神功皇后と息長足姫命と応神天皇                                                      「サイトの歩き方」も参照してください。

応神天皇の母親は、仲哀天皇の正妃である息長足姫命つまり神功皇后である、というのが記紀が記録している「公式」な皇統系譜であることは良く知られています。ただ、WEBなどでは『応神帝は実在性が認められるが、神功皇后の存在は疑わしい』といったニュアンスの解説が散見され、その根底には「四世紀末ごろの倭国には遠く海外に派兵などするだけの国力は無く、皇后の手柄話は記紀の編集者たちが机上で作り上げた荒唐無稽な物語に過ぎない」とする判断があるようにも思えるのですが、それでは応神の母親が、古事記などの主張している息長足姫命では無い、彼女が実在していなかったと仮定するのなら、応神を産んだ女性は一体誰だったと云うのでしょうか?古代史に登場する多くの人物の「実在性」を問題視する人の中には、いとも簡単に大王や豪族たち更には彼等の后妃・子女を歴史の舞台から一方的に葬り去ろうとしますが、例え、幾つもの謎に包まれた応神帝であっても誰かと、その妻の間に生れた「子供」であったことに変わりはありませんから、古い資料に残された人物たちを次々に否定するだけで終わってしまうのではなく、限られた情報を頼りに想像力を総動員して、該当するであろう人物像を復元してみることが大切なように思うのですが、如何でしょう。

息長足姫命の身元を特定できそうな資料は極限られていますが、古事記は開化天皇の后妃、子孫を列記した個所で次のような系譜を示しています。

  この天皇、又、和邇臣の祖、日子国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶して生みませる御子、日子坐王。(中略)
  次に日子坐王、山代の荏名津比売、またの名は苅幡戸辨(カリハタトベ)を娶して生める子、大俣王つぎに小俣王。(中略)
  また近淡海の御上の祝がもちいつく天御影神の女、息長水依比売を娶して生める子は丹波比古多多須美知能宇斯王(丹波道主王)。(中略)
  また其の母の弟、哀祁津比売命を娶して生める子、山代之大筒木真若王。次に比古意須王。(中略)
  次に山代之大筒木真若王、同母弟伊理泥王の女、丹波能阿治佐波毘売を娶して生める子、迦爾米雷王。この王、丹波の遠津臣の女、名は高材比売を娶して
  生める子、息長宿禰王。この王、葛城の高額比売を娶して生める子、息長帯比売命。次に虚空津比売命、次に息長日子王。

  略系譜

次に参考となる資料は、記紀で扱い方(呼称、名称、続柄など)がやや異なる「天日槍(天之日矛)」の来朝にまつわる記述です。まず、書紀の垂仁三年春三月のこととして以下のような記事が記されています。

  ここに天日槍、菟道河より遡りて、北、近江国の吾名邑に入りて暫く住む。また近江より若狭国を経て、西、但馬国に到りて即ち住処を定む。ここを以て、
  近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍の従人なり。故、天日槍、但馬国の出嶋の人、太耳(前津耳)が女、麻多烏(麻拕能烏)を娶りて但馬諸助を生む。
  諸助、但馬日楢杵を生む。日楢杵、清彦を生む。清彦、田道間守を生むという。                    (註:田道間守は垂仁天皇の時代の人)

それから「八十五年」後の垂仁八十八年秋七月条には、垂仁が『天日槍の曾孫、清彦』に祖先が持参したと伝えられてきた「宝物」を献上させたとあり、更に、二年後には清彦の息子の田道間守を常世国に遣わした事になっていますから、後世の編集作業の過程で登場人物たちが暮らしているはずの時間軸が相当混乱してしまった様子が窺えます。一方、古事記には時代が大きく下って、応神天皇の業績を紹介した記述の中で「過去」の出来事として紹介されています。

  また昔、新羅の国主(こにきし)の子有りき。名は天之日矛と謂いき。この人、参渡り来つ。(中略)
  ここに天之日矛、その妻(阿加流比売)の遁げしことを聞きて、すなわち追い渡り来て、難波に到らんとせし間、その渡の神、塞えて入れざりき。
  故、さらに還りて多遅摩国に泊てき。すなわち、その国に留まりて、多遅摩の俣尾(麻多烏)の女、名は前津見を娶して生める子、多遅摩母呂須久(但馬諸助)。
  この子、多遅摩斐泥。この子、多遅摩比那良岐。この子、多遅摩毛理(田道間守)。次に多遅摩比多訶、次に清日子。この清日子、當麻の咩斐を娶して生める子、
  酢鹿之諸男。つぎに妹菅竃由良度美。故、上に云える多遅摩比多訶、その姪、由良度美を娶して生める子、葛城の高額比売命。此れは息長帯比売命の御祖なり。

記紀の記事を見比べて大きく異なる点は三つあります。先ず第一に天日槍が倭国にやってきた「理由」を、書紀が「日本国に聖皇」がいると聞き慕ってきたと、やや装飾過剰気味に伝えているのに対し、古事記は「妻が祖先の国」に帰ると言い残して小舟で逃げ出したので、それを追いかけて来ただけだと下世話な動機を強調する格好になっている点です。次は、第一点に関連して、天日槍が「情の願わしき地(鉱山?)」を求めて諸国を巡ったと書紀が詳述しているのに、古事記は「渡し神」に遮られたため難波に入れなかったので但馬国に留まったとしている点。そして、第三点目は古事記だけが息長帯比売命を天之日矛の遠い子孫であると明記している処です。若し、書紀が記録したように天日槍が「垂仁三年」に来朝していたのであれば、田道間守が四代目の子孫に当る訳ですから、その「兄弟」の孫つまり六代目の後裔に相当する息長帯姫命が、垂仁から見て三代後の大王に相当する仲哀天皇の妻になる確率は限りなくゼロに近いと言わざるを得ません(オノコロ・シリーズでは景行帝は垂仁天皇の『兄弟』だと推理していますから、尚更世代間格差は広がります)。では天日槍の伝承が意味しているものは何なのか?その手掛かりが播磨風土記の以下の記述にありそうです。

  粒丘と号くる所以は、天日槍命、韓国より渡り来て、宇頭の川底に到りて宿処を葦原志擧乎命に乞わししく『汝は国主たり。吾が宿らん處を得まく欲う』
  とのりたまいき。志擧、即ち海中を許しましき。その時、客の神、剣を以ちて海水をかきて宿りましき。主の神、即ち客の神の盛なる行いを畏みて、先に国を占めんと
  欲して、巡り上りて、粒丘に到りて飯したまいき。ここに、口より粒(いいぼ)落ちき。故、粒丘となづく。                          揖保郡、粒丘の項

  御形と号くる所以は、葦原志許乎命、天日槍命と、黒土の志爾嵩に到りまし、各、黒葛三條を持ちて、足に着けて投げたまいき。その時、葦原志許乎命の黒葛は、
  一條は但馬の気多の郡に落ち、一條は夜夫(やぶ)の郡に落ち、一條はこの村に落ちき。故、三條(みかた)という。
  天日槍命の黒葛は、皆、但馬の国に落ちき。故、但馬の伊都志(いずし)の地を占めて在しき。                              宍禾郡、御形の項

同風土記は神埼郡の部分でも『八千軍(やちぐさ)という所以は、天日桙命、軍(いくさ)、八千人ありき。故、八千軍野という』(現在の福崎町)と記していますから、天日槍の軍勢が強大だった記憶が言い伝えとして在ったことが分かります。葦原志許乎命(アシハラシコオ)を「国主」つまりオオクニヌシとするなら、この渡来の神は古くから居る土地の守り神とも同等以上に渡り合えるほどの勢力を持っていた訳ですが、そのような神の「同族」とも呼ぶべき人物が時を経て、垂仁朝に再び出現した事実を書紀は伝えたかったのかも知れません。若し、この想像が許されるのであれば、該当する者としては播磨地域で吉備国の豪族と共に勢力を蓄え、その実力が垂仁天皇に認められて娘婿となった稲背入彦命を措いて他に考えられないでしょう(筆者は、彼こそが応神天皇の真の父親であったと考えています)。再び、息長帯姫命に話を戻しますが、この女性が「息長」の姓を冠しているからには、当然、息長氏の所生であるべきです。だから父親の姓名も「息長宿禰命」と記載されている訳なのですが、上の略系図左を参照してもらえば直ぐ分かる通り、その先代つまり祖父の名前は「迦邇米雷命」という一風変わったもので、その先は「山代之大筒木真若」です。

神功皇后陵  神功皇后と応神  垂仁天皇陵 

彦坐王の出身を開化帝の子孫とみるのかどうかは別にしても、丹波に本拠を持つ王と母方が和邇氏(袁祁都比売命)の子供に「山代」を姓に負う男子が居るのは不自然ですから、彦坐王(日子坐王)を頂点とした「息長」氏の系譜は意図的に造作が加えられたものと判断して良さそうです。同様の推理を彦坐王の他の妃にも当てはめると、本来の山代氏との婚姻による系譜は、山代之荏名津姫(又の名は苅幡戸辨)との間に生れた大俣王・小俣王・志夫美宿禰王だけであったものを、敢えて「天御影神の娘」と称される息長水依姫を娶って丹波道主王(日葉酢姫の父親)が生まれ、その子孫に多くの皇子皇女が出たとする別の系譜を付け加えたのは、やはり応神天皇の大王位掌握の結果だと言えそうです。山代氏は、ほぼ同時期、垂仁天皇に二人の娘を輿入れさせており、その内の一人(綺戸辺)が仲哀帝の母・両道入姫命を生むなど、古代豪族の中でも祭祀の宗家のような立場にあって朝野の信望を得ていた名族ですから、息長氏の関係者としては二重三重の縁を持つことで帝室との深い繋がりを演出したかったのだと推察されます(註:祭祀関係だけでなく武力の中核であった物部氏の祖・伊香色雄命にも荏名津姫命の姉妹二人が嫁いでいます。このサイトの主人公の一人でもある垂仁天皇の皇子・五十瓊敷入彦命が一千口の剣を納めた石上神宮の管理を皇子の妹・大中姫から委譲された物部十市根の母親が山代氏の娘です)。一つの想像に過ぎませんが、仲哀の生母とされる両道入姫命を生んだのが「弟苅羽田刀辨(オトカリハタトベ)」の又の名を持つ「綺戸辺(カニハタトベ)」なのですから、当初は、

  ① 姉の苅幡戸辨(山代之荏名津姫)が彦坐王に嫁ぎ丹波道主王を産み  ② 妹の綺戸辺(弟苅羽田刀辨)が垂仁天皇に嫁いで両道入姫命を産んだ

という単純な系譜が、後に改編され(世代の水増し、子女名の付加)現在知られている複雑で難解な構成になったのではないかと愚考しています。また「息長」の姓についてですが、崇神帝の次の世代、凡そ四世紀半ば頃には今まで見てきた通り、各氏族の名は「丹波」「山代」「但馬」などの地名を冠して表されるのが通例で「息長」や「物部」といった姓は未だ発生していなかったと考えるべきだとすると、彦坐王につなげるために登場した「息長水依姫」の系譜にある『息長宿禰王--息長帯姫命、息長日子王』たちは明らかに編集者の手で書き加えられた別の氏族の家系だと思われます。そして、古事記が息長宿禰王について、

  息長宿禰王、葛城の高額比売を娶して生める子、息長帯比売命、次に虚空津比売命、次に息長日子王(この王は吉備の品遅君針間の阿宗君の祖)
  また息長宿禰王、河俣稲依毘売を娶して生める子、大多牟坂王(これは多遅摩国造の祖なり)

と具体的な後裔の姓名を掲げ、日本書紀もまた景行天皇四年条の中で、

  つぎの妃、五十河媛、神櫛皇子、稲背入彦皇子を生めり。その兄、神櫛皇子は、これ讃岐国造の始祖なり。
  弟、稲背入彦皇子は、これ播磨国造の始祖なり。

の様に記し、更には先代旧事本紀の国造本紀にも『針間国造:志賀高穴穂朝(成務天皇)の時、稲背入彦命の孫、伊許自別命を国造に定めた』(「新撰姓氏録」は「阿良都別命、又の名、伊許自別命が針間佐伯直の祖とする)とあることなどを勘案すると、息長宿禰王という人物像が限りなく稲背入彦命に重なり合ってくるのですが、読者の皆さんの眼にはどのように映っているのでしょう。今回、少し長めの文章になりましたが、結論は簡単です。息長帯姫命という呼称の女性は、垂仁天皇の娘婿である稲背毘古命(稲背入彦命)の娘であり、応神天皇の姉?に当る人物ですから、彼の「母親」とされる神功皇后では有り得ません。

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