徐福は倭国で不老不死の薬を見つけたか                              「サイトの歩き方」も参照してください。

『菅子』牧民編には「倉廩(そうりん)ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」とあるそうで、人は「衣食」が足りると心の落ち着きを増して精神的にもゆとりある充実した日々を送ることが出来る、様にも思えますが、大陸国家をまるごとその手中に収め、何一つ不自由のない天下人となった始皇帝が切に求めたものは不老不死の妙薬でした。人の欲望には際限がない、と言ってしまえばそれまでの事ですが、衣食どころか財も地位も名誉も全て得た者が最期に求めるものとしては「不滅の存在」に昇華することなのかも知れません。秦の偉大な皇帝(前259~前210)と謂えども五十回目の誕生日を迎えることが出来ませんでしたから、長生きへの願望は極自然なものだったのかも知れません、それはさておき。司馬遷が編んだ『史記』の始皇帝本紀巻六には次のような文言が載せられています。

    又使徐福入海求神異物 還為偽辭曰 『臣見海中大神 言曰 「汝西皇之使邪?」臣答曰 「然」「汝何求?」曰 「願請延年益壽藥」神曰 「汝秦王之禮薄 得觀而不得取」
    即從臣東南至蓬萊山 見芝成宮闕 有使者銅色而龍形 光上照天 於是臣再拜問曰 「宜何資以獻?」海神曰 「以令名男子若振女與百工之事 即得之矣」』秦皇帝大說
    遣振男女三千人 資之五穀種種百工而行 徐福得平原廣澤 止王不來

何しろ二千三百年ちかくも前の出来事ですから、事の次第が正しく伝えられていなかった憾みもあるのですが「史記」の行間からは『壽薬』を求めて已まなかった秦王の「禮」が薄かったと言った「神」様も薄情ですが、何より、皇帝から「三千人の男女」と「五穀の種」そして「百人もの工(匠)」を与えられながら遂には還って来なかった徐福に、初めから胡乱な物を感じさせる筆意が少なからず漂っているように思えます(つまり、装飾語を省いた言い方をすれば、単に徐福が皇帝を欺いただけの事ではなかったのかと…)。記紀など、国内の歴史資料には一切登場しない「徐福伝説」なのですが、北海道などごく一部を除き彼が「来た」「住んだ」「通りかかった」云々という伝承地は全国にあり、ざっとWEBで見た限りでも数十か所はありそうです。何故、そこまで本国でも無い我が国のあちこちに彼に纏わる「言い伝え」が広く流布しえたのか?やはり、その主な要因の一つが「不老不死」の「壽薬」を求め、遥か海の彼方から「来訪した」らしいと云う点にありそうです。

西国図会より  徐福一行  案内板

「史記」より

伝説上の方士・徐福の墓が近くにあるらしい…、そんな友人の頼りない情報を基に、海が見え隠れするうねうねとした田舎道(後で調べたら国道でした。失礼)をゆるゆる進んでゆくと、道端に建てられた標識を発見(上右の画像)、そこには確かに「徐福の宮」の文字が認められていました。そこは、どうやら波田須(はたす)という地区らしく、小さな小屋の横から海辺の方に下る小路が伸びています。眼下に広がる青い海、急傾斜でじぐざぐの坂道を暫く降ると一気に視界が開けて、小さな小さな集落が目に飛び込んできます。広くも無い道は右下方向へと続き、少しずつ海岸線近くの平地まで降りてゆけるらしいのですが、左手前方のこんもりとした丘の上に建てられた小さな朱の鳥居が目に止まり、段々畑のように積み重ねられた狭い土地に、きっちりと嵌め込まれた様な人家の横をすり抜ける「畦道」ほどの通路を縫って斜面を下りきると、小さな祠が静まり返った杜の中で待っていました。人の身丈ほどもある碑に刻まれた文字は「徐福の墓」と読めそうです。

このサイトの主人公である詩人の中原中也は季節感を大切にしながら作品を創作し続けた人ですが、彼の初期作品の一つに『夏の日の歌』があります。その一節に、

  夏の空には何かがある、いじらしく思わせる何かがある、  焦げて図太い向日葵が田舎の駅には咲いている。

と云う文言が並んでいるのですが、夏には少し早い季節(五月下旬)だったにも拘らず、南国熊野の海と空は何処までも青く広く、今すぐにでも、目の前の岩場の蔭から徐福を慕った遠来の渡来人たちが現れても一向に不思議ではない、永遠にも近い時を超えた空間が限りなく広がっているようにも思えたものでした。上で紹介している船の図は江戸期に刊行された『西国三十三か所名所図会』(新宮の湊の項)に載せられている物ですが、その詞書冒頭の部分には、

  本朝通紀 人皇第七孝霊天皇七十二年 秦の徐福来朝す。

とあり、続けて「仙術を好んだ始皇帝が、方士の徐福に男女千人の童を供として」「蓬莱の海」に「神仙不死の薬」を求めて送り出したが、来朝した徐福は「遂にその薬を得ることが出来ず」そのまま帰国すれば皇帝に誅されるので熊野で暮らし亡くなった、そして「その子孫は皆、秦氏」を名乗っている、と記されています。(下左の画像、中央で樹が丸く茂っている所に徐福の墓碑があります。右下に見える茶色い直線が紀勢本線の線路です)

 波田須  徐福の墓  名所図会  PR

『本朝通紀』という書物は元禄十一年(1698)に長井定宗が上梓した編年体の国史ですが、日本書紀には勿論そのような記録はありませんから、恐らく外国の資料にあった記述内容を証明抜きで「引用」したのだと思われます。その内の一つが『海東諸国紀』ではないかとする説があり、調べてみると確かに、

  孝霊帝の七十二年、始皇帝が仙福を求めて遣わした徐福が紀州に来て、崇神帝の時に亡くなって、神として祀られた

との記述があるのですが、何を裏付けとしたのかは不明です。つまり、そこでも典拠は示されていないのです。ただ江戸期の国内には、「秦の徐福」が大昔に来日して紀州熊野に住みつき、その後「崇神帝」の御世に他界、子孫たちはみんな「秦(はた)」と自ら名乗ったという民間伝承が広く流布していたと考えられます。ところで読者の皆さんは「非時の香菓(ときじくのかぐのこのみ)」という言葉をご存知でしょうか?垂仁帝の頃、多遅摩比那良岐(たじまひならき)の息子・多遅麻清日子(たじまきよひこ)の兄で多遅麻毛裡(たじまもり、田道間守)と云う人物が命を受けて常世の国に渡り、十年後、帝の元に探し当てた「非時の香菓」(橘の実だと考えられている)をやっと持ち帰ったのですが、既に垂仁は物故しており、悲しみのあまり田道間守も帝の後を追って亡くなったという物語が記紀にはあります。記紀で系譜は一部異なってはいますが、彼の血統は神話にも登場する天日矛(あめのひぼこ)の直系子孫であり、応神帝の母・神功皇后の祖先筋でもあるのです。

    天日矛--多遅摩母呂須玖--多遅摩斐泥--多遅摩比那良岐--多遅摩比多訶--葛城高額比売--息長帯比売(神功皇后)--応神天皇

「但馬」で勢力を持った豪族の系譜に「葛城」の名を冠した娘が登場するのも唐突ですが、応神帝の出自自体が「神の子(胎中天皇)」として扱われた記紀の編集過程で生まれた潤色の一端を示しているのかも知れません。また、田道間守の逸話は、垂仁帝を崇神あるいは応神と並んで「始祖王」並に記紀が取り上げるための伏線だったとも考えられます。詳しい事は「崇神と垂仁」の頁でも解説しましたが、応神帝の出現に関して垂仁が果たした役割が大きかったのではないか、というのが推論の核心です。一方、三国志の魏志巻三十(倭人の条)は、

  有薑(しょうが)橘(たちばな)椒(さんしょう)蘘荷(みょうが) 不知以爲滋味

と倭に自生している樹木を紹介し、倭人たちは「滋味(美味しさ)」を知らない、つまり食用として生活の中で用いることを知らないでいると述べています。魏の使節が倭の国内の全てを見て回った訳では無いにしても、当時の、三世紀半ばの倭人たちは未だ「橘」を食べ物として認識していなかったようです。と云うより、現在も西日本にだけ自生している日本固有の「橘」は、外見こそ「ミカン」の姿はしていますが、とても酸味が強いため食べられません。だから田道間守が「常世の国」から持ち帰った「橘」が珍重されたのだと言えそうです。

  垂仁陵古墳    田嶋守の墓? 崇神陵古墳

以下は、オマケ話です。まず、皆さんの計算能力を試します。「76+33+38+34+83+102+76」は一体、幾つになりますか?「442」ですね。我が国では、先の大戦時まで「皇紀」という年号を公に使用していました。これは「神武天皇が即位した年」を元年とする独特の暦で、先ず、神武の即位は「紀元前660年」だと定められていたのです。さて、次は引き算です、その「660年から442年を引くと何年になるでしょう?」簡単な事です「660-442=218」なので「紀元前218年」が導かれます。そして、実は「76」と云う数字は孝霊帝の在位年数なので、それを徐福伝説に出てくる「72」年に修正すると、紀元前218年も自動的に「紀元前222年」となります。なんだか、とても切の良い数字が並びましたね。

 TOP  
   
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼