公)は全く異なる一族であり、むしろ主従(上下)関係にあったと考えた方が良いと思われます。
帝室に生まれた子供には、我々市井の者の様な意味での名前(太郎・花子のような)はありませんから、その養い親・里親の「姓」を名乗ることが一般的だったようです。つまり「丹比連」の家族が育てた王子は「丹比皇子」と呼ばれ、帝室を離れる時には、その「丹比」を姓にもした訳です。従って、常識的に考えれば帝室の信頼が厚い臣下に「丹比」連と称する一族が有り、その氏族に養育された後、帝室を離脱した豪族が古い時代の先祖にあやかり「丹比(多治比)」公、真人の姓を授けられたと考えるべきなのでしょう。

「はんしょう天皇」さんの名前にもなったイタドリですが、昭和の中頃までなら山間部や里山は勿論、平坦部でもちょっとした空き地や小川・農業用水などの土手地でも頻繁に見ることの出来た多年草で、春が長けて、ようやく夏になろうとする頃、みるみるうちに成長し、他の草草を圧倒する勢いで生い茂ります。その筒状の茎は独特の酸っぱい味がしますが、これを食用にしている地域もあるようです。また、お隣の大国では古くから「虎杖根」と呼んで火傷の妙薬として知られているそうです。皆さんも、この春先、郊外山野に出かけられた折には、一度、その微妙な味?を楽しんでみてください。蛇足になりますが「イタドリ」の意味は「痛み・取り」だと言うことです。吉備と鉄については、次の回で取り上げたいと考えています。

いつものオマケを一つ、二つ。。詳しい生没年は分かっていませんが、八世紀の半ばころ宮廷で活躍し「万葉集」にも作品二首が採用された多治比真人(624〜701)の孫がいました。その一首は、

  難波辺に 人の行ければ 後れいて  春菜摘むるを 見るが悲しさ (1442)

というもので、作者名は多治比真人屋主(たじひ・まひと・やぬし)と言います。この人は嶋の息子で池守(いけもり、?〜730、平城京の造営長官を務めた)を父に持ち、西暦746年には備前守(国司)に任じられています。平安京造営を遡ること半世紀、吉備の国に地盤を広げるには格好の時期の就任だったと言えます。そして何より、屋主の実務担当者として「丹比連」の一族が吉備へ派遣されていたとしたら、物語の辻褄はうまい具合に合うことにもなりますね。また『続日本紀』によれば、和銅元年(708)3月に、多治比真人吉備を「備中守」に任じたと記録があります。嶋や三宅麻呂の一族だと思われるのですが系図上でも誰の子なのか確認できませんでした。名前と就任時期から推測すると、この「吉備」という人物こそ丹比門の造営に最も関わりが深い「当事者」だったのかも分かりません。真相は「藪の中」です?!

また『日本古代国家成立史論』(吉田晶著、1973年、東大出版会刊)という論文によれば、古代吉備、備前国の津高郡内に、

  健部 漢部 鞍作部 賀茂

の各「部」に並んで「蝮王部(タジヒノミブ)」が存在していたことが明らかで、天平五年(733)に完成し聖武天皇に献上された『出雲風土記』の記述にも、各地方を実質支配したと思われる郡司(大領)などの姓として「蝮部臣、蝮朝臣」の名前が散見されますから、八世紀に「蝮部」=「丹治部」が複数の国に設置され、その管理者たちが「蝮部」を自分たちの「姓」としていたことが分かっているのです。

郡名 意宇 島根 秋鹿 楯縫 出雲 神門 飯石 仁多 大原
大領 出雲臣 社部臣 刑部臣 出雲臣 日置臣 神門臣 大私造 蝮部臣 勝部臣
少領 出雲臣 社部石臣 蝮部臣 高善史 太臣 刑部臣 出雲臣 出雲臣 額田部臣
主政 林臣、出雲臣 蝮朝臣 ?部臣 吉備部臣 日置臣
主帳 海臣、出雲臣 出雲臣 日下部臣 物部臣 若倭部臣 神門臣、刑部臣 日置首 品治部 勝部臣

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