少彦名命の正体を探る、天香久山を巡る空想の旅                          「サイトの歩き方」も参照してください。

昭和の三十年代から四十年代までであれば、お正月に里帰りした親類たちと一緒に、カルタ取り遊びに興じる一家団欒の風景も町の其処ここで見られたものですが、平成二十六年の今、正月行事として辛うじて形を留めているものは神社への初詣ぐらいに限られているようです。かつて小学生向けの月刊誌の分厚い新年号には「いろはかるた」の付録が付いていたものですが、歌カルタで良く知られているのは「小倉百人一首」でしょう。歌人の藤原定家(1162~1241)が、懇意にしていた姻戚でもある宇都宮蓮生の、小倉山荘の襖装飾用にと頼まれた「色紙」に、古今の名歌百首を認めたものが起源だとされ、その成立は十三世紀前半頃と推測されています。その二番目に載せられているのが次の一首です。

  春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山

云うまでも無く、この歌は藤原京を造営して都に定めた第四十一代持統帝(645~703)の御製なのですが、一般的には香久山に「白い衣」が干してある夏の風物詩を詠んだものだと解釈されているようです。実際に大和橿原の香久山を訪れた方なら分かると思いますが、今、藤原京跡と見られている場所から香久山までは、ほぼ1㎞の距離があり、宮殿の奥まった一室から南東の位置にある標高わずか154mの「山裾」に「干してある衣」を見分けるには相当の視力を必要としたことでしょう。古代史の研究者の中には、この「衣」は「天女の羽衣」であり、持統帝の野望実現の象徴であるという「斬新な」論説を示す向きもあるようですが、凡庸な筆者には山頂らしい「山形」すら成さない丘状の香久山の上を、細長い衣のような白雲が幾重にも棚引く初夏の風景しか想像することが出来ませんでした、それはさておき。

香久山  持統天皇  藤原定家  周辺図

何の変哲もない丘のような香久山が、持統帝に一首を詠ませるほどの「興」を催させたのも、帝室には格別の深い思い入れのある言い伝えがあったからに違いありません。例えば、皇祖アマテラスがスサノオの乱暴狼藉に困り果て「天の岩屋戸にさし籠った」時、八百万の神々は、

  常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天の安河の河上の天の堅い石を取り、天の金山の鐡を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売命に科せて鏡を作らしめ

たと「古事記」は伝え、同じ場面について「日本書紀」は更に詳しく、次のように記録しています。

  時に高皇産霊の息、思兼神という者有り。思慮の智有り。すなわち思いて白して曰さく。「彼の神の象を図し造りて、招禱き奉らん」ともうす。
  故、すなわち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。また、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。

古事記が「天の金山」つまり「天にある鉱山」で取れる「鐡(まがね)」と抽象的な表現に留めているのに対し、書紀は「天香山の金」と明確に書き留めています。また「古語拾遺」という資料でも思兼神が議った通り「天香久山の銅」で「石凝姥神に令して、日像の鏡を鋳」らしめたとありますから、記紀が編まれる八世紀初め頃には香久山が「鉱山」だったという伝承が大和政権の内部でも共通意識として受け継がれていたのだと思います。その香久山は神武帝の「東征」でも重要な役割を果たします。日下(くさか、河内国草香邑)での敗北撤退の跡、帝の一行は大きく紀の国まで迂回し、困難な山越えの行軍を重ねて大和入りを目指しますが苦戦を余儀なくされます。この時「自ら祈いて眠りについた」神武の夢枕に立った天神(あまつかみ)が次の託宣を下します。

  天香山の社の中の土を取りて、天平瓮八十枚を造り、併せて厳瓮を造りて、天神地祇を敬い祭れ       「日本書紀」神武、即位前紀

これは忍坂邑に大室を作って「宴饗」を催す直前の「戌午年九月」条にある文言なのですが、天神の訓(おしえ)通りに祭りごとを行った神武が無敵の活躍をしたのは言うまでもありません。皇祖アマテラスそして初代大王の何れとも強い縁で結ばれた霊山香久山、その北麓の一角に天香久山神社が鎮まっています。社の正式な名称は「天香山坐櫛真智命神社」といい祭神は櫛真神であるとされています(「延喜式」神名帳によれば京中坐神三座の一柱として久慈真智神、クシマチノミコト[大和国十市郡に天香久山坐櫛真命神あり、の註]が上げられている)。「クシマ」あるいは「クシマチ」とは一体誰の事を指しているのか?神話伝承の流れからは、当然、この社には知恵の神様である思兼神が丁重に祀られていなければならないはず…。或いは、アマテラスの為に日矛を鍛えた天津麻羅や石凝姥が祀られていても不思議ではありません。「クシ」という言葉の音からは直ぐに「久斯神」が思い起こされます。角鹿から戻った品陀和気命(応神帝)を迎えて喜んだ母親の息長帯日売命(神功皇后)は歌を詠んで歓待します。

  この御酒は 我が御酒ならず 酒(くし)の司 常世に坐す 石たたす 少名御神の 神壽き 壽き狂ほし 豊壽き 壽き廻し 献り来し御酒ぞ 乾さず食せ ささ

天香久山神社  天岩戸神社   PR

忍坂の頁で、天津彦根命・少彦名命親子の薬神としての性格について言及してきましたが、少彦名命は三輪神と同様「酒神」としての一面も有しています。「石立たす」は難解な言葉ですが「大きな磐座の様に鎮座されている」盤石な強い信仰そのものへの賞賛と捉えれば、帝室が少彦名命に捧げた祈りが尋常のものではなかった事が分かります。また、天香久山神社の拝殿裏には、確かに巨石が設えたように並んでおり、同様の磐座は香久山南麓の天岩戸神社(上右の画像参照)にも存在しています。それぞれの社には本殿はなく、香久山自体が御神体であるとされており、これらの磐座こそ神が降臨した証であるとして祀られてきたのだと考えられます。一方「櫛(くし)」という神名に注目すると、

  神皇産霊神--天神玉命--天櫛玉命--鴨建角耳命(八咫烏。陶津耳命、少彦名命の別名とされる)

の系譜を伝える「賀茂氏系図」を直ぐに思い浮かべます。「先代旧事本紀」も『天櫛玉命は鴨縣主らの祖』(「天神本紀)と記すように、この名を持つ神様はオノコロ共和国の主役級である天津彦根命に他なりません。神武に先駆けてヤマトを治めたと云われるニギハヤヒが「櫛玉」という神名を冠しているのも、同じ氏族に属しているからだと見られます。更に、この香久山山頂付近には「天常立神」を祀る社が建てられているのですが、この神様が若し「天底立命(天津彦根命の別名)」と同神であれば、帝室の祭祀の本質が何処に在ったのかを知る大きな手掛かりになりそうです。神名については類似するものは他にもあり、論証抜きの決めつけは早計を免れませんが後半の「マチ」に着目すると、物部氏の祖・饒速日命の二人の息子が「天香語山命(亦の名、高倉下命)」と「宇摩志麻治命」であり「アメノカゴヤマ」「ウマシマチ」の名称で呼ばれている類似性がとても気になる処です。神話を基に神武と神々との関係を整理してみると、

  ① まだ九州に居た時、塩土老翁(シオツチノオジ)が『東に美き地あり。その中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り』と語ったと聞き、東へ進むことを決意。
  ② 難波から河内を経て大和を目指すが失敗、紀国熊野を経由して山中を行軍。難渋している神武を熊野の高倉下から神剱を渡され精気を回復する。
  ③ 山の中、行くべき路も無く迷いかけた神武に天照大神が「嚮導者」として八咫烏を遣わし、吉野を抜けて進軍を続ける。
  ④ 天神の訓を霊夢で知り「天香山の社の中の土を取りて」神酒を入れる器などを拵えて天神地祇を祀ることで無敵の存在となる(呪術によって相手を倒せるようになる)。

の様に、彼は常に優れた先達としての祖霊に守護され導かれてヤマト入りを果たしたことが分かります。その「嚮導」する神霊の頂点には当然、アマテラスという象徴が君臨している訳ですが、神武の東征、行軍の現場で彼を救い、訓え、導き、助けたのは全て「物部」一族の祖神たちだったのです。日本書紀によれば、塩土老翁の話を伝え聞き、その「天磐船」で天降った者の名前がニギハヤヒである事を知っていました。神武たちは当時九州の地に居たのですから、誰かが教えたと考えるのが自然です。筆者は、オオクニヌシとの国造りを途中で投げ出して「常世の国」に渡ったという少彦名命が一番怪しい?と睨んでいますが、論証に耐える裏付け資料が提示できないので、傍証になるかも知れない事柄を以下に提示してゆきます。

香久山  埴土跡地  神社の磐座  天櫛玉命

  ① 推論の前提=「天津彦根命と天若日子」「天目一箇命と天御影命」「天日鷲翔矢命と少彦名命、八咫烏(ヤタガラス)」をそれぞれ「同じ神」であると仮定する。
  ② 天孫族の一員である天津彦根命の子供でありながら、天日鷲翔矢命の系統に属する三嶋縣主、鳥取連は帝室にとり好ましい存在として記紀に描かれている。
     反対に、同じ子供の天目一箇命の子孫(凡河内国造、都祁国造など)は、あくまでも「反逆者」の後裔であり「良くない」存在として貶められている。
  ③ 帝室に深い所縁のある場所にも関わらず、皇祖アマテラスではなく少彦名命が祀られている(忍坂坐生根神社、天香久山神社など)
  ④ 少彦名命をオオクニヌシは知らなかったが、神皇産霊神の子供だと古事記は記し、神統譜において特異な存在であり常世思兼神との同質性が見られる。
     嚮導する神という性格に於いては、神武が「東の美しい国」を知るきっかけを与えた塩土老翁ともイメージが重なる。
  ⑤ また古事記は神皇産霊神が「故、汝、葦原色許男命と兄弟となりて、その国(葦原の中つ国)を作り固めよ」と述べたとし元々兄弟ではなかったと仄めかしている。
     葦原色許男命(大穴牟遅命)と「兄弟」に成ったのであれば、少彦名命(天日鷲命)は天御影命(天目一箇命)の兄弟なので同神が「オオクニヌシ」である蓋然性が高くなる。
     神話上「出雲」の地で天孫への国譲りを演じたのはオオクニヌシ、事代主命であったが、神武にヤマトを差し出したのは親戚筋に当るニギハヤヒであった。そして、神武の
     ヤマト入りに際して重要な情報源となった人物が「八咫烏」であり、その子孫が上で系図の一部を紹介した鴨縣主であった。

つまり本来、天津彦根命(天若日子)の息子(に位置付けられていた)である少彦名命(八咫烏でもあり、天日鷲翔矢命でもある)は当然、物部族の宗主であるニギハヤヒの陣営に属していたはず。父親の天津彦根命はヤマトの先住者である三輪一族とも融和し、味鋤高彦根命の妹を妻に迎えてヤマトに君臨していた。そこに「東征」してきたのが神武帝の一行だったのですが、事もあろうに陣営の知恵袋であり様々な産業部門の指導者でもあった少彦名命が、新たな征服者のために「八咫烏」となって道案内を務めてしまったという訳です。物部族から見れば、これは裏切り行為であり許されることではありませんでした。しかし、帝室の側から見れば彼は第一級の功労者です。ニギハヤヒ或いは宇摩志麻遅命が「舅」長髄彦を排除してヤマトを「献上」したという筋書きも、恐らく天津彦根命親子の確執をヒントにしたものだと思われ、神話の中で天若日子が高木神の「返し矢」に当たり絶命する場面は、彼の別名である天日鷲翔矢命の雄姿を映像化したように思えてなりません。何しろ諸神の中で、彼ほどの弓の名手はいなかったのですから。神武二年の春二月、帝は「功を定め、賞を行」いました。その時「剱根(ツルギネ)」が葛城国造に任じられ「頭八咫烏」も「賞(たまいもの)」の例に入り、その後裔が「葛野主殿縣主(鴨縣主)」であると日本書紀が明記しています。三輪山に近い香久山は、恐らく古くから地域に住んでいた人々(三輪族?)の聖地だったのかも知れません。彼等は古くからその「埴土」で拵えた神器で産土神を祀っていたのだと思います。内実を知る者によって秘匿すべき祭祀の核心が相手方に漏れてしまったのですから、もう、勝ち目は最初からなかったのかも知れません。

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