藤原鎌足の別業(別荘)を探せ                                         サイトの歩き方」も参照してください。

『日本書紀』は、大化の「改新」の偉業を目前に控えた皇極三年春正月、中臣鎌足(なかとみ・かまたり,614〜669)が、神祇伯(長官)への就任を固辞して「三嶋の別業」へ引きこもり、改革の進め方についての思案を重ねたと伝えているのですが、彼の本業(本拠地)が大和国のどこかであったのに対し、もう一つ、安心して思索にふけることの出来た場所が摂津国三嶋の地にあったようなのです。確かに『大阪府全志・巻三』という書物によれば、摂津国嶋上郡だけをとってみても天児屋根命を祭神とする春日神社、八幡神社などが二十近くも鎮座、奈佐原には彼のものではないかと推察されている阿武山古墳が存在しています。また、三嶋という土地そのものが早くから開発され、大和の中央勢力との結びつきを強めていたことが「記紀神話」でも度々語られていますから、鎌足の「出世」を支えたに違いない、確かな地盤があったことを想像させるのです。

 磐手杜神社(大阪高槻) 磐手杜神社の摂社

その鎌足の子・不比等(659〜720)とも縁の深い橘諸兄(たちばな・もろえ,684〜757)が左大臣の任にあった天平勝宝七年(755)五月、当時、右大弁の地位に居た多治比真人国人(たじひ・くにひと,生没年不詳、多治比島の孫、宣化帝の後裔とされる貴族)の邸宅で催された宴に招かれ、

  あぢさゐの 八重咲くごとく 弥つ代に  をいませ我が背子 見つつ思はむ 

と亭主の長寿を歌った一首が「万葉集」に採録されているのですが、その諸兄から数えて六代目の孫にあたる人物が摂津三嶋の安満に住んでいました。祖父は中納言・公頼、父親が相模国司を務めた橘敏貞の子にあたる千観(せんかん)という天台宗の僧侶がその人で、もともと参議であった安部是雄が延暦九年(790)に創建した金龍寺(別名・安満寺)を西暦964年に再興した事業で知られています。この、一風変わった名の由来は、なかなか子宝に恵まれなかった母親が、京都・清水寺の千手観音に祈ったところ『一葉の蓮華を授かる夢を見て』懐妊したことに拠るものらしいのですが、真偽のほどは?です。その名僧・千観に縁のある社ではないかと思われる名前を見つけたのが、上でも紹介をした『大阪府全志』(井上正雄著、大正11年11月刊)収録の資料なのですが、明治から続いた神社合祀の流れの中、大正3年(1914)磐手村大字安満千観(現在の高槻市安満)の鎮座地から、もう一つのお社と共に磐手杜神社に転祀されたのが千観神社だったのです。大正時代の移転時には既に、千観神社の祭神が「不詳」とされていたことに一抹の寂しさを覚えますが、地元住民にとっては馴染みの薄いカミサマであったのかも知れません。閑話休題(それはさておき)。

長岡から京都へと「平安」の理想郷を目指した桓武天皇(かんむてんのう,737〜806)が、自らの朝廷を、従来のものとは意識的に区別し、二度に渡る遷都も、過去への決別の意味が込められていたのだとする見方がありますが、何事にも用心深い天皇は、彼の新都をあらゆる凶事・悪霊から護り切る手段をも講じていたようで、京都の四方に配置した大将軍神社も、それぞれの「方角」の「凶」を防ぐ意図があったようです。「大将軍=金星」は、お隣の大国では「軍事」の星神とされたようですが、わが国では陰陽道に習合され暦や方位を司る荒ぶる神として敬われ、恐れられました。この星神の面白いというか一風変わった性格は『三年ごとに己の居を変える』所にあるのですが、そのため全方位=四方を固めなければ「凶」が生じると考えられた訳です。(方角の吉凶は現代でも全国の各地に風習として伝えられ『今年は、この方角で作事するのは良くない』との理由から、建築・土木の工事などを控えるケースもあるようです)

天皇の都を「凶事・異変」から守る神様が居たのであれば、西暦737年、四兄弟を相次いで亡くし、一時存亡の危機の瀬戸際に立たされた藤原氏が、始祖とも言うべき鎌足の「聖地」を同様のバリアで防御しなかったはずがない、と言うのが今回のテーマへの取っ掛かりなのですが、一度も「都」であったはずもない摂津の一隅にも「大将軍神社」が鎮座していたのです。

笠森神社  阿久刀神社   PR

まず最も東北の方角を守っていると考えられるのが、このオノコロ・シリーズで何度も紹介してきている磐手杜神社(摂社)の大将軍社で、祭神は土着の産土神と習合したのか八衢比古神(やちまたひこ)となっています。この社の、すぐ西には「サイノ神」の小字(集落単位の呼称、こあざ)が残っていたようですから、桧尾川そのものが東西の集落を区分する天然境界の役目を果たしていたものと考えられます。これに対して西北の位置に鎮座しているのが笠森神社(高槻市西真上、摂社)で、もともと地元の豪族・笠氏の祖先を祀った社だと思われるのですが、芥川東岸の好位置を占めていることから西北の方位を担当したものと推測されます。

笠氏=神々の系譜上からは、吉備地方が本貫の一族だとされています。これまでの研究では製鉄や精銅などの金属生産の技術をもって近畿あるいは若狭地方へも進出したのではないかと考えられます。「笠」に関しては、多くの説話や伝承の中で「鬼」との深いつながりが語り継がれていますので、その面からも注目される氏族です。ただ、高槻の笠森神社については若狭彦神社の社家を務める笠氏の一族だと考えた方が良いのかも知れません。九世紀に陰陽博士となった笠名高(?〜871)を想像してみるのも、強ち的外れとは云えないかも…。

そして芥川を挟み、西側にもう一つ重要な社があります。それが清福寺にある住吉大神を祀る阿久刀神社。この小社も地元豪族の産土神を祀ったのが始まりだと思われますが、神社略記によれば「阿刀連」は「神饒速日命(カミニギハヤヒ)」の子孫です。明らかに「天孫」直系ではない、この社に合祀の一環としてではあれ二つもの大将軍社が何故持ってこられたのか、その裏の事情を知ることは出来ませんが、神社に残された資料から、それぞれの社が元々「柳原」と「清福寺」にあったことが判明しています。この「柳原」は笠森神社から芥川沿いに南東に下った地区の小字で、現在では国道171号が京都に向って右90度に折れ曲がる起点となっています。(国道は、この地でJRの線路を跨ぎ南に下り、再び90度折れて北東の京都を目指します)そして更に芥川に沿って南に下ると「下田部」と呼ばれる地区に辿り着きますが、ここにも「鎮守」の杜として八衢比古神が久那斗神と共にお祀りされています(旧、大冠村字東五反田)。以上の、それぞれの神社の位置関係からすると「東南」の一角を占める、現在の「辻子(ずし)」(奈良時代の条里制による東南端=六条八里=に当たる)周辺に、あと一社あって当然なのですが、上記の資料からはそれらしき社を見つけることが出来ませんでした。ただ興味深いことに、淀川に程近い冠庄辻子と、直ぐ近くの東天川には速素盞烏命(スサノオ)を祭神とする冠須賀神社がそれぞれ鎮座していますから、平安京の例に倣い、スサノオをもって「大将軍」に代えたとも考えることは可能です。(京都に現在も残されている大将軍神社ではスサノオを祭神としている)以上の事実と推測を総合すると、中臣(藤原)鎌足の「別業」は、芥川と桧尾川に挟まれ、北東端を磐手杜神社、南東を冠須賀神社そして西南を鎮守神社(今の南庄所)とする台形の地であったことが分かります。そして、この土地は別のページでも紹介してきた島上郡児屋郷そのものに他なりません(藤原氏の祖先神の名前を思い出してみて下さい)。尚『大阪府全志』には、もう一箇所「三島郡阿武野村字宮の前」に大将軍神社があり八衢比古神と久那斗神を祀っていると記しているのですが、未だ確認できていません。ただ、この地は鎌足の墓とされる阿武山古墳の真西に相当する場所に当たりますから、ここに大将軍が祀られていたとしても何の不思議もありません。藤原氏の子孫たちが二重の防御壁を設けたとしても当然ですし、土俗の賽の神と習合した産土神と考えることも自由でしょう。

太政大臣藤原道長(ふじわら・みちなが,966〜1028)は長女、次女に続き三女・威子も天皇(後一條)の中宮としたことから、

  一家立三后、未曾有なり

と、半ば驚きと恐れをもって当時の貴族達から評されましたが、その三女立后の日(寛仁二年三月)、即興で詠んだとされる歌が、小野宮右大臣・藤原実資(ふじわら・さねすけ,957〜1046)の日記『小右記』に記されています。

  この世をば わが世とぞ思ふ 望月の  かけたることも なしと思へば

浮世絵に描かれた源頼光  襲いかかる蜘蛛の賊  藤原鎌足の像

いつものオマケ話を付けたしましょう。福知山には、上で見た「笠氏」に関わる一つの伝説があります。昔むかし大昔、青葉山から大江山の辺りに出没していた土蜘蛛・陸耳御笠(くがみみ・みかさ)を、崇神天皇の弟・日子坐王が退治した、という記紀神話によく見られる「まつろわぬ人々」の征服話しなのですが、日本の鬼を研究している村上政市氏によれば『大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡』に属する地域であったことから、ヤマト政権が成立する以前には「笠」氏一族が支配する「笠王国」が丹後にあったと推測できるようです。また、スサノオの武勇伝で知られる「越の国のヤマタノオロチ」ですが、彼?は、スサノオに敗れた後、近江まで逃げ帰り、その地で豪族の娘と添い遂げた、というお話しもあるようで、藤原道長に仕えて最強の武家集団を創り上げた源頼光(みなもと・よりみつ,948〜1021)が四天王と共に退治した酒呑童子(彼も土蜘蛛です)は、ヤマタノオロチの子孫だったのかも知れません。従わぬ者、体制になびかない者、土地に定着して農耕を生業としない者、自由に山野を跋扈する者は皆「鬼」とされ「英雄」たちによって退治されました。

斉明七年(661)七月、女帝の葬儀の様子を窺い朝倉山の上に、大笠を着て出現した「」は、果たして誰だったのでしょう?

     
     
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