神様と桜井茶臼山古墳                                          サイトの歩き方」も参照してください。

歴史の教科書などによれば「伊勢参り」は十七世紀の半ば、江戸から始まったのだそうですが、明和八年八月にも京都宇治を中心とした「おかげ参り」が大流行、記録によれば、なんと二百万人が参加し、街道沿いの宿場町などでは余りの人出で向かいの家に行くのにも難儀したのだとか…、それはさておき。尾張藩士であり国学者として知られる河村秀根(かわむら・ひでね、1723〜1792)が息子・益根と共に著した「日本書紀」研究に欠かせない『書紀集解』巻22によると、

  明和辛卯(1771,八年)大旱(おおひでり)、土地の住人が欽明陵の小池で、水を得ようと深さ十尺(3メートル)余りの穴を穿ったところ
  一本の大柱が表れた。これが、きっと坂上直が樹てたという柱なのだろう

と解説してあります。推古20年(612)2月、絶頂期にあった蘇我氏は一族の娘で欽明帝の妃であった皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬したのですが、この「行事」から八年を経た推古28年10月にも更に、

  砂礫をもって檜隈陵の上に葺く。即ち、域外に土を積みて山をなす。依りて氏毎に科せて、大柱を土の山の上に建てしむ。

装飾工事を行い、中でも『時に倭漢坂上直が樹てたる柱、勝れて太だ高』かったので『故、時の人号けて、大柱直』と誉めそやしたとあります。当時としても余程、見事な「大柱」だった様子が伝わる記述ですが、何のために建てたものなのかは分かりません。ただ、書紀も事実として淡々と記していますから、陵の築造に伴うものとして取り立てて珍しい行事?では無かったのだと思われます。(この坂上氏は、八世紀の終わり頃、征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂の生家です。土木・軍事など多彩な技術で貢献していたと思われます)

書紀集解巻二十二  大柱直の部分  欽明陵古墳

昭和20年代に発掘調査が行われてから60年が経過した平成21年春、奈良桜井にある古墳に再び研究者たちの関心が集まり、後円部の墳頂から遺構が発見され、考古学に興味を持つ人々から注目されました。桜井市外山(とび)にある茶臼山古墳(全長207m、3世紀末〜4世紀前半の築造、方円墳)で、

  四方の溝の中に柱痕跡を10本分確認。30センチの丸太、約150本が方形壇を取り囲んでいた

と橿原考古学研究所が発表したのは6月12日のことでした。この「柱列」は埋め込み部の深さが1.3mに及ぶことから、柱そのものの高さも約2.7m近くあったものと考えられ、古墳の主が眠る部分(の真上)を取り囲んだ「柱」列の意味するものが何だったのか興味は尽きません。ところで記紀神話によれば、昔むかし「オノゴロ島」に天降ったイザナギ・イザナミの二神は、

  天の御柱を見立て、八尋殿を見立てた

とあり、時代が下ってオオクニヌシ(大穴牟遅神)がスサノオの娘・須勢理毘売と共に「逃げ出した」時、スサノオは、

  その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、また河の瀬に追いはらいて、
  意禮、大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が娘須勢理毘売を嫡妻として、
  宇迦能山の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て居れ。この奴。

と花嫁の父らしい心の籠もった餞の言葉を投げかけています。ここで「御柱」「宮柱」と呼ばれているものは勿論、館・宮殿を建てるための建築「材」であることは明らかなのですが祝詞『祈年(としごい)の祭』で、

  座摩(いかすり)の御巫の辞竟えまつる。皇神等の前に申さく(中略)、皇神の敷きます、下つ磐ねに宮柱太知り立て、
  高天の原に千木高知りて、皇御孫の命の瑞の御舎を仕えまつりて

と称えられ、有名な『春日の祭』『出雲の国の造の神賀詞』など多くの祝詞でも、 

  大神等の乞いたまいのまにまに、春日の三笠の山の下つ石ねに宮柱広知り立て、高天の原に千木高知りて、
  天の御影・日の御影と定めまつりて、たてまつる神宝は、

  挂けまくも恐き明つ御神と、大八島国知ろしめす天皇命の大御世を、手長の大御世と斎うとして、
  出雲の国の青垣山の内に、下つ石ねに宮柱太知り立て、高天の原に千木高知ります

と称えられるなど、主要な朝廷の祭事において「底津(下つ)磐根に宮柱太知り」という言葉が、正に呪文のごとくに繰り返し述べられてきたのです。その意味する処は「不滅の建物=磐石の権威」と謂うことだと思いますが、四世紀の記憶が七世紀の政権に全く引き継がれなかったとは想像しにくいのですが、皆さんはどのように感じますか?柱を特定の人物の墓に立てる行為を「鎮魂」あるいは「封じ込め」など霊的なものと見なす意見があるようですが、桜井(纒向)の太田池にあった「素堀りの井戸」跡と思われる土坑から興味深い木製品が出土しています。

  桜井茶臼山古墳  仮面  

長さ26cm、幅21.5cmで厚さが1cmにも満たない「仮面」は、当時(庄内1式期、3世紀前半頃)農耕に使用される目的で作られた広鍬を転用したものらしく、柄の部分に相当する穿孔が、そのまま人の「口」を表現しています。纒向遺跡そのものが現在も調査が続けられているので即断は禁物ですが、この仮面が農具から創られ、大切な飲み水の源である井戸の中から見つかった(故意に投げ入れた?)ことから、弥生人が農耕(稲作)に関連した祭事を行う際に用いた可能性があるでしょう。二つの遺跡は同じ桜井市の中にありますが、決して「近い」距離ではありません、しかし、そんなに「遠く」離れている訳でもありません。若し、皆さんの手元に日本地図があれば近畿奈良県のページを開いてみて下さい。

大神神社の、ほぼ真南に位置する桜井茶臼山古墳は、国道165号線に沿った場所にあることが見て取れますが、元々は忍坂、朝倉に抜ける忍坂街道に寄り添う形で造られたもので、直ぐ南にそびえる鳥見山(とびやま)丘陵の先端を一部切り取って古墳の形に整えたものなのです。「新撰姓氏録」河内国神別天神の項には『鳥見連、ニギハヤヒ十二世孫、物部小前宿禰の後なり』とあって興味をそそりますが忍坂は、あの允恭帝の皇后であり、応神帝の妻・息長真若比売の孫娘・忍坂大中姫(継体帝の祖父・大郎子の姉妹)の故郷でもあります。また、伝承の域を出ませんが、垂仁帝の皇子・五十瓊敷命が「剣一千口」を作って「忍坂邑に収めた」話が日本書紀にあり、古くから桜井の忍坂(おしさか)が防衛上重要な役割を果たしていたことも十分考えられます。「宮」という文言にこだわらなければ、武器庫としての性格を持つ建物が存在していたのかも知れません。(国宝の隅田八幡宮人物画像鏡には「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」の銘文があり『意紫沙加(おしさか)』に『宮』が存在していたと考えられます。また、同社の画像鏡の元鏡と思われる物が各地(東京狛江、福井若狭、京都京田辺)から見つかり、このサイトでも度々紹介している大阪藤井寺の長持山古墳からも出土していることは、ヤマトの国造りの過程を考える上で一つの暗示となりそうです。長持山古墳は隣接する市野山古墳の陪塚と考えられており、同墳の主は忍坂大中姫の夫・允恭帝です)

茶臼山古墳から南西約600mの所(桜井市字能登)に等彌神社が鎮座しています。城上郡の式内社で上ツ尾社の祭神は、現在オオヒルメムチ即ち天照大神だとされていますが、尾張の初代藩主・徳川義直(1601〜1650)が1646年に著した『神祇宝典』は同社の祭神をニギハヤヒだと明記しています。そして、この日本史探訪コーナーでも御馴染みの『神社覈録』(鈴鹿連胤)では「不詳」とされ、明治20年に出版された栗田寛の『神祇志料』は等彌神社が「今、十市郡桜井谷村にあり」と記すのみで神名を詳らかにしていません。書紀が神武即位前紀戉午年十有二月条において、連戦して勝ちあぐんでいた「皇師」が「遂に長脛彦」を「撃つ」ことが出来たのは「金色の霊しき鵄(とび)」のお陰であったとし、鳥見(とみ)の地名は鵄(とび)が「訛った」もので、実際に長脛彦を亡ぼしたのは神武に先駆けて「天磐船に乗りて、天より降りいでた櫛玉饒速日命」自身であり、彼の妻の名は長脛姫(亦の名は鳥見屋媛)だったと記録しているのですから、この古墳に葬られた人物は鳥見一族の長であったに違いありません。(下左の浮世絵は静岡県立中央図書館が収蔵しているものです。同館の許可無く画像を複製、転載することは出来ません)

広重・宮川の渡し   伊勢神宮

閑話休題、それにしても何故、神様は「一柱、二柱」と数えるのでしょう。また、そうすることに何故、違和感を感じないのでしょう?不思議と言えば、これ位、不思議なこともありませんね!柱にまつわる有名なお祭りなどとも関連があるのかも知れません。ところで、お陰参りは六十年の周期で大流行を繰り返したのだそうですが、肝心の「お伊勢さん」つまり伊勢神宮も定期的に社の改築を行います。二十年ごとの式年遷宮と呼ばれる社殿の移新築行事がそれですが、このお社にはとても興味深い伝統が千数百年の時を経て守られてきました。社の中心、つまり神様の住いとなる場所には必ず一本の柱が建てられる決まり事になっており、社が建て替えられた後も、その柱(の建てられるべき場所)だけは残され、次の遷宮まで仮の社の中に安置され続けるのだそうです。何やら、この仕来りは今まで見てきた「底津(下つ)磐根に宮柱太知り」そのものの様に見えます。若し、この想像が許されるのなら、古墳石室の真上を取り囲んだ「太柱」の列は、神社の原型だったと考えてもおかしくありません。

(追記・平成21年10月22日、再調査された桜井茶臼山古墳の石室写真が公開されました、見事な朱塗りです。)

       
     
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