鏡と御影(みかげ)と額田女王                                サイトの歩き方」も参照してください

鏡つながりの話の中に、どうして天智・天武帝と関わりの深い女性の名前が出てくるのか不審に思われる方もあると思いますが、実は一見何の脈絡も無さそうに見えて、複雑多岐にわたる氏族系譜が地下水脈の如く深い地層の中でつながっているのです。『茜指す 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』(万葉集、巻1の20)の一首は余りにも有名ですが、この歌の作者・額田女王(ヌカタオオキミ、万葉集では[額田王]と記載)については「日本書紀」が天武二年二月条で「天皇(天武)、初め鏡王の女、額田姫王を娶して十市皇女を生しませり」と記しているのが公的な唯一の資料なのですが、書紀は十年後の天武十二年秋七月条において、

  己丑(四日)に天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。庚寅(五日)に鏡姫王薨せぬ

と藤原鎌足(614〜669)の正室であった鏡姫王(鏡王女とも書く)の死去を記録しています。彼女の墓が城上郡押坂の舒明陵の域内に在る(「延喜諸陵式」、下の画像参照))ことから、一般的には同帝の最も近しい親族(娘あるいは妹)ではないかと見る研究者が多いようですが、鏡姫王(?〜683)を前述の「鏡王」の娘ではないか、つまり額田女王の姉ではないかとする見方も一方に存在しています。オノコロ・シリーズでも、かつて同じ趣旨の「説(継体と三島の謎その2)」を展開していますが、今回は「鏡」と「額田」を手がかりに古代王族たちの見えない血脈を掘り起こしてみましょう。奈良田原本町にある「鏡作」たちの氏神さまを祀った幾つかの社を先に取り上げ紹介しましたが(「卑弥呼と鏡」)、その中の一つ鏡作麻気神社の祭神・天糠戸命(アメノヌカド)が天目一箇命(アメノマヒトツ)と同神であるという伝承の部分を覚えているでしょうか!物語は、そこから始まります。

 鏡作麻気神社   伊多神社   王女墓   

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大変珍しい、そして聞きなれない天目一箇命は古代より金属、取り分け「鍛冶」に関わる人々から崇められた神様で、書紀も国譲りの場面の一書第二で高皇産霊尊が大物主神に対して『八十萬神を領いて、永に皇孫の為に護り奉れ』と命じた後、

  忌部の遠祖手置帆負神を以って定めて作笠者とす。彦狭知神を作楯者とす。天目一箇神を作金者とす。天日鷲神を作木綿者と

したと明記していますから、同神が石凝姥命(イシコリドメ)と甲乙付けがたい「作金(金属加工)」の第一人者であったことは間違いありません。この神様は「天麻比止都禰命」とも表記されるのですが、実は前回、源義経の元服伝説の舞台となった滋賀県蒲生郡の鏡神社を取り上げましたが、この社の祭神が天日槍、天津彦根命と天目一箇命の三柱で、南西約8キロ隣接する野洲市三上に鎮座する御上神社の祭神が天津彦根命の子・天之御影命(アメノミカゲ)であり、明治32年『御上神社沿革考』を著した大谷治作は「祭神考證」の冒頭で、

  天之御影命は天津彦根命の御子であり、天目一箇命は同神の別称の一つである

と明言しています。また天津彦根命は名前の頭に「天」の一文字が冠されている様に、スサノオと誓約を行ったアマテラスの三男に位置づけられている天孫系の神様で、天之御影命と天麻比止都禰命や天戸間見命の父神だとする系譜が伝えられています。つまりオオクニヌシに国を「譲らせた」側の一員なのですが、このカミサマを祖先と仰ぐ古代氏族は数多く、中でも天之御影命の子孫には、

  天之御影命−−意富伊我都命−−彦伊賀都命−(中略)−国忍富命−−息長水仍比売(彦坐王の妃)−−水穂真若王(安国造の祖)

とする系図が伝わり「安(やす・野洲)」と「息長」との関係を暗示しています。つまり彦坐王(ヒコイマス)は九代開化の息子であり、彼の子・山代之大筒木真若王、孫・迦邇米雷王そして彼等の子孫が息長氏本流となり後の応神王朝の核になる訳です。そして息長の始祖の位置を与えられた大筒木真若王に冠せられた「山代」の名を山代縣主(山代氏、遠祖は天麻比止都禰命)に因むものだと考えられるなら、古代王家と天津彦根命を頂点とする鍛冶金属集団の結びつきが、とても強いものであったことにもなります。(註=「国忍富命」という神様については、天孫系とは別の系譜も伝わっており、今後とも調べる必要があると感じています)

真若について=マワカに関しては「真=実の」「若=子」を表す称号のようなものではないかと思われますが、同様の言葉である「若(ワカ」「別(ワケ)」「稚(ワク)」との違いが何であるのか、良く分かりません。ただ、懿徳帝の舅、孝霊帝の妃をのぞく真若を名乗る王族の多くが、後に継体帝となったオオド王が先祖と仰ぐ垂仁帝と応神帝二人の周辺に多いことは事実ですから、息長の血脈を暗示する独特の敬称の可能性があると言えそうです。書紀は垂仁三年春三月条で『新羅の王の子、天日槍』の来日を伝え彼が「玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、神籬」を持参し、近江国吾名邑にしばらく滞在し『近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍の従人」であると記しているのも何か暗示的です。また、言うまでも無く、この天日槍の後裔である田道間守(タジマモリ)の子孫の葛城高額姫が神功皇后・息長足比売命の母親その人です。

「新撰姓氏録」の左京神別で『允恭天皇御世、被遣薩摩国、平隼人。復奏之日、献御馬一匹。額有町形廻毛、天皇嘉之、賜姓額田部也』と姓名の由来まで書き記された額田部湯坐連もまた天之御影命の後裔とされ、額田神社の由緒によれば額田部連の祖は天之御影命の子・意富伊我都命(オオイカツ)です。「湯坐(ゆえ)」という言葉は「新たに生まれた子供に産湯を使わせる」人たちを指したものだと考えられていますから、王子王女などの養育を任された一族の長が「額田氏」だった訳で、帝室の子供を預けられるほど信頼の厚い存在であったことが分かります(ひょっとしたら助産師のような職能も含まれていたのかも知れません)。ここで話の筋がやっと額田女王に結び付きますが、実は、もう一つ重要と思われる血筋が存在しています。それが天之御影命の孫・彦己曽根命を祖先に持つ凡(大)河内氏という名の豪族です。この氏族もまた金属に深く関わる集団を率いていたと推測され、継体帝の次男・宣化帝(467〜539)は妃・大河内稚子媛との間に火焔(ほのお)皇子を儲けており、

  継体帝−−宣化帝−−火焔皇子−−阿方王−−鏡王−−鏡女王・額田女王

という一つの流れを想定させます。また、オノコロ・シリーズで何度も触れてきた宣化帝の子孫を称する威奈氏の一人、威奈大村(?〜707)の墓誌に見える「威奈鏡公」を上の鏡王に当てはめることが出来るなら、同氏も「鏡」つながりの輪に加わることになります。そして最後の登場人物は第33代推古帝(554〜628)です。彼女は、継体の嫡子・欽明帝(509〜571)と、新興?豪族・蘇我氏の長・稲目の娘、堅塩姫との間に生まれた人ですから天津彦根命系の氏族とは何等関わりが無いように思えますが、推古の諱が額田部皇女だったことを思い出してください。島根県松江市の岡田山一号古墳から出土した円頭太刀に「額田部臣」の銘文が刻印されていたように、六世紀後半ころまでには「額田部」を管理する豪族が各地に誕生していたものと思われ、畿内では「鏡」王を名乗る人物を筆頭に、複数の天津彦根命系の氏族が政権を支え、中でも額田部氏は皇女の育て親を引き受ける程、帝室と深い信頼関係を築き上げていた訳です。そして、その背景には武力の源となる「鉄(金属)」の威力が横たわっていたと考えられるのです。また神名となって多くの氏族統合の象徴に昇華した「御影」こそ「神の影」つまりは「鏡」ではなかったのでしょうか!?

「壬申の乱」(672年)で大海人皇子(天武)と大友皇子(天智の子)が国を二分する戦いを繰り広げた史実を知っている者としては、用意周到な天武が己の将来設計を描く上で、近江の金属集団(産鉄、武器製造をも含む)を配下に置く「鏡王」の娘との縁組は欠かせないものだった様に見えてきます。また「御影」が正に「鏡=神影」であったとするならアマテラスという概念の背後には、今まで見てきた「天之御影命」の姿が投影されているように思えてなりません。野洲には、まだまだ気がかりな遺跡が存在しています、次回それを紹介してみます。

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