「かかし」と「はやし」の関係?を探る                       サイトの歩き方」も参照してください。

田んぼの畦道のそこかしこから、思い出したようにすいすいと芽吹き、いきなり大振りの花で辺りを賑わせる彼岸花が目立つ頃、主役の稲穂は黄金色に顔を輝かせ、静かに首を垂れて収穫の時が到来したことを告げます。遠くからは今風の「猪脅し」が間歇的に、猪ではなく人を驚かせる無粋な爆発音を轟かせる中、当然の如くに消えた存在があります。農村に限らず、今では街中でも「コンテスト」なるものが各地で開かれているそうですが、彼、本来のお役目は、もう随分と以前に終えたように思われます。

彼岸花と収穫直前の稲穂。  唱歌のモデルだとされる見沼のカカシ。

「山田の中の一本足のカカシ…」富国強兵を目標にしていた明治政府が、1911年に『かたつむり』『牛若丸』『桃太郎』『浦島太郎』や『紅葉』『雪』などと一緒に制定した文部省・唱歌、覚えておられる方も多いことでしょう。作詞者は不詳ですが、その歌い出しの文言は、どうやら古典を下敷きにしている様です。ところで、今「案山子」と書き表されている「カカシ」君が、初めて文献に登場したのは遠く八世紀にまで遡り、彼は、或る神話の中で次のように語られているのです。

  オオクニヌシが出雲の御大の御崎にやってきてみると

  波立つ海の上を天の羅摩船に乗り、やって来る神様がいた。

  オオクニヌシは、その神様に名前を尋ねたが、何も応えない

  家来の者達も誰一人、その神様を知らなかったのだが、

  多邇具久(たにぐく)が進み出て「久延毘古(くえびこ)がきっと知っています」と進言した。

これは『古事記』にあるオオクニヌシの国造り神話の一節で、海の彼方から遥々とやってきた少名毘古那神(すくなひこな)と対面したオオクニヌシが彼の名前を知らなかったため、誰か知っているものはいないかと周りの者達に尋ねたとき、多邇具久(ひきがえる)が久延毘古(かかし)なら必ず知っていますと具申する場面なのですが、古事記は、この文章に続いて、

「天下の事」知る神とあります(古事記) 「わたしが、カカシです」

  久延毘古は別名「山田の曾冨騰(そほど)」とも呼ばれ、

  足は不自由だが、天下のことを悉く知る神様

であると丁寧な解説まで付け加えているのです。彼らが登場する場面はあくまでも「神話」の形をとっていますが、オオクニヌシが目指していた国造りは、勿論「農業」こそが基盤のものであったに違いなく、親神様・カミムスビの「掌(たなごころ)」から零れ落ちるほど「小さい」神様であるスクナヒコナは「稲」の象徴なのではないか、だからオオクニヌシの「兄弟」の性格を与えられて、古事記に登場したのではないか、そんな風に思えてなりません。そして、神話時代から営々と続けられた国造りの結果、人々を慢性的な飢えから守り、毎年、一定の時期に収穫をもたらす豊な台地=「田んぼ」の中央に立ち、永い時間人々の生活を見続けてきた「かかし」が、天下のこと(人々の生活のすべて)を知り尽くしているのは至極当然のことと言えるでしょう。

つまり、元々「天下の事」を知る神様であった「そほど」「くえびこ」が、一体、何故「かかし」と呼ばれることになったのか?WEBで検索すると色々な「説」があるようですが、やはり農作業に関連した「かがし」を起源とする考えが有力なようです。「かがし」とは、田畑で育てている作物を有害な虫や動物などから守る目的で、強い臭いを発する「モノ」を焼き、その臭いを「嗅がす」ことにより撃退しようとしたとする解釈なのですが、皆さんは、どう思われますか?管理人としては「そほど」と言う音の響きに、何となく外国の香りを感じたのですが…。そんな経歴の持ち主である「山田のカカシ君」、実は歌のモデルだとされる「実在」のカカシが冒頭で紹介をした見沼のカカシなのです。そして、この見沼という土地には出雲の神様・オオクニヌシとは深い縁があります。元、浦和市に属する地域であった「見沼」の周りには氷川神社(ひかわじんじゃ、現・さいたま市)、中山神社(旧・大宮市)と氷川女体神社が鎮座しており、それぞれの主祭神は、ご想像通り、

  氷川神社=素戔嗚尊(スサノオ)   中山神社=オオナムチ   氷川女体神社=クシイナダヒメ・オオナムチ 

と、いずれも「出雲系」とみなされている神様たちです。オオクニヌシのページなどで詳しく説明をしましたので、ここでは繰り返しませんが「オオクニヌシ」という名前のカミサマは「出雲風土記」には全く登場しません。そして、古事記などの文献資料は「オオクニヌシ」が「オオナムチ」の別名である、と言っています。しかし中山神社が「簸王子社」と呼ばれ、「氷川」が出雲地方を流れる「簸川」(ひかわ)と同音であることが全くの「偶然」だとは思えないのも事実です。(出雲の地でヤマタノオロチを退治したスサノオが娶った姫がクシイナダヒメであり、オオクニヌシはスサノオの娘婿ということになっています)

縁結びで有名な出雲大社の祭神はオオクニヌシ  PR

その、国造りの神様・オオクニヌシを祀る出雲大社から真東に約8.5キロの所に「林木」(はやしぎ)と云う地名があります。取り立てて、何の変哲も無い当たり前過ぎる名前なので、これまで、社(やしろ)と関連付けて考えることも無かったのですが、当サイトの掲示板に出雲の方言に関する書き込みがあり、それを調べているうちに「はやし」の語源に思いを馳せることになったのです(つまり、今回のページのタイトルは、単なるこじ付けで、深い意味合いはありません)

出雲地方に限らず、日本海に面した石川・新潟・山形そして秋田・長崎などの各地方では、

  野菜などを「切る」ことを「はやす

と言います。古語辞典などによれば『古来から「切る」が良くない言葉として嫌われたため、全く逆の意味を持つ「生やす」が使われた名残である』と解説を述べ、その論拠として鎌倉時代に成立した『保元物語』の一説を引用しているのですが、若し、辞典の編集者達の言い分通りであったのなら、出雲や庄内、鶴岡そして栃尾、越後吉田さらには対馬などといった「地方」にだけ、独特の言葉遣いが残され、古代から権力の中枢が存在していた近畿地方には全く伝わっていない不自然さを説明することが出来ないように思います。尤も「はやす」という言葉に「切る」という行為が含まれている事実は否定できません。では、どう考えるべきなのか?そうした時「はやす」が秩父地方では「卵を雛にかえす」意味で使われている事を知ったのです。

「はやす」には「にかえす」の意味もある

「はやす」が「雛にかえす」の意であれば、言葉が「新たな生命を生み出す」行為そのものを指している事は明らかです。そして、それは単に、物が「自然に」「生える」様子を表現したものではなく、明らかに「人工的」な行為を意味していると考えて良いでしょう。つまり「はやす」とは、人が自然に手を加えて「何かを、新たに生み出す行為」に関わる言葉なのです。ここで即座に思い浮かんだ地名が「林木」でした。中世の文献にも荘園名として登場している同地は、オオクニヌシの大社さんの遷宮のために、わざわざ地域の人々が「木」を「生やした」場所ではなかったのか、そう思いついたのです。スイカやトマト、キュウリなどを「はやす」と、どうなるでしょう?…、そうです、単に「切れる」のではなく、それらの野菜や果物は「分割されて」「数が増える」のです。古代、御社を大切にした人々は田の神様たちの古里でもある山裾に分け入り、そこに神の社を建てるため必要な木々を植え、そこを「はやし」と呼んで後世に伝えようとしたのです。このように考えれば、芸能などで盛んに使われる「お囃子」も、その根は一つだと納得できるのではないでしょうか!また、お正月に「門松」を飾る風習は、お隣の大国から「輸入された」ものだということになっていますが、松を「はやす」ことが豊穣神の分霊をも意味しているのだと考えれば、山(裾)から「はやし」て来たばかりの瑞々しい緑の松を家々の「門」に飾ることこそ、子孫繁栄を願う人々の神聖な営みだと理解することが出来ます。そして門松の緑が「山」から下りてくる歳神さまや、山の神様たちの目印であったことは言うまでもありません。

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