明治・大正期を代表する歌人の一人石川啄木(いしかわ・たくぼく、1886〜1912)は、初めて出版した歌集『一握の砂』(いちあくのすな、明治43年12月刊)の中で、
ふるさとの訛なつかし停車場の 人ごみの中にそを聴きにゆく
と、望郷の思いを込めて「そ」(地方独特の言葉づかい、方言)について極めて文学的に表現していますが、いと文学的ではない、このページでは聞きかじりの記憶だけを基に、管理人なりの方言教室を開催します。ただ、なにぶん出雲の、とある田舎町に3年間あまり暮しただけの半端な知識しかありませんから、妙な勘違いや聞き間違いもあると思いますので、少しは眉にツバをつけながら読んでいただく方が無難かも知れません。また、他の歴史ものの雑文と同様、言葉について専門的な考察をして、高尚な「説」を展開する場では更々ありませんので悪しからず。
中也と同様に「地方」出身の石川啄木
ところで啄木は、皆さんもご承知のように明治の半ば(19年)岩手県に生まれ、旧制盛岡中学校に進んだ後、文学を志した人物ですが、年代的に言うと、このサイトの主人公である中原中也(なかはら・ちゅうや)より一世代上の年代に属すると考えてもらえば良いと思います。啄木の作品は、彼の名前は知らなくても、どこかで見聞きした経験のある方が多いのでは。そこで、もうひとつだけ、引いておきましょう。
東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
方言という言い方は、勿論「中央」(今なら東京、明治以前であれば京都)に住む人々から見たもの(地方で使われる言葉=方言)であることは明白なのですが、それは逆に見れば、どの地方にも独特の言い回し、表現の方法があるということであり、それは、大袈裟な言い回しをすれば「文化」そのもの(地方の生活全てを含めて)だとさえ言えます。関西にある小さな町で育った者にとって出雲の言葉は、初め、到底理解不能な異質なもののようにも思えたのですが、その土地で暮らし慣れてみると意外に面白い言い回しが多いように思えたり、歴史を反映した「古い」意味の深い言葉のようにも感じたものです。また、学生の頃、ライブではなかったのですが、昭和40年代に一部の人の間で人気を博していた津軽三味線の初代高橋竹山(たかはし・ちくざん)の公演を録音したLPの中で、彼が語る訥々とした青森弁に、ほのぼのとした懐かしさを感じている自分自身が居たことが昨日の事のように思い出されます。また、俗に出雲・東北の言葉を総称して「ズーズー弁」などと表現する向きが多いようですが、出雲に限って言うなら、むしろ「にゃーにゃー弁」と言うほうが正しいような気がしています。正確には「にゃ」ではなく「ねや」という言葉の語尾がなまったものだと考えているのですが、先に進む前に、とりあえず、出雲弁が一体どのようなものなのか、実例をあげることから始めましょう。ただ、以下にあげる言葉は管理人が恣意的に取り上げたものばかりですから、これ以外に出雲地方で使われている独特の言い回し、言葉が存在しないという訳ではありません。また、このページに限らず言葉を音として書き表す場合の限界というものもありますので、土地土地で使われているニュアンスも、そのまま伝えているとは言い難い部分があることを承知してください。それから、当たり前の講座なら、方言に対する「標準語」を列記するのでしょうが、ここでは例文としてあげる言葉以外は特に解説はしませんので、皆さんがそれぞれに想像してみてください。
| あがーましぇ | あかくら | あげ | あくたいもくたい | あくだれる | あじきない | あじる | あだん |
| あなんぽ | あのし(あのさん) | あばかん | あやがねぇ | あんまし | |||
| いけずご | いとがね | いとしげな | いわえー | いらくらし | いらしじ | ||
| えー | えーすこ(えしこ) | えーたい | えがん | えーきび | えなう | えなげな | えっと |
| えもっちぇ | えんきょ | ||||||
| おいでました | おかえる | おきすき | おじき | おぜめ | おちらと | おっかおっか | おとで |
| おべた | おもっしぇ | おらおらと | おんぼらと | おんごおんご |
言葉の多様さは、そのまま文化(精神的な生活)の豊かさにつながっているものだと思いますが、その典型が日常でかわされる「あいさつ」ではないでしょうか。極論かも知れませんが、地方での挨拶の細やかさは、その土地の言葉を共有している人々の心のゆとりを感じさせる一面があります。(その反面、言葉が潤滑油の役割を果たさなくてはならない、複雑で多様な人間関係が存在しているから、挨拶が大切にされている、とも考えられます)たかが挨拶、そんなものは表面的な儀礼にしか過ぎないものだ、という文化的な人たちも一方には存在するのですが…。
だだもの、だんだん。べったべった、おしぇわさんになりましてねぇ、
まあ、これが一般的な挨拶ともいえるもので、意訳すれば「いつも、お世話になり、ありがとうございます」といったところでしょうか。親しい間柄であれば冒頭の「ただもの、だんだん」に簡略化されます。つまり「ただもの」は「平素から、いつもいつも」という意味があるのですが『お作法』シリーズ(「燃えるオートバイの正しい消し方」)でご紹介した、あの燃えるバイクを見事に自分の息だけで吹き消した須藤君の友人で、お花の師匠でもある遠藤君は、友人宅を訪ねて玄関を入るなり『ただものー』と、一声を発することで有名でした。勿論これは若者独特の衒いであって、わざと大人たちの日常会話の一部分を強調して笑いの種にしていた訳です。そして、迎え入れた友人たちも「ただもの」と応えたことは言うまでもありません。
あたしは江戸っ子よ、食事中に失礼ね。
では「あ行」の言葉を幾つか取り出して、出雲の雰囲気を味わってみることにしましょう。会話の場所は中学校の同窓会の席です。たまたま出席できなかったA君の近況について、かつての級友たちが話しています。
Aさんは、いま、どげしとられるぅ。今日も、きとられんが。
あのさんは、ちょっと、おぞいとこがあったがぁ。
そげだらか?仕事はえーすこにされーらしいと。
こなも、ほんに、おせになったのぉ、あげないけずごだったに。
なんとなくA君の姿が仄見えましたか?「おぞい」は「恐ろしい」からきたもので「怖い」、「おせ」は「大人」という意味です。つまり「いけずご」(わんぱく)だったA君も「おせ」になり仕事も「えーすこ」(良い具合)にするようになった、という内容です。また、ここで出てきた「どげ」「そげ」「あげ」という言葉は出雲弁の特徴を知る上で大切なもので、意味するところは「どんな、どのように」「そんな、その様な」といった意味があります。そして、これらの言葉は「どげ」(どんな、どの様な)、「こげ」(こんな、この様な)といった形でも日常的に頻繁に使われ、「そげそげ」と二重になった場合は「そうそう」「その通り」という肯定の意味にも変化します。従って、ある事柄について話している最中に、一人の人が話題について、
あげだらか?
と言ったのなら「そうなのだろうか」という問いかけになるわけで、之に対してもう一人が「あげだと」と相槌を打ったのは話しの内容を肯定したことになり「あげあげ」と続けば、その話題の内容が正しかったことになる訳です。 また、これらの言葉は「あげん」「そげん」「こげん」「どげん」などと「ん」を語尾に付ける形に変化しますが、それが、もう一歩進むと「あぎゃん」「そぎゃん」「こぎゃん」「どぎゃん」のように「げ」の音が「ぎゃ」にまで代わるのです。また、おのおのの言葉に「な」を付ければ「何々のような」の意味が生まれ「か」を付けると疑問形、問いかけに変化します。余り説明が長くなると余計にこんがらがってしまう恐れがあれますので、以上の要点を表にまとめてみましょう。
| 基本 | 様子 | ん変化 | 疑問 | 疑問丁寧 | ぎゃ変化 | 肯定 | 説明 | |
| あげ | あげな | あげに | あげん | あげか | あげかね | あぎゃん | あげあげ | |
| こげ | こげな | こげに | こげん | こげか | こげかね | こぎゃん | こげこげ | |
| そげ | そげな | そげに | そげん | そげか | そげかね | そぎゃん | そげそげ | |
| どげ | どげな | どげに | どげん | どげか | どげかね | どぎゃん | ||
最初に出雲弁を「にゃあにゃあ弁」だと紹介しましたが、これは上の表でも分かっていただけるように、出雲地方で話される言葉の丁寧な言い方には、語尾に「ね」を付けることが多いのです。これは、別に出雲に限ったことではないと思いますが、土地の人が「ね」あるいは「ねー」と言ったとき、よそ者の耳には、それが「ねゃ」「にゃ」と聞えてしまうのです。だから、会話をしている者が、お互いに丁寧な言葉づかいで話せば話すほど、外部の者の耳には「にゃーにゃー」という音が断続的に飛び込んでくる、という訳なのです。では、次回の講座をお楽しみに。
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