笠縫邑ヤマトの何処に在ったのか? 笠縫と楯縫                                 「サイトの歩き方」も参照してください

大和での政権基盤を固めた崇神帝は朝廷における神祇の在り方についても苦心を重ねたと伝えられ、元々は都の宮殿内に地祇(国津神)である倭大神と並んで祀られていた天照大神を、自分の娘である豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑に遷したのも彼の業績の一つとして記紀に挙げられています。その模様を古事記は、

  即ち意富多多泥古命をもって神主として、御諸山(三輪山)に意富美和の大神の前を拝つき祭りたまいき。また伊加賀色許男命に仰せて、天の八十毘羅訶を作り、  
  天神地祇の社を定め奉りたまいき。また宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、また大坂神に墨色の楯矛を祭り、また坂の御尾の神また河の瀬の神に悉くに
  遺し忘るることなく御幣帛を奉りき。これによりて役の気ことごとくに息みて、国家安らかに平らぎき。

と祭祀が国(大王)の指導のもとに行われるようになった事を述べるに留まっていますが、日本書紀は崇神六年条において、

  故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祭る。よりて磯堅城の神籬を立つ。
  また、日本大国魂神を以ては、渟名城入姫命に託けて祭らしむ。然るに渟名城入姫命、髪落ち躰痩みて祭ること能わず。

とアマテラス大神が「倭の笠縫邑」に祀られたと具体的な地名まで上げたのに続き、翌七年秋八月条において「大田田根子に関わる霊夢」の詳細を述べ、倭大国魂神の祭い主には市磯長尾市(倭直)が就任することとなり、併せて物部連の祖・伊香色雄(いかがしこお)が「八十平瓮を以って祭神之物(かみまつりもの)」にしたとあります。渟名城入姫命が何故、日本大国魂神を祀ることが出来なかったのかについては「戸辺(トベ)」のページでかつて詳しく論じた事がありますが、要点だけを言えば祭祀の原点は自らの「祖霊」を畏れ称えることです。渟名城入姫命は確かに崇神帝の娘ではありますが、母親は尾張大海媛であり「倭(ヤマト)」氏族の出身ではなかったのです。「氏神」という言葉が今でも使われるように神々は「自らの直系子孫」によって祀られることを望むものなのです。例え身分の高い大王の子女であっても、血筋の異なる地祇を祀ることは許されません。それを如実に表現しているのがオオタタネコの「意富美和の大神」の伝承だと言えます。

さて「古事記」が全く語ろうとしない天照大神の社が立つ「倭の笠縫邑」はどこに在ったのか。古来、正確な位置は「不詳」とされながらも磯城郡田原本町新木(にき)、桜井市笠、桜井市三輪(檜原神社)など幾つかが候補地に上げられてきました。しかし「天神を南郊に祀る」という郊祀の根本的な考え方に基づくなら、それらの土地場所は何れも崇神帝の都・瑞籬宮(桜井市金屋)から見て西あるいは北に位置していることから、社殿の立地として相応しくありません。崇神朝における祭祀の在り方について「倭大神」が「根源」を正しく探っていないと「批判」した原因の一つがここにあるらしいと前回お話ししたばかりですが、そもそも「笠縫」とは一体何を指した言葉なのか、今回は、その辺りに的を絞って考えてみたいと思います。大和奈良に住いのある方そして万葉の里、山辺の道あるいは法隆寺・薬師寺の西の京など古都の風情を楽しんだ経験をお持ちの方々であれば、近畿日本鉄道橿原線に「笠縫(かさぬい)」という名称の駅があることをご存知だと思います。地名というものは余程の事がなければ中々変わりにくいものだとも聞きます、だから多くの人が田原本町の一角を書紀の言う「笠縫」邑に比定してきたのです。筆者は、その当否について未だ確信が持てずにいますが、現地田原本町を訪れ一つの小社(下左の画像)に出会ったことが想像を広げる発端になりました。近くに建てられていた掲示板によると、この社の祭神は少彦名神ですが『宮部造の祖・天背男命を祀る』神社だとの伝承があるようです。

天神社(宮森)  瑞籬宮跡の碑   PR.

先ず「笠縫」という言葉ですが「かさぬい」は神々の物語の中で度々使われており、例えば日本書紀神代下『第九段』の一書第二では高皇産霊尊の大物主への言葉に続けて、

  すなわち紀国の忌部の遠祖、手置帆負神を以て、定めて作笠者(かさぬい)とす。彦狭知神を作楯者(たてぬい)とす。
  天目一箇神を作金者(かなたくみ)とす。天日鷲神を作木綿者(ゆふつくり)とす。櫛明玉神を作玉者(たますり)とす。

の文言が続き、太玉命が代表して神(大己貴神)を祀ったとあり、忌部氏の『古語拾遺』にも一族の主神が率いる神の一柱として手置帆負神の名が上げられ、讃岐国の忌部の祖である手置帆負神の子孫が「矛竿」を造ると述べられています。現代に住む人にとって「笠」や「楯」を「縫って作る」感覚は馴染みの無いものですが、古代人にとって「笠」は植物を材料とした布や植物そのものの茎などを正に「縫いながら」拵えたものでした(板を薄く剥いだ物や竹も材料になったと思われます。更に漆は古く縄文時代から使われた材料ですから、防腐と材質強化の両面から塗られたことでしょう。上右画像参照)。また笠自体を「呪具」の一つとする見解もあるようで、スサノオが天上界から追放されたときの様子を日本書紀は、

  時に、霖ふる。素戔嗚尊、青草を結束いて、笠蓑として、宿を衆神に乞う。

と表現し、彼自身が笠蓑を自ら編んだ(青草を代用して纏った)ように伝えていますが、一夜の宿を乞われた衆神は皆一様に拒否します。書紀の一書第三は、この例があるので、古来より『世の中では、笠蓑を著て、他人の屋の家に入る事を諱む。また、束草を負って、他人の家の家に入ることを諱む』ようになり、これを犯すものがあれば『必ず解除(はらえ)を債す』のが太古の遺法になっているとも説明を加えています。これが神武即位前紀になると「天香山の埴で天平瓮」を作るため椎根津彦と弟猾を変装させるのですが、その出で立ちを『いやしき衣服および蓑笠を著せて、老父の貌に作る』とあって、その神聖さはやや後退していますが、神々の世界において「笠」には霊力が備わっている特別な「モノ」だという認識があり、それ故、上で見たように物部一族の由緒ある各家が(それぞれの技能集団を擁して)神への捧げものとして作り続けていたに違いありません。また、下って飛鳥時代の出来事になりますが、斉明紀によれば、

  元年の春正月の壬申の朔日甲戌に、皇祖母尊、飛鳥板蓋宮に、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。
  夏五月の庚午の朔日に、空中にして龍に乗れる者あり。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて生駒山に隠れぬ。
  午の時に至りて、住吉の松嶺の上より、西に向かいて馳せ去ぬ。

の異変が都人の耳目を集め、皇円の『扶桑略記』は、時の人が笠を着た者は「蘇我豊浦大臣の霊である」と噂したと書き留めています。この「空中にして龍に乗れる者」は、明らかに異界からの訪問者に違いありませんから、先の素戔嗚の天上から地上への天降りとも合わせて推測すると、古代では「笠」を身に着けることで異なる世界への移動が可能になる、変身できるという考え方が存在していたようです。そのように貴重な品物ですから、当然古くは一握りの身分の高い人物専用でもあった「呪具」の性質を持つ「笠」を縫う人々の総帥が上で見た物部の手置帆負神(たおきほおい)だった訳です(頭に戴くものと云う前提であれば王侯貴族のための冠や、戦士の必需品である兜なども含めて良いかも知れません。戴冠式は正に冠が頭上を飾った時に新たな王が誕生することを示しています)。『先代旧事本紀』にも「手置帆負と彦狭知の二神に、天御量で大小の様々な器類を量り、名をつけさせた」との表現がありますから、恐らく、この二柱の神々の本質は「一つ」であって「量(はかり=計算、計測)」の概念を表出していると考えられます。

さて『先代旧事本紀』天孫本紀も、神への捧げものに関して「磯城瑞籬宮御宇天皇(崇神)の御世、大臣(伊香色雄命)に詔して、神物(かみのもの)を班(あかつひと)となして、天社国社を定め、物部八十手が作れる祭神之物(かみのまつりのもの)をもちて、八十万の諸神を祭りし時」と明言しているように忌部の遠祖を含めた「物部八十手=多くの物づくり集団」が祭祀そのものを陰で支えていた訳ですが、天目一箇神は当サイトの看板神様であり、天津彦根命の直系に他なりません。また、天日鷲神の祖は『斎部宿禰本系帳』から「神魂命--角凝魂命--伊佐布魂命--天底立命--天背男命--天日鷲命」と続く家系であることが分かっています。角凝魂命(つのごり)は珍しい名前ですが、筆者はこの神様が実質的に「倭、ヤマト」の土台を築きあげたスサノオ大神の本名ではないかと考えているのですが、そうすると天日鷲命という神様も「角凝魂命」つながりで三嶋県主や鳥取連、額田部宿祢、凡河内宿祢の各氏とも同系統乃至は同族ということになり、忌部氏ともども上で見てきた神々は全てアマテラスの三男天津彦根命の子孫だと称する氏族であることが分かってきます(上で紹介した天神社の異なる祭神名は「親子」神の言い伝えだった訳です)。

楯の埴輪  「先代旧事本紀」  「日本書紀」  天津彦根命系譜

『笠縫の嶋は、今東生郡の深江村といふところ、是なるべし』賀茂真淵が「玉勝間」で述べた文章にも、大和から摂津の東生(ひがしなり)に移り住み「笠縫」を生業とした一族が繁栄していた事が紹介されています。これまでの推理を纏めてみると、天孫の有力な一族で金属の生産加工から様々な手工業まで幅広い職能集団を抱えた天津彦根命の子孫たちは祭祀そのものを執り行うばかりではなく、祭祀に必要な物品の生産も手掛けており「笠縫」も、その重要な一角を占めていたのです。物部氏が伝えた『先代旧事本紀』の「天神本紀」は「笠縫氏らの祖は天津麻占(アマツマウラ)」であると明記していますが、これこそ天津彦根命の子天御影命(天目一箇神)の別名に他なりません。笠縫駅の北方約2キロの田原本町保津周辺には鏡作神社が三社鎮座しています。鍵・唐古遺跡を持ち出すまでもなく、ここ田原本は古代文化の先進地でした。様々な技術を持った人々がそれぞれ集落を作り王権を支えていたのです。大和に限らず笠縫たちの住む所が「笠縫邑」と呼ばれ伝統の技を絶やさず後世に伝えたのです。従がって、そこに祀られるべき神様は「天津麻占(天目一箇神)」であり「天日鷲(少彦名神)」であって、決してアマテラスではなかったはずなのです(上の画像参照)。

茅渟の菟砥川上宮に在った垂仁皇子・五十瓊敷入彦命は三十九年の冬十月「剱一千口」を作り石上神宮に納めたとされ、この時大王から楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部など十箇の品部を賜ったと書紀が記録しています。崇神朝とは時間的に見ても、余り離れてはいないはずなのですが「笠縫」部の名前は何故か見当たりません。古代氏族が伝えた系図(上右の画像)によれば、この時、皇子の手足となって「裸伴(あかはだかとも)」とも「川上部(かわかみとも)」とも呼ばれた「剱」の製造を支えたのも天津彦根命の後裔(加志岐弥命、白根造の祖)だったようです。和泉国日根郡にある宇度墓は、この皇子のものだとされていますが、阿蘇ピンク石の産地である「宇土」半島と同じ名を負っているのはそれなりの理由があるのか?そんな疑問を抱き始めて、ほぼ一年が過ぎたのですが、未だに全く考えがまとまりません。それはさておき、出雲国風土記は、

  楯縫と号くる所以は、神魂命、詔りたまいしく『五十足る天の日栖の宮の縦横の御量(みはかり)は、千尋の𣑥縄持ちて、百結び結び、八十結び結び下げて、
  この天の御量持ちて、天の下造らしし大神の宮を作り奉れ』と詔りたまいて、御子、天の御鳥命を楯部として天下し給いき。

と出雲楯部の起源について語っていますが、日本書紀の神代下第九段一書第二には高皇産霊尊が天孫に国を譲った大己貴神に対して「汝は神事を治すべし」と宣言した後「住むべき天日隅宮の柱は高く太く、板は広く厚くする。御田も作る。海で遊ぶための高い橋、水上に浮かべる橋そして天鳥船も作ってあげる。また天の安河に掛ける取り外しの出来る打橋も作ろう。更には百八十縫の白楯も提供する」と最大限の申し出を行っていた様子が克明に描写されています。「白楯」という言葉は皮革が原料になっていた事を想像させますが、他の古文書では使われない文言なので大己貴神専用の「拵え」だったのかも知れません。この神の祭祀を「主る」のが出雲国造の祖とされる天穂日命でした。出雲の国にある楯縫郡もまた天津彦根命と無縁では無かったと言えます。五十瓊敷入彦命が下賜されたとされる「日置部」(ヒキ、ヘキ)については別に項を起こします。

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