「街道一」の大親分とは誰のこと 清水の次郎長               サイトの歩き方」も参照してください。

「オノコロ・シリーズ」写楽の項でお馴染みの斉藤月岑(さいとう・げっしん、1804〜1878)。江戸・神田は雉子の町名主だった彼の労作『武江年表』によれば寛政期末のお江戸では天変地異が続発したようで、版元・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)が亡くなった翌年の寛政十年十月、十一月には「空一面、雪の降るように流星が乱れ飛」んだかと思えば、明くる寛政十一年盛夏(七月六日)には「大雪」と「大雹」が降り注ぎ、流石の江戸っ子も肝をつぶした。そして、今回の主人公の一人である男がお江戸・下谷で生を受けたのが、西暦1800年(寛政十二年)のことで、錺職人・金八の長男は幼名を「金太郎」と称した。江戸・大阪での米騒動を経て、神仏への信仰にも一段と拍車がかかり、この年、富士山への女性のお参りが解禁されています。また、歌舞伎十八番を定めたことで知られる七代目・市川団十郎が襲名興行で大人気を集めたのも寛政十二年の出来事で、神様たちの余りのもてもて振りをやっかんだ幕府は、前年に「千社札取締令」を出している程。もともと千社札は社寺への信仰から発生したものでしたが、江戸も後期になると通の間で「札の交換会」まで開かれるなど大いに過熱、一流の絵師、彫師、摺師まで総動員した特注品・超贅沢品まで現れたため、お上が取り締まることになったもの。また「札」は本来、見えにくい場所を選んで貼り付けるものでしたが、この頃になると「人見(ひとみ)」と称して、出きるだけ「目立つ」所に張るのが良いとされたのだとか…。

七代目の錦絵・国立博物館収蔵。いい男ぶりです。 これが千社札。

東海道を新幹線がひっきりなしに行き来し、世紀の大イベント東京オリンピックの興奮も未だ冷めやらぬ頃、如何に在郷の片隅に住んでいたからとは言え、弱冠二十歳と、その三つ年下の従兄弟同士が、夜な夜なポータブルのレコードプレイヤーから流れてくる浪曲に耳を傾けている風景は、当時としてもかなり珍しい部類に属していたと言わねばならない。ただ、今になって考えれば歳かさの従兄弟の父親の嗜好が少なからず影響していたことだけは間違いない。情熱家で家付き娘だった伯母の強く熱い要望を受け入れ婿入りした伯父の唯一の楽しみが夕食時の飲酒、それも、かなりの酒豪だったのだが、酔うと決まって口をつく十八番の台詞が今でも耳の奥底に響いている。それは、歌舞伎芝居「忠臣蔵」に登場する人物の有名な台詞の一部分だった。素面の伯父は、大変物静かで分別のある、極々当たり前の常識人だったのだが、少しくアルコールが体内に注入されると、芝居の登場人物「天野屋利平」と自分との区分が、やや、曖昧になり、ついつい他人からの「頼まれ事」を無条件に引き受けてしまう…。つまり『人にこうじゃと頼まれ』て、損得ずくの算盤勘定宜しく、そ知らぬ顔など滅多に出きるものではない。伯父を真の「男」として頼り慕う?人々のために、何が何でもやらねばならぬ、そして、何度聞いても心地よい、決めの一言が独特の抑揚を従えて伯父の口元から、毎晩のように漏れることとなる(又更に、それが一晩の内に二度三度あるいは数度に及ぶことから、自称・利平は孤独をかこつことになったのですが…)。

  『天野屋利平は男でござる

実際に歌舞伎芝居の舞台を、何処かで伯父が見ていた可能性も残されてはいるが、昭和という時代の前半は正にラジオの全盛期。あの箱型の、真空管を組み込んだ受信機から流れてくる浪曲師の口調を、いつの間にか習得したと考えた方が自然のように思われます。高砂屋浦舟(鹿島萬兵衛、1849〜1928)は大正十一年四月に出版した『江戸の夕栄』の中で、江戸末期から明治にかけての世相について、

  江戸の青年たちの耳学問は講釈師先生に負うところが大きかった

と明言しているそうだが、昭和前半期のラジオに出演していた講談師・浪曲師の演目、語り口が大衆の「雑学?」修行に果たした「役割」功罪も、決して小さなものではなかった。そして中でも一際目立つ存在であったのが二代目・広沢虎造(ひろさわ・とらぞう、1899〜1964)その人。上の「風景」で二人の若者が聞いていたレコードは虎造よりも一世代上の名人・桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん・くもえもん、1873〜1916)の演じる『南部坂雪の別れ』の一節なのだが「義士伝」以上に虎造節を世間一般に広めた出し物が任侠シリーズで、その題名を「清水次郎長伝」と言います。これは講釈師の三代目・神田伯山が次郎長の養子・天田愚庵(1854〜1904)の『東海遊侠伝』などを底本に作り上げた講談を、更に虎造が自分なりの工夫を凝らして浪曲に仕立て直した昭和の大ヒット作で、あるドラマが始まると「女湯が空っぽになる」と評判だった頃、二代目虎造の浪曲がラジオで放送されると「パチンコ屋と屋台の飲み屋が、がら空きになった」と言われる程の人気を博したそうです。「次郎長伝」は三十近い物語りの集大成なのですが、有名な「石松、三十石舟」で、四国の金比羅山へ代参(親分の名代として刀を納めに参詣した)した帰り道、三十石舟に乗り合わせた事情通の「旅人」と、次郎長の子分・森の石松との滑稽味あるやり取りが始まります。テーマは、言うまでも無く「街道一の大親分」と、その親分を支える「強い子分」たちの存在です(勿論、石松は己が一の子分だと自負しています)。

 淀川を行き来した三十石舟  PR

伯山のオリジナルには、石松が大阪の本町橋のたもとで「押し寿司」(考証によれば、当時、握り寿司は「在り得ない」そうです)を買う件があり、例の『寿司、食いねぇ』の台詞はありますが、虎造節で知られる、

  『江戸っ子だってねー』『神田の生まれよ』『そうだってねぇ』

の絶妙のやり取りは大正十三年の速記本にも記録されていないそうですから、虎造独自の脚色だったことが分ります。この項を書く上で、WEBから幾つかの資料を集めたことは確かですが、虎造の「次郎長物」については意識してラジオの番組を聴いたという記憶が無いにも関わらず、大まかな筋書きや登場する人物、そして、彼らの主だった役割、さらには台詞まで空で言えるのは何故なのか?やはり、テレビの力なのでしょうか!それはともかく、清水次郎長(しみず・じろちょう、1820〜1893)が実在の人物であることはご承知のことと思います。文政三年(1820)元旦、清水の舟持ち船頭・雲不見三右衛門に男の子が生まれ、長五郎と名付けられますが、当時、元旦生まれの子供は「大成するか大悪に染まる」という俗信があったため、米を商う母方の叔父・次郎八の養子に出されました。だから「次郎八の(息子の)長次郎」で「次郎長」という通称になった訳ですね。

史実では、森の石松事件が起こった万延元年から八年後の慶応四年(明治元年1868)歴史は大きく動き出します、そして次郎長の生き方も激変するのです。幕府の大政奉還策に対して王政復古の大号令で対抗した新政府は東海道を中心に賊軍討伐の軍勢を集結、江戸城への総攻撃が現実味を帯びてきた頃、幕府高官の一人であった勝海舟(かつ・かいしゅう、1823〜1899)は「江戸の無血開城」を官軍の指導者で知らぬ仲ではない西郷隆盛(さいごう・たかもり,1828〜1877)に伝え、戦禍による混乱から江戸全体を守ろうと一人の人物を密使として駿府へ送り込もうとしました。勝の意気に感じた幕臣で剣術家の山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう、1835〜1888)は勇躍江戸を出発したのですが、途中の宿で官軍の大包囲網に会い身動きがとれなくなってしまいます。その時、鉄舟の用心棒を買って出た男達の一人が清水次郎長その人。勝から西郷への書簡は無事、届けられご一新となりました。

若き日の徳川慶喜(京都大学収蔵) 晩年の山岡鉄舟

でも、なんで、そんなに巧いタイミングで次郎長が密使・鉄舟の「助っ人」として登場することが出来たのか、これまで実に様々な「解釈」がなされてきましたが、最期の将軍・徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、1837〜1913)の周辺に居た人物の一人に、その答えの鍵が隠されているのかも知れません。慶喜は将軍職に就く直前、元治元年(1864)「禁裏御守衛総督」に任じられ京都に赴いていますが、この時、数百名の子分を従え同行し、慶喜の身辺警護に当った男が冒頭で紹介をした「金太郎」さんでした。維新後も駿府に移り住んだ将軍に付き従い、征夷大将軍の用心棒として名を馳せた人物の名は新門辰五郎(しんもん・たつごろう,1800?〜1875)と言いますが、この町火消しの大立者は勝海舟とも親交があったと思われますから、恐らく、その繋がりから次郎長へ幕臣保護の緊急依頼が伝えられたのではないかと推測されるのです。「次郎長伝」は、あくまでも物語りの世界として受け止めるべきものなのですが、山岡の畏友・関口隆吉(せきぐち・たかよし、1836〜1889)の次郎長に対する親身な態度、そして梅蔭寺の墓碑銘が榎本武揚(えのもと・たけあき、1836〜1908)の筆になるものであること、更には次郎長が身内に経営させていた船宿「末廣」を徳川慶喜が写真に収め保管していたこと等など、考え合わせると「徳川家」の側に何らかの深い思い入れがあったことは確かなようですね。

     
     
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