」は世につれ…、なのですが                        サイトの歩き方」も参照してください。

大阪出身の作家、小説家で開高健(かいこう・たけし,1930〜1989))という男が居た。中東からヨーロッパ、旧ソ連など半年余りかけて旅をして、昭和37年の初頭、帰国して間もない頃、偶々都内の電車に乗り合わせた女子学生たちの何気ない会話が彼の耳元で大きな波紋を広げた。二部の学生であるらしい勤勉そうな一人が『わたし、戦争中の歌を聴いているの』と無邪気に語り『戦争中の歌には、いいのが沢山ある』とも言ったらしい。「どことなくメダカ」に似た彼女たちの話しぶりを間近に聞いた開高は、

  あの「メダカたちは自分の歌を持っていないのではないかと思う

と感慨をのべ、更には、日本人が、

  「まもなく黒田ブシや、富士ノ白雪ァノーエやらに、もどっていくのではあるまいか

と極めて正確な「予言」までしている。(『アジア・アフリカ通信』2巻5号、昭和37年2月刊)晩年、ウィスキーのCMなどにも「出演」していたので、ご存知の向きもあるでしょうが、一見したところ、下町の屋台の縄暖簾に顔だけ突っ込み、焼酎濁酒の類をコップであおり、浪花節演歌の一節を渋い喉から搾り出していそうな風貌。ところが人は存外見かけによらないもので、このオッサンいや失礼、旦那の好きな音楽はシャンソンだと言うのですから、人間、本当に外見だけでは分らんもんです…。開高の生年は昭和5年ですから、終戦時には中学生だったはずで、学徒「出陣」は流石に免れたものの、生徒「動員」で駆りだされ、勉強そっちのけで日々、工場労働に明け暮れていた或る日の午後、敵軍のグラマン戦闘機から猛烈な機銃掃射を浴びせかけられ、友人と二人、ぬかるむ田んぼの中を転びつまろびつ、命からがら逃げ出した、と何処かの作品で書いていたような記憶がありますから、戦争の恐ろしさは十分身にしみていたに違いありません。そして、何より戦争による耐え難い「飢え」の経験も十二分に味わっていたでしょう。泥水の中で這いずり回る彼らに銃弾を、雨あられと浴びせた戦闘機のパイロットの顔には「笑み」すら浮かんでいた、のだとか…。

歌よりも「釣り」が好きだった開高健。  PR

ある有名な洋酒会社に就職した開高が、その会社のPR誌を創刊したのは、『貧乏人は麦を食え』と世迷言を吐いた?当時の宰相が『最早、戦後ではない』とのたまった昭和31年のこと。それから数年「終戦」から僅か二十年足らずで、若い女子学生が「戦争中の歌」を「いい」「好き」とまで言うようになっていたのです。第二次大戦に起因する或る「事件」の裁判を傍聴するため、わざわざイスラエルを訪れてきた彼にとって、無邪気に「戦時歌謡」を次々楽しげに口にする学生の存在は、彼女達が「普通の学生」であるだけ余計に、とても「やりきれない」ものだったに違いありません。ここで、当時の世相を、件の年表風に列挙してみると、次のようになります。[右端の(歌)とあるのは、その年に流行した歌謡曲の題名です]

  昭和34年  皇太子のご成婚。週刊誌が次々と創刊。岩戸景気。『東京ナイトクラブ』(歌)

  昭和35年  60年安保闘争。所得倍増計画。「ハイライト」発売。『アカシアの雨がやむとき』(歌)

  昭和36年  「シャボン玉ホリデー」「夢で逢いましょう」始まる。『上を向いてあるこう』(歌)

  昭和37年  キューバ危機勃発。テレビの保有台数が1,000万台を越えた。『いつでも夢を』(歌)

彼のPR誌と平行して生まれ、昭和30年代の半ば頃にピークを迎えたものに「うたごえ喫茶」がありました。なんでも新宿にあった一軒の喫茶店(「ともし火」?)で昭和30年に誕生したものらしく、若者を中心にした「民衆」が、誰に誘われるでもなく(つまり自分達の自由な意思で)自然とお店に集まり「ロシア民謡」「労働歌」などを歌い「連帯感」を強めたもののようですが、当方には経験が全く無いもので実態は良く知りません。(WEBで検索してみると同じような店が全国で百軒以上もあったようです)ただ、開高も、先の文章の前置きとして、

  「うたごえ運動はどこまでしみこんだのだろうか」

  「うたごえ喫茶で大合唱している諸君はいつまでそれらのメロディーを襞にしみつけているのだろうか」

と、やや不安気に書いていますから、安保闘争運動の激化に平行して「うたごえ喫茶」が大きな盛り上がりを見せ、一定の存在感を示していたことは確かなようです。しかし、その「運動」の只中にあり「運動」そのものを肯定していたはずの開高ですら、日本人が、若者が、取り分け普通の大人達が「まもなく」民謡或いは民謡調の演歌に回帰してゆく予感を抱いていたことになります。上でもご紹介したように皇室の「婚儀」を契機にTVの受信機台数が急増1,000万台を突破、世は「岩戸景気」に沸き返り、TVでは洋風のバラエティ番組が大いに幅を利かせていたにも係わらず、開高は日本人の「気質」が根深い所で「戦前」と繋がっており、如何に見かけ上は「変身」したとしても、本質的な部分は何も変わってはいないのだ、と喝破していたのです。

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開高に、そう言われて今更のように回顧するのですが、確かに昭和30年代の半ば頃、つまり小学校5,6年生の頃の一時期、夕方になると、或る番組の周波数にダイヤルを合わせていたことを微かに覚えています。その番組をどうして知ったのかは、不明なのですが…、ひょっとしたら近所の誰かが、その番組のファンだったのかも知れません。。

  「それにしても、メダカの言ったことは、ほんとうだろうか。」

  「あんな歌を毎朝放送しているようなところが、ほんとうにあるのだろうか。」

そのように彼がいぶかしんだ、女子学生が「聴いていた」というラジオ番組は知りませんが、小学生の頃「聞いた」番組は「軍艦マーチ」のメロディで始まっていたものです。(その後、5分か10分程度の「戦時」に関した朗読や投稿の紹介があったと思う)その「軽快」で妙に心地よい音階とリズムが子供の心根を捉え、後、中学生になってから吹奏楽部に入部する隠れた動機の一因になっていたことは間違いありません。それにしても昭和30年代後半は不思議な混沌が支配していました。それを歌謡曲とポップスのヒット曲を並べてみることで感じ取って頂けるでしょうか?!

  昭和35年  『アカシアの雨がやむとき』『黄色いサクランボ』『恋の片道切符

  昭和36年  『恋しているんだもん』『コーヒールンバ』『上を向いてあるこう』『パイナップル・プリンセス

  昭和37年  『いつでも夢を』『赤いハンカチ』『遠くへ行きたい』『ルイジアナ・ママ

  昭和38年  『高校三年生』『美しい十代』『ダニー・ボーイ

  昭和39年  『アンコ椿は恋の花』『涙を抱いた渡り鳥』『プリーズ・プリーズ・ミー

  昭和40年  『愛して、愛して、愛しちゃったのよ』『君といつまでも

そして開高がヨーロッパ旅行から戻り、メダカたちの爆弾発言に出くわした昭和37年、あの「ザ・ベンチャーズ」が初来日、翌翌39年には「ダイヤモンド・ヘッド」が日本中を席巻したのです。「民謡」「歌謡曲」(或いは浪曲もふくめるべきか)にエレキとポップス、それらが創り出す壮大なカオス、その只中に漂う青春がありました。そして「日本調」への回帰を開高の「予言」と冒頭では紹介しましたが、実は、そのような言い方は正確ではありません。何故なら、うたごえ喫茶が東京の一角に生まれた年、つまり開高が洋酒会社の宣伝部員になりPR誌の構成に頭を悩ませていた昭和30年、民謡界出身の歌手・三橋美智也(みはし・みちや、1930〜1996)が『おんな船頭唄』を大ヒットさせ、民謡調路線は30年代前半、既に「大衆」の支持を十分得ていたのですから。全くの偶然ですが、北海道生まれの三橋は、開高と同い年でした。先輩格の春日八郎(かすが・はちろう、1924〜1991)が歌舞伎から題材を得た作品『お富さん』で大喝采を浴びたのは、その前の年の出来事でした。

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