東洲斎写楽の登場秘話、蔦屋と山東京伝の筆禍                「サイトの歩き方」も参照してください。

蔦屋と京伝は寛政二年に出された二つの触書について余りにも無警戒というか不用心だったと言わざるを得ません。自らの「挿絵」に対する幕府の強く素早い反応に、もっと注意を払うべきだった。そう思うのは筆者が後に起きる騒動の有様を知悉しているからなのかも知れませんが、京伝は天明九年(寛政元年)黄表紙『黒白水鏡』(石部琴好著)に描いた挿絵がお咎めを受け、著者の石部は江戸払いになり彼自身も過料(罰金刑)処分となっていた事実をもっと重視すべきだったのは確かです。何故なら、江戸期を通じて黄表紙草双紙の類の読み本に描いた「絵」そのものが処罰の対象となった最初の例だったからです。つまり、幕府は出版物、とりわけ黄表紙、洒落本などの読み物と浮世絵版画の持つ大きな影響力にある種の脅威を感じ、次々と統制の輪を狭めており、寛政二年五月に続き同年十月に出された触書には『書物類の儀、前々より厳重に申し渡し候ところ、いつとなく猥に相成り候、何によらず行事改めの絵本草双紙の類までも、風俗のために不相成り、猥りがはしき事など勿論、無用に候』の文言が含まれ、絵本や読み本などの隆盛を苦々しく思っていた当局は地本問屋の「行事」に対して「改」(輪番制による問屋自身による検閲)の徹底を強く要請したのです。北町奉行の初鹿野河内守信興は「改革」を旗頭に掲げた幕閣の意向を背景に、文芸分野での統制を強く意識した人物だったようで、二年の十月二十七日には触書に加え十七軒の問屋に改めて「通達」を出し注意を喚起しています。そのような雰囲気の中で山東京伝が「遊里」の内情を事細かに描いた洒落本『仕掛文庫』など三冊を出版したのですから、当局の眼にどう映ったかは明白です。

「黒白水鏡」は角書きに「世直し大明神・金塚由来」とある通り、天明期に絶頂を迎えた田沼政治を揶揄したもので、意次の息子であった若年寄の田沼意知が天明四年、江戸城内において幕臣の佐野政言に切り付けられ、その傷が元で亡くなった事件を題材に、幕政を大いに皮肉った内容の読み物だったのですが(下の画像参照)、寛政の触書には『当世のものを壱枚絵にすること』『異説を唱え主題にすること』を「風俗のために宜しからず」とする幕府の判断が明瞭に示されています。つまり言葉を換えれば、どのように時代設定を変え、登場する人物名などに加工編集を施していても、その根底に「体制批判」の考えがあるものは一切許さないという当局の強い意志が見られるのです。そこには「ご政道の批判は必ず取り締まる」という公儀の基本姿勢が明確に表れています。洒落本の出版を前に、蔦屋と京伝が一抹の不安を感じてはいたことが分かる資料が残されています。それが『娼妓絹麗』の最終部分で、作者はさりげなく「色情に修身を謬ともがらのすこしは戒めともならんかと、蔦の唐丸が求めにまかせ、紙くず籠より拾いだし」の一文を態々書き入れた部分なのですが、読者よりも奉行所の関心を逆に煽った結果を生んだのかも知れません。江戸っ子が身上とした洒落心も、お上の政策には到底通用しなかったのです。また三冊の袋書きに「教訓読本」の四文字があったことも幕政を愚弄するものとして摘発材料になったことは確かなようです。

  「白黒水鏡」より  

   「娼妓絹麗」より

江戸で一番の戯作者と出版元のコンビが世に問うた三冊の洒落本が「遊女の放埓の体を書き綴り」「猥りがはしき事など」出版の禁制を犯したと判断され、京伝が手鎖五十日の刑、そして版元の蔦屋重三郎は財産の半分没収という極めて重い処分となったことは皆さんご承知の通りです。ところで筆者はこれらの読み物が絶版になったものと受け止めていたのですが、復刻版として後日販売されたのではないかと思われる資料もあり、発禁処分だけで済んでいた可能性もありそうです。また、その資料には見覚えのある人物の名前なども出ていますので、筆禍から写楽登場までの舞台裏を覗いてみることにしました。「娼妓絹麗」には京伝が自ら付した序文もあるのですが、それとは別に柳浪館主人の題辞も巻頭に在り、上で見てきた「戒め」云々の文の後にも「飯顆山 曼 鬼武」の「後簾」という文章が続き、さらに又その次にも「煙花浪子」の跋が記され、最後に蔦屋の出版物の案内目録が宣伝用に綴じられています(画像参照)。ところが、煙花子の跋や蔦屋の出版目録などを欠いた資料も伝わっていますから、出版が一時的に差し止められていただけに留まったと考えることも出来そうです(或いはお上の呼び出しまでの間に素早く版を重ねたとも想像できます)。

寛政三年当時に京伝の「食客」だったと公言している煙花浪子とは誰なのか、WEB上で随分と探したのですが思わしい結果を得ることが出来ませんでした。文化年間に『吉原帽子』という題名の洒落本を書いた人であることは確かですが、実名は伝わらず京伝、蔦屋とのつながりも不明です。同じ年に『一雅話三笑』を著した感和亭鬼武も序文に「京伝門人」の肩書を付けていますから、曲亭馬琴のように弟子入りを志願した戯作者の一人だったのかも知れません。物書きとしての生き方を望んでいた馬琴は、何度も京伝宅を訪ねて助言を求め、京伝が創作の意欲を無くしかけていた時期には鬼武と共に代作まで行っていたようです。彼は、そんな「実績」を背景に寛政三年の秋、京伝の食客となり、同じ年初の黄表紙『盡用而二分狂言』を泉屋市兵衛の店から大栄山人の筆名で出版、翌四年には京伝の推挙もあって蔦屋の店を手伝うまでになっていました。

馬琴自身は寛政五年寄食していた蔦屋から独立、家庭も持つ身となるのですが、蝦蟇の妖術使い・自来也生みの親として知られる鬼武も、同じ年に出された『貧福両道中之記』という作品の中で自分の筆名を宣伝してもらうなど、京伝の極近くで創作を手伝っていた可能性が十分考えられます。また数年間上方で暮らしていた十返舎一九が、同じ年江戸に舞い戻り、どのような経緯かはわかりませんが馬琴と入れ替わるように蔦屋の食客となって版元の仕事を手助けするようになっています。恐らく「然るべき者からの紹介状」を持参して蔦屋の信用を得たと見られますが、その模様を馬琴は『其所を離縁し流浪して江戸に來つ。寛政六年の秋の頃より通油町なる本問屋蔦屋重三郎の食客となりて、錦繪に用る奉書紙にドウサなどをひくを務にしてをり』(「近世物之本江戸作者部類」)と書きとどめています。正に東洲斎写楽の浮世絵版画が蔦屋の下で企画制作、そして販売されていた最中の現場を一九は現実に見ているはずなのですが、他の関係者と同様、彼も写楽という名前の絵師について一言の証言も残してはいません(唯一の物証が寛政八年に出版された『初登山手習帖』に出ている有名な凧絵です)。天明の大凶作、飢饉そして打ちこわしと世相は悪化の一途を辿り、庶民生活の基盤となっていた米価も二倍近くに高騰しました。重苦しい経済環境の中で登場した松平定信の「改革」が始まり、お上による厳しい統制の足かせが出版業界を包み込む中、蔦屋は資金力のある狂歌ファンの存在に注目、旧知の間柄で狂歌の魁とも云うべき大田南畝の協力も仰いで、人気上昇中の浮世絵師・喜多川歌麿の画才を生かした「画本」や「絵本」を次々と世に送り出しました。

寛政三年春の筆禍は京伝の心に深い鬱屈を生み、一旦は創作活動の断念放棄の想いまで抱かせたのですが、蔦屋の懸命の説得が功を奏し絶筆だけは辛うじて免れることとなったものの、翌四年に蔦屋が出した京伝作の黄表紙は僅か数作品に留まっています(更に、其のうちの幾つかは鬼武などによる代作ではないかと推測されます)。そんな折、周囲からの勧めもあって京伝は両国柳橋で書画会を開き、催しは盛況を呈してそれなりの資金が彼の手元に残ったのです。銀座一丁目に「京屋伝蔵店」を持つことが出来たのも、京伝の支援者たちが彼の作品を高値で買い取ってくれたからに違いありません。残念なことに新規出店と引き換えのように彼は妻を亡くしますが、写楽が大首絵でお江戸の町に登場する寛政六年までには何んとか執筆意欲を回復させ、同じ年『金々先生造化夢』や図案集を刊行して世間に健在ぶりを示すことが出来たのです。時間が少し前後しますが、鬼武の代作ではないかと疑われる『桃太郎発端説話』を京伝は寛政四年に出しているのですが、その挿絵を担当した絵師が春朗でした。ご承知の通り彼は後の北斎ですから、蔦屋が将来を見込んで仕事を任せたのではないかと想像されます。写楽前夜、蔦屋の周辺には京伝、歌麿、一九、春朗、馬琴そして鬼武といった錚々たる才能がこぞって集結していたのです。

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