スサノオ・五十猛神親子と石凝姥、森と巨石                          「サイトの歩き方」も参照してください。

日本は世界でも有数の森林が豊かな国土に恵まれています。面積そのものは決して大きくはないけれど森林が全体に占める割合は凡そ66%もあって、そのうちの1,300万ヘクタールが天然林なのだそうです。日本書紀が伝えるところによれば、我が国が深い緑の木々で全土が被われる元になった樹木の種を最初に持ち込んだのは、古代記紀神話に登場するスサノオと息子の五十猛神(イタケル)たちでした。

  一書(第四)に曰く、スサノオの所行無状し。故、諸の神、科するに千座置戸を以てし、遂にやらう。
  この時に、スサノオ尊、その子、五十猛神を帥いて、新羅国に降到りまして、ソシモリの処に居します。乃ち興言して曰わく「この地は吾居らまく欲せじ」とのたまいて、
  遂に埴土を以て船に作りて、乗りて東に渡りて、出雲の簸の河上に所在る、鳥上の峯に到る。  (中略)
  初め、五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地には殖えずして、ことごとくに持ち帰る。
  遂に筑紫より始めて、すべて大八洲国の内に、捲き殖して青山に成さずということなし。(中略)即ち、紀伊国に所坐す大神これなり。

  杉および櫲樟(クス)、この両の樹は、以て浮宝とすべし。檜は以て瑞宮を作る材にすべし。柀(マキ)は以て顕見創生の奥津棄戸に将ち臥さん具にすべし。 (中略)
  時に、スサノオ尊の子を号けて五十猛命ともうす。妹、大屋津姫命、次に抓津姫命。すべて此の三の神、また能く木種を分布す。
  即ち紀伊国に渡し奉る。然して後に、スサノオ尊、熊成峯に居しまして、遂に根国に入りましき。  (第八段、一書第五)

アマテラスとの誓約(うけい)に勝利したスサノオは有頂天になり、高天原で大暴れ(甚だ悪い所行)したため彼女が天石窟に隠れる騒ぎとなり、神々から追放されたスサノオは出雲国に降り立ち、有名なヤマタノオロチとの対決に臨むことになるのですが、この植林の話は足摩乳、手摩乳と奇稲田姫の親子に出会う直前の場面で語られています。鉄や銅を得るためには熱源となる多量の木材が欠かせません。製鉄氏族の代表でもある天孫族のリーダー・スサノオに相応しい伝承が、紀国だけに限らず全国で広く語り継がれていたのかも知れません。父親と共に全国を「青山」に代えた五十猛神は紀国で伊太祁曽神社に祀られます。この神様の名前に含まれている「五十(い)」の文言は一族にとって「瓊」などと同様に権威(正統性)を象徴する大切な言葉の一つで、、崇神天皇の諱・御間城入彦五十瓊殖命や垂仁天皇の諱・活目入彦五十狭茅命あるいは皇子とされる五十瓊敷入彦命などの名前として受け継がれています。

森は資源の宝庫  山並と田畑  伊太祁曽神社

 生石神社  現代の石切り場

森林浴が持てはやされ一時はブームを巻き起こしましたが日本人の旅好き、温泉好きとならぶほど、最近では山歩きや里山巡りを楽しむ方も増えているようです。また幾つもの「名所」が世界遺産に登録され有名な社寺建築等への関心が一層深まったことがあるのでしょうが、昔は「霊験あらたか」と控え目に表わしていた神仏の「御利益」を、今の人々は「パワースポット」などと云い換えて、社寺詣でを実生活の場からは解放された憩いの場、心の洗濯場と捉えて楽しんでいるのかも知れません、それはさておき。確かに我が国には青い森が広がり、報道では山間部の一部で獣害まで伝えられる程自然が豊かなのですが、その一方で、古代の神々は樹木ではなく巨石、磐座を自らの居場所・祀りの庭として好んでいたように見受けられます。また、天孫の後裔たちだけに限ったことでは有りませんが、古墳時代に入ると豪族の有力者たちも一様に大きな石の棺を己の終の棲家としています。エジプトのピラミッドや英国のストーン・サークル或いはドルメンなど巨石建造物は世界各地に散見されますが、古代日本も例外ではなかったようで、スサノオの悪行に堪忍袋の緒が切れてしまったアマテラスが隠れた場所も「天岩屋」だったのです。記紀の神話が古墳築造の実態をどの程度反映したものであるのかは不明ですが「播磨風土記」が神功皇后の「業績」の一つとして夫・仲哀天皇の棺に必要な石材を求めた逸話を次のように記録しています。

  この里に山あり。名を伊保山という。帯中日子命(仲哀)を神に坐せて、息長帯日女命、石作連大来を率いて、讃岐の国の羽若の石を求ぎたまいき。 (中略)
  原の南に作石あり。形、屋のごとし。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもかくの如し。名号を大石という。       (印南の郡:作石は石の宝殿で知られる生石神社の御神体)

四世紀末から五世紀初めには既に石材の切り出しと加工を業とする専門集団の「石作」が存在していたようで、播磨には宍禾郡に「石作の里(本の名は伊和=イワ)」があり、石に関わる人々が多く住み着き活動していたことが明らかです。スサノオの娘・須勢理毘売姫と一緒になった大穴牟遅神(大国主)は妻を「背負い」手には生太刀と生弓矢そして天の詔琴を持ち抱えて大神の許から「逃げ出し」ますが、その時、スサノオは、

  意禮(おれ=お前)、大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が娘、須勢理毘売姫を嫡妻(むかひめ)として、宇迦能山の山本に
  底津岩根に宮柱布刀斯理(みやはしらふとしり)、高天の原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て居れ。この奴。

と娘婿に最大級のエールを贈りました。舅の助言に従い国造りに専念したオオクニヌシでしたが、予期せぬ重大な試練に遭遇します。高天原の主アマテラスが、自らの孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に葦原中国を「譲る」よう何度も使者を彼の元に送り込み、遂には力ずくで「国譲り」を実現させたのです。そして記紀神話の最大のクライマックス天孫降臨の場面が展開される訳ですが、天照大神は孫に「八坂瓊の曲玉、八咫鏡、草薙剣(三種の宝物)」を与え「天児屋根命(中臣)、太玉命(忌部)、天細目命(猿女)、石凝姥命(鏡作)、玉屋命(玉作)」の五つの部の神々をお供にしてニニギノミコトを天降らせたと書紀は記しています。スサノオたちの植樹はつい一世代ほど前、最近の出来事だったはずなのですが、所謂「五伴緒」と称される随身たちの中に林業関係者の姿は一柱も見当たりません。「中臣、忌部、猿女」の各氏を祭祀担当だとすれば、後の二氏は神器の係ということになるのでしょう。その中で筆者が注目したのが名前に「石」の字を含んだ「石凝姥命(イシコリドメ)」です。この女神は「諸系譜」第十四冊によれば鏡作連(かがみつくり・むらじ)の祖神で春日部村主の祖先でもありますが、世代的に見て「オオクニヌシ(実体は天津彦根命か?)」の子供たちと同じ頃に活躍したものと推測されます。

祭神はイザナギ  古代の採石の跡  PR

天津彦根命はオノコロ・シリーズが何度も繰り返し紹介してきている、我が国の金属神の元祖とも言うべき存在ですが、彼の子に天目一箇命という極めて象徴的な名前の神様がいます。そして、天目一箇命の別名が「天御影命」と云い、近江の鏡神社で祀られており、鏡作連とも極めて密接な関係にあったと考えられるのです。可能性としては石凝姥命の配偶者という立場が相応しく思えますが、それを証明できる資料は未見ですので断定は保留しておきます。ただ、この女神については、父神の名が天糠戸命と云って天孫系の出自を思わせ、親子ともども大和の鏡作神社の祭神ですから、天津彦根命の一族たちとも近しい間柄だったことは確かなようです。神話の世界の事とは言えスサノオ親子の「事業」が全く受け継がれていない様に見えるのは時代の移り変わりを反映しているのかも知れません(註:鏡作なのに何故『石』が名前に入っているのか不思議ですが、これは石の型で鏡を作った名残ではないかとする説があります)。

神話の時代に押し込められたスサノオの業績は、記紀が編まれた八世紀の「今」を生きる朝廷人たちにとって余りにも現実味に欠ける伝承の一つに過ぎなかったのでしょう。それに比べ、邪馬台国の卑弥呼が鏡を好んだと魏志が伝え、皇祖アマテラスが子孫に与えた「八咫の鏡」は神宝の一つとして神宮祭祀の核となって存続しました。従って、古墳時代を経た奈良朝の「今」でも鏡作氏たちの技術は継承され、石作たちの仕事内容が「神話」の世界に埋もれた後も尚、鏡の神秘性は保たれたのではないでしょうか。かつて神々が降臨した山頂には磐座が聳えていましたが、崇神帝や垂仁帝の時代を経て祖神を祀る社の建築が進み、姿を決して見せることのない神様の代わりに鏡や剣などの神器が社屋の最深部に安置されるようになると、古墳時代を通して維持されてきた巨石への信仰も徐々に変化したのだと思われます。木々を全土に生い茂らせた神々の子孫が巨岩、磐座に最高の価値を認めていたのは、そこに鉱物資源が眠っていたことと無関係では無かったと思われます。その意味で森林と岩山は決して相矛盾する存在では無いのかも知れません。神社が山そのものや巨岩を「御神体」として崇めるのも故なしとは言えないのです。

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