八丁堀地蔵橋周辺は情報発信の基地だった                                                    「サイトの歩き方」も参照してください

花のお江戸の八丁堀と言えば、人気テレビ時代劇でお馴染みの南北町奉行所が仕事場の、粋で鯔背な同心たちを引き連れた、渋い小紋の着流しに下したばかりの雪駄履き、遠目からでも直ぐ分かるスタイルに、独特の髪形をびしっと決めた良い男、町娘たちも噂する与力衆の面々を思い浮かべる読者が多いと思いますが、その一番から五番まで五つの組に分かれた五十騎の与力たちが、幕府から拝領していた屋敷地は確かに純然たる「武家地」でしたが、同じ八丁堀でも同心たちが多く住んだ拝領町屋敷と呼ばれた地区は「武家と町人が混在して住んだ」変則領域とでも言うべき特殊な街並みで、それぞれに町名が付けられ、当然、町方行政のまとめ役である支配名主も存在していたのです。写楽シリーズで何度も取り上げてきた八丁堀「地蔵橋」の斎藤与右衛門宅が在ったのは武家地である元与力の屋敷地内にありましたが、その敷地の北・西そして南の三方角に広がっていたのが同心たちの住む町屋敷で、全体の町名が北嶋町と呼ばれ、提灯掛け横丁・神保小路・鍛冶丁・六軒屋新道・七軒丁の通り名があった道筋を挟んで総勢五十数名分の同心宅が立ち並んでいました。そして、八丁堀の同心たちは自分たち家族の生活を少しでも楽なものにするため敷地内に貸長屋を建てたり敷地の一部を町人などに賃貸していたのです。地図研究家・中村静夫さんの調査によれば、十九世紀前半当時の同心屋敷地は下中央の図に見られる様な形になっていたと考えられ、真ん中にある同心宅地の周囲を取り巻く形で町屋が存在していたことが分かります。(町名は岡崎町、通りの名称は片与力町と読めます)

「北嶋町」周辺  組屋敷図  神谷(町鑑より)

そして眼を上左の詳細図に移せば、●▲印の下に同心たちの氏名が並び、屋敷地全体が「北嶋町」と呼ばれていた事も分かります。この一体を支配していた名主が七番組の神谷甚七でしたから(上右画像)、赤枠部分の家に住んでいたとされる斎藤与右衛門についての「情報」も、若し知ろうと思えばいつでも簡単に入手できたことでしょう。さて、今回のテーマは写楽がらみでの資料探しで出会った、或る郷土史家の次のような文言がきっかけでした。区立図書館の職員でもあったらしい安藤菊二によれば、

  江戸、八丁堀地蔵橋火の見やぐら横町には、瓦版本屋の京屋宗兵衛の店があった。地蔵橋近くには板元東屋伝蔵の店もあった

らしいのです。これまで八丁堀という地区全体が武家の町であり、その一部に武家以外の者(町人、絵師、医師、能役者など)も借地借家をしてはいるものの、武家地なのだから当然「商売」をすることも出来ず、町自体に「商店」は存在しなかったと単純に考えていた筆者にとって、この一文は衝撃的でした。閑話休題、たまたま、このページを訪れ写楽については全く不案内という方のために、江戸の浮世絵師・東洲斎写楽という人物について、このサイトの管理人がこれまでに行ってきた推理の要約と一般的な見方を記しておきます。

  ① 寛政六年五月、江戸、歌舞伎役者を独特の手法で表す東洲斎写楽という浮世絵師が出現し、わずか十か月足らず活動した後忽然と姿を消した。版元は蔦屋。
  ② 江戸幕府の役人であった大田南畝が『浮世絵類考(考証)』という書物で写楽の絵自体については短く評したが、その実体については何も手掛かりを残さなかった。
  ③ 文化十四年頃、歌舞伎役者・瀬川富三郎が『諸家人名江戸方角分』という人名録を著し、八町堀地蔵橋に「写楽斎」と名乗る浮世絵師が居たことを書き残した。
     写楽が消えて半世紀、江戸の名主斎藤月岑が『増補浮世絵類考』を著し、写楽が阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛であり八丁堀地蔵橋に住んだと明記した。
     ケンブリッジ本の序文によれば、月岑は類考の編集にあたり、数種類の写本を参考にしており、交友のあった石塚豊芥子の「蔵本」も借り受けて参照している。
  ④ 研究者が「方角分」の奥書等を南畝の直筆であると断定した事に加え、江戸期に刊行された細見図で斎藤与右衛門宅の所在が確認されたこと、更には、別の
     研究者たちによって斎藤十郎兵衛一族の過去帳が発見され、加えて別の能楽資料からも「阿波藩能役者・斎藤十郎兵衛ら」の存在が明らかになったこと等々によって
     平成24年3月現在のところ東洲斎写楽が、阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛であることに間違いないとの見方が有力となっている……、のですが、
  ❺ そもそも狭い藩邸内の長屋で集団生活していた能役者が、藩目付を始めとする相互監視の厳しい環境の中で、誰にも知られずに役者似顔絵の下絵を、本業そっちのけで、
     芝居小屋に入りびたりながら、ほぼ一年近くも描き続けられたはずがない、
  ❻ 「方角分」には幾つもの情報に誤りがあり、内容の正確さに必ずしも信頼が置けない。第一、南畝が十八大通の一人でもある村田春海の没年を知らなかったはずがない。
  ❼ 写本が竹本氏によって大田南畝に届けられたとされるが、肝心の蔵書印が押されておらず、早くに彼の手許を離れ二冊の写本とも古書店の収蔵品となっていた。
  ❽ 「方角分」の奥書、所付は全て大田南畝の直筆によるものであり、人名録の由来の正さは保証されているとされるが、南畝の書体を真似る蜀山流の書き手は、
    彼が存命中から「代筆」をおこなっており、二ページに分けて書かれた奥書の信憑性も疑われる。
    「方角分」の奥書などの筆跡を、大田の自筆とされる幾つかの資料と比較対照してみると、明らかに書き方が異なる字体がそこかしこに認められる。
  ❾ 江戸期に公刊された「武鑑」に掲載されていた喜多流能楽師・斎藤与右衛門の住居は「八丁堀七軒丁」にあり、地蔵橋住みとは記録されていなかった。研究者によれば
    能役者の斎藤家では「与右衛門」と「十郎兵衛」の名を代替わりごとに名乗ったそうだが「武鑑」には十郎兵衛の名前は一度も掲載されたことがない。

などの状況証拠を積み重ねると「写楽斎=東洲斎写楽=斎藤十郎兵衛」という等式を認めることが果たして正しい選択なのか躊躇してしまうのです。「浮世絵類考」の成立過程と、そこに記された写楽「記事」内容の変化(変質)を見る限り、斎藤月岑や式亭三馬が「方角分」に書かれた「写楽斎」の項を参照した確率は高いと思われますが、月岑の好奇心あるいは探究心が如何に旺盛であったとしても「写楽斎」が写楽ではないかとの着想を得たとしても、それが「阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛」という実在人物につながるまでには、何か別の確証(証言、伝聞)が不可欠だと考えられるのです。つまり、1817年頃、八丁堀地蔵橋に住んでいた「写楽斎」を知り得る者との接触があったのではないか?そう考えたとき、達磨屋五一本及び内閣文庫本にある『写楽は阿州侯の士にて、俗称を斎藤十郎兵衛といふよし、栄松斎長喜老人の話なり、周一作洲』の書き込みは暗示的に見えます。「方角分」の最初の写本を所有していたのが達磨屋その人で、唯一の異本とされる「東京教育大学本=筑波大学本」の元々の収蔵者が同業の石塚豊芥子と知れば、さもありなんと思わず膝を叩いて納得してしまうのは筆者の脳みそにバイアスが掛っているせいなのでしょう。それはさておき。本題の瓦版本屋などの板元の話に戻ります。

周辺図  京屋の刷物  鯰絵  PR

かつて安政大地震の時、江戸の町中にあふれ出た「鯰絵」(上右の画像)を調べていた時にも疑問に思っていた事があります。それは「時間的な制限がある極限状況の中で、どのようにして原版・版木を彫り、そして大量に刷り上げたのか」という点だったのですが、今回、取材の中で八丁堀七軒丁という極狭い地区にも関わらず、上で紹介した京屋、東屋と同様、

   はやり唄などの瓦版(刷り物)を扱う本屋嘉兵衛                               八丁堀七軒丁
   氷川大明神の祭礼番付を扱ったむさしや平六                                八丁堀七軒丁 
   神田大明神の祭礼番付を扱った佐倉屋林兵衛・油屋忠蔵                        八丁堀七軒丁
   山王神社の祭礼番付を取り扱った本屋富五郎・近江屋虎吉・三河屋忠平     八丁堀七軒丁

などの小規模な板元が地蔵橋のすぐ近くに軒を連ねて店を構えていたことが分かってきました。また、裏付けは取れていませんが、若しかすると「七軒丁」という通りの名称も「七軒の板元が立ち並んでいた」ことに因んだ命名であったのかも知れません。(この一角は東に安藤氏、西に由比氏という与力の拝領屋敷があって、それに挟まれる形で七人の同心宅がありましたから、その敷地の通路側の町地に一軒ずつ店があれば当然『七軒』町に相応しい風景になっていたはずです。上左の画像参照)東京大学資料編纂所のデータによれば、これ以外にも八丁堀界隈には神社の祭礼番付(どの町から、どのような山車が祭に参加するのか絵入りで紹介した刷り物)等を扱う松坂屋、菊栄堂、笛亀、指物屋、吉田屋、佐倉屋などといった板元が十数軒もあり、これらの板元から仕事を受注していた彫り師、刷り師などの職人たちも多数近隣の地区に住んでいたと思われます。この板元の一人である指物屋松光は少し時代が下り嘉永年間の項に名前が見えている人物ですが、己の住所を『八丁堀与力町、清水孫次郎地面内』と明記しており、北町奉行所の同心・清水氏の屋敷内の借家で商いしていた実態が明らかになっています。

さて、再び写楽探しの御話に戻りますが、毎年発刊される「武鑑」に掲載されていた喜多流能役者・斎藤与右衛門の住いは地蔵橋ではなく「八丁堀七軒丁」と表記されていました。今、見てきた様に、その一角は正に「板元横丁」であって江戸っ子たちの熱い関心を集めていた、有名な神社の祭礼に関する情報の提供源でもありました。そして四通する交差点にあった火の見櫓の近くや地蔵橋近くには江戸町人たちにとって無くてはならない刊行物・瓦版の板元も存在していたのです。与右衛門が板元宅に居候する訳もありませんが同じ「七軒丁」に住んでいたのであれば、通り一遍の近所づきあい位はあったと思われます。長年同じ場所に住み続ければ、彼が実は能役者であり「武鑑」にも名前が載っているほどの人物(武家)であることも近隣の板元たち皆の知る処となったことでしょう。その横丁の「有名人」が、目と鼻の先の「地蔵橋」に引っ越したとしましょう(通説では、与右衛門の息子である十郎兵衛が阿波藩邸内の長屋から地蔵橋に転居したことになっています)。当然、横丁仲間の板元たちや瓦版の板元たちの耳にも情報はすぐに入ったはずです、ひょっとすると引っ越しの手伝いを買って出た奇特な人が居たかも知れません。そんな中、新たに刊行された「武鑑」にある「与右衛門」の住所が元の「七軒丁」のままになっていたら、同じ印刷物、情報を扱う仲間の一人として、町の有名人のためにも、武鑑の版元に「転居」した事実を伝えるお節介な隣人が一人くらい居ても不思議ではなかったと思うのですが、しかし現実は違いました。幕府お抱えの喜多流能役者で「謡」の専門家・斎藤与右衛門の住居表示は「七軒丁」から「地蔵橋」に変更、訂正されることはなかったのです。明治維新も近い安政三年(1856)版の「武鑑」でも、与右衛門の家は「七軒丁」のままだったという事は何を意味しているのでしょう(下の画像参照)?考えられる事は二つ。

  Ⅰ 幕府のお抱え能役者・斎藤与右衛門は「八丁堀七軒丁」に住み続けていた(地蔵橋に転居はしていなかった)
  Ⅱ 阿波藩お抱え能役者の斎藤十郎兵衛は南八丁堀の藩邸から「地蔵橋」の元与力宅地内の借家に転居していた。

のであれば、そこから得られる結論は只一つしかありません。この「二人」は名前が異なる通り別人であり、かつ親子ではないという事です。何故なら斎藤十郎兵衛の父である与右衛門は、寛政三年六月に亡くなっており、それ以後十郎兵衛の子供が祖父の名を継ぐまでの間「斎藤与右衛門」が存在していたはずがありません。(かつてWEB上に公開されていた斎藤家の過去帳には『寛政三年六月、当時、八丁堀、松平阿波守様内居住、斎藤与右衛門、事』とありました。寛政三年は1791年ですから、十郎兵衛が結婚して子供に恵まれていたとしても未だ幼く、祖父の名跡を継ぐまでは至っていなかったと思われます。過去帳などの資料を勘案すると与右衛門の没年と十郎兵衛の息子の生年が同じだった可能性も出てきています。文化七年、1810年のものと考えられている『猿楽分限帳』でも斎藤十郎兵衛、午四十九の記載だけで、何故か息子としての与右衛門の名は見当たりません。十二歳と九歳の氏名も記録されていますから、十九歳近くになっていたはずの息子・与右衛門の名前が漏れているのは何か事情があったとも考えられます。それにしても父親が亡くなり、かつ子供が産まれ斎藤家の大黒柱として芸事に集中しなければならない最も人生で大切な時期に、稽古もそこのけに斎藤十郎兵衛は芝居小屋に日参して、卑しい役者絵を描き続けていたのだという通説には首を傾げたくなります)果てさて、写楽は一体何処に居るのでしょう?

江戸祭礼番付の版元  「武鑑」安政3年版  「武鑑」文化元年版

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