かくれんぼ、茶壷に追われて…                         サイトの歩き方」も参照してください。

五月の五日は端午の節句、幼い頃、毎年連休前のこの時期になると母親の生家から沢山の「笹巻き」(ちまき)が届けられました。あの、笹の独特の香りが未だに脳裏のどこかに漂っています。ただ、味となると、子供心にも余り「美味しい」ものだと感じた記憶がありませんから、もう、駄菓子の方に興味が移っていたのだと思います。戦後、十年余り、世の中も、少しだけ豊かになっていたのかも知れません。

別段、これといった確証があるわけでもなく、ただ、漠然とした思いがあるだけなのですが、子供の遊びについて考えているうちに、そんな思いに取り付かれたのです。例えば「かくれんぼ」が、その代表格。……何を言いたいのか、と言えば、つまり、昭和の20年代、30年代までの「遊び」(大げさに言えば文化そのもの)に関する限り、江戸時代からの時間の流れが、ご一新や昭和の敗戦にもかかわらず、完全には遮断されずに滔滔と意識の底流には存在し続けているのではないのか、いや、極論すれば、江戸期と現在との間に大きな意識の落差は存在しないのではないのか…、そんな妄想に捉われたりする今日この頃なのです。

「かくれんぼ」そのものは、かのお隣の大国で発生した大人たちの遊び『迷蔵』が原点なのだそうで、わが国には平安時代までに、恐らく遣唐使に従い大国に行き来して学んだ留学僧たちによって伝えられ、やはり宮廷貴族たちが大人の、つまり男女間の「愛」を確かめるための「遊び」として行われていたそうです。それが何時、民衆子供の世界に広まったものなのか、詳しいことは分りませんが、このオノコロ・シリーズの常連とでも言うべき戯作者山東京伝(さんとう・きょうでん、1761〜1816)の著作には、次のような説明がなされています。

  「かくれあそび」とは今言う「かくれんぼ」なるべし。

  「かくれんぼ」は「かくれ子」の転語である

京伝の「骨董集」より  山東京伝

骨董集」(上下ニ巻本だが著者が急逝したために未完、大田南畝が巻頭文を寄せています)は1814年頃に書かれた、京伝の時代考証本とも言うべき労作なのですが、江戸期以前から既に「かくれ遊び」というものが一般的な遊びとしてあり、更には、その「遊び」の核心が「かくれ子」つまり「隠れた」「子」を「探し当てる」ことにあったことが分ります。つまり、良く知られている、

  1 「鬼」(になる子)を決める

  2 「鬼」は決められた場所で眼をふさぎ、ある時間が経過するまで待つ(もーいいかい)(まーだだよ)

  3 一定の「数」を数え終えたら探し始める(もーいいよ)

  4 「」は交代しながら、遊びは続く

という極めて単純至極な「遊び」は子供達の大のお気に入りでした。「缶けり」が、ここから派生した遊びであることは言うまでもありません。そして、この「かくれんぼ」東洋にだけあるものかと云うと、そうではなくイギリス(hide and seek)、フランス(cache cache)、ドイツ(verstecken)などヨーロッパ諸国にもある世界的な遊びのようです。ただ、日本のものと大きく異なる点が一つあります。それは、

  多数の「鬼」が、一人ないし少数の「人」を追いかける

と云う点で、これは欧州諸国の人々が元々狩猟民族であることに起因しているのかも知れません。ところで「かくれんぼ」は子供達が好んだ「遊び」の原点であり、彼らは自発的に好きな場所に隠れることに熱中したわけですが、江戸期の街道筋では、全く異なる「かくれんぼ」を余儀なくされた子供達がいたのです。

  ずいずいずっころがし ごまみそずい 茶つぼに追われて とっぴんしゃん ぬけたら どんどこしょ

  俵のねずみが米くってちゅう ちゅうちゅうちゅう おとさんが呼んでも おかさんがよんでも ききっこなぁしよ

  井戸のまわりで お茶わんかいたのだあれ

京都・宇治の地で栽培された「お茶」を、江戸に住む将軍の許へ届ける宇治採茶使が行列を従えて通るようになったのは1633年のことだとされ、関わりあいになることを怖れた庶民たちは「お茶つぼ道中」が来ると、家中の「戸」を全て閉ざし、子供たちが「外」で遊ばないようにしました。何事にも好奇心旺盛な彼らのこと、ひょっとすると障子の隅に指で穴を開け、こっそり覗いていたのかもしれませんね。

  錦絵に描かれた子供たち 立派な茶壷です  行列風景

ところで、今、日常口にする「お茶」は、煎茶・緑茶が主流ですが、江戸の中期までの「お茶」は、その名前の通り「茶色」の「煎じた」お茶だったのです。京都・宇治の茶所で農業を営んでいた一人の人物が、或る日、画期的な製茶法を開発しました。1738年に生まれた「蒸し製煎茶」がそれで、瑞々しい緑色をした「お茶」は江戸の人々に大好評を博したのです。その人の名を永谷宗円(ながたに・そうえん、1681〜1778)と言います。何処かで聞いたことのある苗字だと思いませんか。そして、永谷さんの「お茶」を、お江戸で一手販売した人の名を山本嘉兵衛さんと言いました。嘉兵衛さんの生国も京都・宇治の山本村でしたとさ。

     
     
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