」と書いて「いわ」と読ませる神社               「サイトの歩き方」も参照してください。

大阪府と奈良県の府県境近くにある石神社は、その祭神が詳らかではありませんが、江戸期にはどういう理由からか熊野権現と称していたようで、場所柄故に古代豪族との関係をつい思い描いてしまいます。と云うのも同社がブドウやワインで知られる柏原市大県の地に鎮座しており、その近くには鐸比古鐸比売神社が建ち、更に大和川沿いに南東に進むと天湯川田神社(下右の画像)と宿奈川田神社などの社が存在し、鍛冶製鉄に関わりの深かったと思われる神様たちが祀られているからに他なりません。

記紀が伝える数々の出来事の多くは「後世の史家が机上で編集文飾した虚構」だから、そこには歴史的な価値を見出すことが出来ない、とする見方が多く見られますが、物語であれ伝承・伝聞の類であっても全くそこには史実の欠片も反映されていないものでしょうか?むしろ正式な歴史書ではなく「言い伝え」の形でしか後世に残せなかった「お話」の方が大多数なのではないか!などと斜めに構えた筆者の目には、様々な空想に支えられた無数の場面が見え隠れするのです、それはさておき。鉄のお話を続けます。

今、薬や酒あるいは知恵の神様としてお祀りされることの多い少彦名命は、神話時代の神々の系譜では「オオクニヌシの兄弟」(神産巣日神或いは高皇産霊尊の子供)であると位置づけられ、二柱が協力して出雲地方を中心にした「国造り」に励んでいましたが、ある日突然オオクニヌシの前から姿を消してしまいます。古事記は「常世国に渡った」としか記録していませんが、海の彼方にあるとされる理想郷を目指して別行動を取ったのかも知れません。書紀は少彦名命が立ち去る前『或るは成せる所も有り。或るは成らざる所も有り』と自らの国造りの結果について辛口の評価をしていた事を伝えていますが、ゆっくりと出雲の地に留まってはいられない理由があったとも受け取れる内容です。出雲に象徴される日本海側の重要拠点の完成を待たずに急いで駆け付けなければならない「事案」とは何か?それは大和朝廷発足に関わるもの以外には考えられません(書紀第六の一書は『少彦名命、行きて熊野の御崎に至りて、遂に常世郷に適しぬ。また曰く、淡島に至りて、粟殻に登りしかば、弾かれ渡りまして常世郷に至りましきという』とも述べて命と「淡島」とのつながりを暗示していますが、天孫族と阿波国との縁を考えれば少彦名命あるいは命の後裔たちの行動の一端を示唆しているのかも知れません。斎部広成の『古語拾遺』にも天日鷲命が阿波忌部氏の祖とあり、物部氏の『神祇本紀』にも阿波の忌部の祖の天日鷲神に木綿を作らせたとありますが、この神様も少彦名命と同神です)。

石神社  鐸比古鐸比売神社 

いつもオノコロ・シリーズで利用する「新撰姓氏録」には鳥取連について『角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也』(右京、神別)の記述があり、更に、

   垂仁天皇皇子誉津別命 年向三十不言語 于時見飛鵠 問曰此何物 爰天皇悦之 遣天湯河桁尋求 詣出雲国宇夜江捕貢之 天皇大嘉即賜姓鳥取連

という注釈文も併せて掲載しています。石神社とは直接関係のない話だと思われるかも知れませんが、実は大阪南部いわゆる「泉州」と呼ばれている大阪湾に面した地域は古代王朝の発展期に大切な役割を果たしています。記紀が描いた建国「神話」を読むと、九州に居た神武天皇一族は先住の情報通から「東」にある美しい豊かな土地の存在を告げられ、勇んで出立しました。瀬戸内から河内湖に進み難波の白肩の津に上陸して大和盆地入りを目指しますが、そこには強力な反対勢力(長髄彦)が居て退却を余儀なくされます。そして神武帝たちが選んだ迂回路が紀伊國から北上するというものでした。その時、熊野の地で「皇軍」は神の毒気に触れて倒れ込んでしまいます。この最大の危機を救ったのが高倉下と八咫烏(ヤタガラス)だったことは良く知られている逸話です。

同じ「姓氏録」には又次のような記録もあります。

  賀茂県主  神日本磐余彦天皇(謚神武) 欲向中洲之時山中嶮絶 跋渉失路 於是神魂命孫鴨建津之身命 化如大烏翔飛奉導 
          遂達中洲 天皇嘉其有功 特厚褒賞 天八咫烏之号 従此始也

解説を加えるまでもありませんが、賀茂県主という豪族の祖先である「鴨建津之身命」は、神武天皇が「失路」した時「大きな烏」の如くに変身飛翔して先導し、遂に「中洲」に達することができたので、大変喜んだ天皇から「天八咫烏」という称号を得た、と主張している訳です。つまりヤタガラスは「カモタケツノミ」という名の持ち主(人)だったことになります。全く同じ内容の伝承が山城国風土記逸文にもあり、鴨氏が代々言い伝えた始祖伝説だと思われますが、幾つかの頁で詳細を述べたように、この鴨建津之身命は少彦名命の別名に他なりません(物的な資料を示せないので憶測になりますが『ツノミ』は茅渟の海つまり大阪湾の訛ったものではないかと最近考えるようになりました)。

波太神社  大県遺跡の出土品 

ホムツワケの白鳥伝説に登場する天湯河桁(天湯河板拳)は「角凝魂(スサノオ)の三世孫」とありますから、ちょうど天忍穂耳命の世代に当たり、これは天津彦根命の別名でもあります。ですから垂仁天皇と同時代(およそ四世紀半ば頃)の人ではあり得ないので、恐らく淡輪近くで五十瓊敷入彦命(後の景行天皇)と行動を共にしていた製鉄部族鳥取氏の長が、自分たちの祖先でもある天湯河桁を顕彰する意味合いを含めて伝承した説話なのだと考えられます。鳥取連(元は鳥取造)が拠点としていたのも大阪湾岸にある和泉国日根郡の鳥取ですから、神武帝の中洲入りを強力に支援したヤタカラスの後裔たちは、紀州和泉河内の各地に敷衍し鍛冶製鉄を通して政権を支え、同時に自らも更に活動拠点の移動拡大に努め、大王たちの期待に応えていたのだと推測されます(波太神社の祭神は角凝魂と応神天皇)。

さて本題の「石」ですが、大県にある鐸比古鐸比売神社の祭神は、鐸石別命(ヌデシワケ)という余り聞きなれない神様です。この命は系譜上「垂仁天皇の皇子」(皇后日葉酢媛命の妹である渟葉田瓊入媛との間に生まれたとされる)という地位を与えられていますが、その代表的な子孫が和気氏であることから、元々吉備を地盤とした豪族で恐らく応神天皇の大王即位以降に畿内へ進出してきたと思われます。「姓氏録」に、

  垂仁天皇皇子鐸石別命之後也 神功皇后征伐新羅凱帰 明年車駕還都 于時忍熊別皇子等 窃搆逆謀於明石堺 備兵待之皇后鑑識 遣弟彦王於針間吉備堺 
  造関防之所謂和気関是也 太平之後録従駕勲 酬以封地仍被吉備磐梨県 始家之焉 光仁天皇宝亀五年 改賜和気朝臣姓也 続日本紀合

とある様に同氏はもともと「磐梨(イワナシ)」を本姓としていましたが、製鉄冶金に関わる新しい技術(者)をもって大和政権の中枢にまで影響力を及ぼすまでの存在になり得たのも、祖先を同じくした息長系大王・応神が実力を認めたからなのでしょう。大県には五世紀後半以降に稼働したと見られる製鉄遺跡が確認されています。盤石の基である「磐」は「鉄」と同意義であり、石神社は少彦名命の時代から連綿と国の基盤を支えた鉄氏族たちの記念碑と云えそうです。以前紹介した京都八幡市の石田神社も磐衝別命を祀り「いわた」と読ませるようなので、同じ製鉄氏族の社と見て良さそうです。

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