神功皇后と大魔神と疣水神社について                                   「サイトの歩き方」も参照してください

「大魔神」をテーマにした三部作が大映から封切られたのは、今から丁度半世紀前の昭和41年(1966)だった。時代劇に特殊撮影を活用した斬新さと、地域の守り神である「石像」が村人の願いに応えて復活し、大暴れするという奇抜な筋書きが大いに人気を博したものです。人々の暮らしを支えてきた守り神の穏やかな顔つきが、一瞬で「鬼」かと見まごう恐ろしい形相に変わる処が一番の見所なのですが、近畿大阪にある余り知られていない神社にも、これと同じでは有りませんが面白い「伝説」が残されています。大魔神の舞台は戦国時代の丹波の国でしたが、伝承の主人公も丹波と深いつながりがあるのです。

日本書紀によれば景行天皇は治世五十八年の春二月、近江国に行幸しますが、帝はそのまま「志賀」に三年間余り居続けて亡くなり事実上遷都した形となりました。書紀も、その理由については何も記しておらず、古事記は景行の近江遷幸そのものを記録していないのですが、このオノコロ・シリーズでは垂仁天皇の娘婿となって朝廷内で次第に存在感を増していた稲背入彦命が、近江の鉄資源開発を積極的に大王に勧めて、製鉄技術集団を擁して財力を膨らませていた息長氏の影響力を、十二分に発揮できる近江の高穴穂宮(大津市穴太)への遷都を実現させたのだろうと推理しています。古事記に記述が無い点は少し気がかりでもありますが、景行の子供、稚足彦(ワカタラシヒコ、成務天皇)が『近淡海の志賀の高穴穂宮』で「天の下を治」らしめたのは確かですから、何れにせよ大和から都が移されたのは間違いありません。古代の大王たちは自らの即位に合わせて「新しい都」に移るのが通例であった事を考慮すると、成務帝が近江に遷都したと解釈するのが良いのかも知れませんが…、それはさておき。政権は成務に『男子がいなかった』ため景行の孫・仲哀天皇(タラシナカツヒコ、倭建命の子)に引き継がれ、彦人大兄王の娘・大中姫を妃として迎えた後、二年春正月に外国遠征で有名な気長足姫尊(オキナガタラシヒメ)を皇后としました。(この彦人大兄王とは息長氏の祖とも言うべき存在で、稲瀬比古命あるいは稲背入彦命とも呼ばれる人物で、応神天皇の父親ではないかと推測されます。書紀は彦人大兄王を仲哀の『叔父』と表現し、彼の父親を倭建命の弟に位置付けています)

 書紀の神功立后記事は見方によって異常とも思われます。古事記の開化段には確かに、日子坐王--山代大筒木真若王--迦爾米雷王--息長宿禰王--息長帯比売命 
 の系譜が記されていますが、書紀は皇后となった姫が「誰の娘」であるのかも示さず、夫の仲哀帝は即位の翌年、角鹿(福井)に移り仮宮を建てた後、南国巡りに出かけます。

仲哀が二三人の側近と少ない供ぞろえで紀国の名草郡に到着した時「熊襲」謀反の知らせが届き、帝は即座に征伐を決意して、皇后に穴門(山口)で合流しようと伝えます。二人が揃った処で穴門豊浦宮を建て万全の準備を整えて「八年」の春正月、更に西に進み筑紫に到った仲哀帝の前に「皇后に託った」或る神様が次のように「誨(おし)え」ます。

  天皇、なんぞ熊襲の服はざることを憂えたまう。これ、そししの空国ぞ。あに、兵を挙げて伐つに足らんや。この国に優りて宝有る国、例えば乙女のまよびきの如くにして、
  津に向かえる国有り。眼かがやく金・銀・彩色、多にその国に在り。これを𣑥衾新羅国と云う。(以下略)

神功皇后陵  神功皇后(瀬川路孝)  大魔神のポスター   PR

疣水神社  天照御魂神社

敢えて意訳すれば、この神様は『熊襲の事など心配することはない。それよりも金銀の財宝豊かな国がある、それが海の向こうの新羅だ』『私を丁寧に祀るなら、お前が、その宝の国を手に入れる事が出来るようにしてやろう』と天皇に持ちかけた訳です。四世紀末ごろと思われる当時、神の託宣はとても有り難いものとして大切に扱われていたはずなのですが、小高い丘に登って遥かな大海を臨み視た仲哀の心に神への「疑いの情(こころ)」が芽生えたのです。

  朕、周望すに、海のみ有りて国無し。豈、大虚に国有らめや。誰ぞの神ぞ徒に朕を誘(あざむ)くや。
  また、我が皇祖諸天皇たち、ことごとくに神祇を祭りたまう。あに、遺れる神有さんや。

自らの言葉を疑われた神は『私を信じない者に宝の国を得ることは出来ない。但し、皇后のお腹の中にいる子供が得ることだろう』と重ねて託宣したのですが、それでも帝は従わず熊襲討伐を進めたのですが、成果を得られないまま九年春二月に急逝します。書紀は仲哀紀の最期を「時に、年五十二。即ち知りぬ、神の言を用いたまわずして、早く崩りましぬることを」の文言で締めくくっていますが、古事記によれば琴を弾いて「神をよせて」いた天皇が『詐りを為す神だ』と言い放ち琴を押しのけると、その神が「大変忿り」だし『凡そ、この天か下は汝の知らすべき国に非ず。汝は一道に向かいたまえ』と言い放ったと有り、天皇は竹内宿禰の勧めで再び琴をしぶしぶ弾いたものの、しばらくすると琴の音が消えて、暗闇の中に居た帝は既に此の世のものではありませんでした。これで夫に代わって皇后が遠征に出かける舞台が出来上がります。

随分と長い前置きになってしまいましたが、開化天皇の曾孫で気長宿禰王の娘である気長足姫尊が「天皇に代わって」海外遠征に出かけることになったのは『天皇が、神の教に従がわずに早く崩った』からであると云うのが記紀の立場で、大祓を行い「罪」を祓い過を改めた後「暫く男の貌(すがた)を借りて」出陣することになりました。大阪茨木にある磯良神社(通称、疣水神社)に伝わっている奇譚は、その折のものとされ、

  戦勝を祈願した皇后が、神社の井戸の水で顔を洗うと、たちまち顔中に醜く恐ろしい貝殻のような疣が現れ、男の様な形相になったのですが、
  勝ち戦の報告とお礼に訪れた皇后が、再び、聖水で顔を洗うと、不思議な事に、元の美しい顔にもどった

のだそうです。この神社の祭神は海人の崇める安曇磯良ですから、全国各地を東奔西走する息長氏の軍団の海上輸送を一手に引き受けて、全面的な信頼を寄せられていたことが容易に推測されます。神功皇后の海外出征についても、磯良が潮の満ち干を自在に操ることが出来る「珠」を献上したので成功したという伝承もある程なので、皇后への支援だけに留まらず安曇一族が応神王朝の誕生にも寄与していた可能性がありそうです。また、系譜的に見ても安曇族は「海神=ワタツミ」であり、初代神武天皇の母親である玉依姫を出した古い氏族でもありますから、神功が磯良の助けを得られた話の背景には、天孫族すべてが応神の登場に賛意を示しているのだと言いたい編者たちの意図が横たわっているようにも感じます。

おまけ話と云うほどでもありませんが磯良社にまつわる伝承をもう一つ紹介しておきます。この神社は元々から今の形で祀られていたのではなく、現在、少し離れた場所にある新屋坐天照御魂神社の境内社だったものが、本体のお宮さんが別の処に遷ったため、江戸時代の初め(1669)に独立した社となったものです。その「天照御魂」と称される神様は皇祖のアマテラスではなく、同じ天孫族でも物部氏の祖・ニギハヤヒではないかと考えられるのですが、神功皇后は同社にも戦勝祈願したと伝えられています。神々の系譜について十余年資料を漁ってきた筆者は、その「天照御魂(アマテルミタマ)」と称される神様こそが、天孫族の祖先神でありアマテラスは後に作りだされた神様だと思うようになりました。(蚕の社や三柱鳥居で知られる京都の木嶋坐天照御魂神社も何か関連があるのかも知れません)

 TOP  
   
 人気のページ   オオクニヌシは居なかった   石川五右衛門の仲間たち   お地蔵様の正体を探る   トランペットの正しい吹き方   出雲の阿国は歌舞伎の元祖