神々の系譜、オオクニヌシを巡る謎                             サイトの歩き方」も参照してください

古事記等の云う所によると『高志(こし)の八俣の遠呂智』を退治したスサノオは、大山積神の孫にあたる櫛稲田比売と結ばれますが、一方ではスサノオの五世孫であるとされる天之冬衣神が刺国若比売との間に儲けた子が大国主神で、このカミサマには大穴牟遲神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神などの別名があるとも記述されています。つまり記紀は『大国主神はスサノオの娘婿であると同時に六世の孫でもある』と言っている訳で、幾ら大昔の神々の世界の話とは言え、辻褄が合いません。記は続けて、

  兄弟八十神(庶兄弟)たちの凄まじい迫害にも関わらず稲羽の素兎を助けた大穴牟遲神(オオナムチ)は、素兎の予言通りに
  稲羽の八上比売を嫁として迎えます。ところが、これに激高した八十神の策略によって「二度」も殺されてしまいます。
  母神のお陰で何とか蘇生した彼は、木国(紀伊)の大屋毘古神の許に逃れ『須佐能男命の坐します根の堅洲国に参向うべし』との
  助言を得、スサノオの国を訪れます。そこで彼を迎えたのが娘の須勢理比売で、二人は直ぐに意気投合、姫が父親に
  『とても麗しい神がきましたよ』と報告すると、一目見た大神は『これは葦原色許男(アシハラシコオ)という者だ』と即答したのです。

出雲大社  須佐神社  曾鵞の社

この後、スサノオから次々と繰り出される試練難題を、妻のスセリヒメの知恵と助言で何とか乗り切った大穴牟遲神は、遂に『その妻、須世理比売を背負い、大神の生太刀生弓矢と天の詔を持って』スサノオの許から逃げ出すのですが、黄泉比良坂まで追いかけてきた大神は大穴牟遲神に向かい、

  その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、また河の瀬に追い払いて、
  意禮(おれ)、大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が娘・須世理比売を嫡妻として、
  宇迦能山の山本に、底津磐根に宮柱布刀斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て居れ。この奴。

と如何にも花嫁の父らしい餞の言葉を投げかけたのです。何分、カミサマ方の間の出来事なので管理人のような凡夫には到底理解しがたい部分もあるのですが、細部には拘らず古事記が伝える神話を素直に読めば、幾つかの事柄が明らかになってきます。それは、

  1 稲羽の素兎(しろうさぎ)を助けたのは大穴牟遲神であり、素兎は「予言」をする存在であったこと
  2 八十神に迫害を受け続けた大穴牟遲神は「二度」までも殺されたこと(その都度、復活した)
  3 大穴牟遲神は、木国の大屋毘古神に保護を求めた後、スサノオの国を訪ね須勢理比売と出合ったこと
  4 大穴牟遲神は、数々の試練に耐えた後、スサノオから直接「大国主」「宇都志国玉」に「成れ」と言われて「成った」こと

などであり、更にスサノオやオオクニヌシの国作りには「太刀・弓矢・琴」の神宝が必要であったらしく、そこにはアマテラスの象徴とも言うべき「鏡」が含まれていない事も分かります。「太刀と弓矢」は改めて解説するまでもなく「武力」そのものであることに違いは無いのですが、ヤマト王朝を建てたとされる神武帝が、長髓彦が持参した「ニギハヤヒの天羽羽矢」を見て「まことなりけり」(真実だ)、つまり同族の「証し」だと言ったことからも、王族しか所持できない特別な「弓矢」が存在していた可能性もあります。また「琴」は神意を尋ねる際の必需品であり、これは天孫たちも用いています。大国主は出雲の御大(みほ)の御前にいる時、海の彼方から「天の羅摩船」に乗ってやってきた少名毘古那神(スクナヒコナ)の協力を得て、国作りに励みますが、他方で様々な神々とも姻戚関係を結び「十七世(とおまりななよ)」の子孫を残すのですが、その中に鳥鳴海神国忍富神という親子のカミサマが含まれています。この神々は八島牟遲能神の娘・鳥耳神と大国主との間に生まれたとされる子と孫ですから、明らかにスサノオ・オオクニヌシ系列、つまり出雲系の神様なはずなので、ここでお話が「」シリーズに出てくる神々の系譜と交差してくるのですが、近江の鏡の里に飛ぶ前に、スセリヒメの夫となった葦原色許男神にまつわるお話をしておきます。

西暦710年代の中頃に成立したと見られている「播磨風土記」によるとアシハラシコオ(同風土記は葦原志挙乎命と記す)と謂う名の神様は出雲国だけでなく、播磨国にも居たようで、揖保郡粒丘(いいぼおか)の条には、

  粒丘と名付ける所以は、天日槍命、韓国(からくに)より渡り来て、宇頭の川底に到りて宿処を葦原志挙乎命に乞はししく
  「汝は国主たり、吾が宿らん処を得まく欲う」とのりたまいき。志挙、即ち海中を許しましき。
  その時、客の神、剣をもちて海水を攪きて宿りましき。

とあって、天日槍命の存在(武力)が大変「盛ん」であることにアシハラシコオが警戒感を懐いていたことが分かります。また、宍禾郡御方の里の条では「黒土の志爾嵩」という所で二人の神々が黒葛(つづら)を「三条」ずつ投げあい、

  葦原志挙乎命の黒葛は、一条は但馬の気多の郡、一条は夜夫(やぶ)の郡、一条は御方(みかた)に落ち、
  天日槍命の黒葛は、皆、但馬の国に落ちた

それで天日槍命は但馬の伊都志(いづし)の地を占拠するようになったのだと記しています。ところで、アメノヒボコについて日本書紀は垂仁三年春三月条で『、小、桙、』など七つの神宝を持って、

  新羅の王の子、天日槍来帰り。

と述べた後、一書の形で、

  故、天日槍、但馬国の出嶋(いづし)の人、太耳が女・麻多鳥を娶りて但馬諸助を生む(中略)…田嶋間守(たじまもり)を生む。

と後世、息長宿禰王の妻となり、息長帯比売命(神功皇后)を産んだとされる葛城高額比売の家系が直接、天日槍から出ている事を明らかにしていますが、古事記は応神記天之日矛の段において、

  また昔、新羅の国主の子有りき。名は天之日矛と謂ひき。

と書き起こし、彼は『吾が祖(おや)の国に行かん』と言い残して難波の地に「逃げ渡った」妻を追い『、比禮、』など八種の玉津宝を持って難波に入ろうとしたが渡し神に遮られて入国できず、多遲摩国に泊まることになったのだと記した上で「多遲摩の前津見」に始まり「葛城の高額比売命」に終わる詳細な家系を網羅しています。正に三者三様の言い分で、どちらの記述が最も事実に近いものなのか判然としませんが、書紀の一書には、播磨の国宍粟邑と淡路島の出浅邑を与えると云う垂仁帝の申し出を、天日槍は断り『情の願しき地』を求めて諸国を巡りたいと希望したとされ、

  菟道河より遡りて北のかた近江国の吾穴邑に入りて暫く住む。また近江より若狭国を経て、西、但馬国に到りて則ち住居を定

めたと在りますから、初めから但馬に住み着いたのではなく「諸国を巡り見て」「心に合う土地」として出嶋を選んだのだと思われます。さて、ここでも近江の国という言葉が出てきました。いよいよ「鏡」の里に足を踏み入れる時です。アマテラスが己の子孫に向かい『この鏡を私だと思って大切に祀りなさい』と命じたことでも分かるように、古代の為政者にとって「鏡」はとても大切な宝物でした。外国の文献によれば、邪馬台国の卑弥呼が鏡をとても好んだ事がお隣の大国に知られていた程です。「天の岩屋戸」隠れという神話の舞台に登場する伊斯許理度売命(いしこりどめ、石凝姥)が鏡作りの神様の筆頭に上げられ、その父神とされる天糠戸命とともに大和の鏡作神社に祀られていますが、上で見てきた天日槍(アメノヒボコ)も鍛冶陶工の神であり近江・竜王町に鎮座する鏡神社でも主祭神として祀り崇めています。また、アマテラスの三男に位置づけられている天津彦根命の子供・天御影命も鍛冶神・天一目箇命と同神ではないかと見られている御上神社の主なのですが、問題は、その系譜に現れる神名にあります。

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凡河内氏や額田部氏更には山代氏(山背国造)の祖先とも言われる天津彦根命の子神である天御影命(あめのみかげ)の系譜は、

  天津彦根命−−天御影命−−意富伊我都命−−彦伊賀都命−−天夷紗比止命−−川枯彦命−−坂戸彦命−−国忍富
  −−大加賀美命−−鳥鳴海命−−八倉田命−−室彦命−−桜井命−−比賀多命−−多奇彦命(三上直の祖)

と続き、八代目に当たる国忍富命(くにおしとみ)の娘の一人が、開化帝の息子・彦坐王に嫁いで丹波道主命と水穂真若王を産んだ息長水仍比売だとされています。現在知られている系図自体どれほど正確なものであるのか確かめる手段を持ちませんが、神名に含まれている「御影」を「神の姿を写す鏡」の意だと捉えるなら「大加賀美(おおかがみ)」「比賀多(ひかた)」などの名前が三上氏の祖先として挙げられる事に不自然さは感じられません。ただ、一方で、

  須佐能男命−−(中略)−−天之冬衣神−−大国主命−−鳥鳴海神−−国忍富神−−(中略)−−遠津山岬多良斯神

の系譜が古事記に明記されている点を考慮すると、元々、スサノオ・オオクニヌシ(オオナムチ)直系であった「鳥鳴海・国忍富」親子神が天孫系を称する三上氏たち豪族の出自を飾るために利用された一抹の疑いが浮上します(或いは、逆に元々天津彦根命の神々であった神様の系譜が古事記編集者たちの意図で大国主の後裔として加筆されたかも知れません)。本来、息長帯比売の一族とは無関係であるべきはずの三上氏の娘に「息長」の名称が冠されている事も大いに不審なのですが、これは御上神社の伝記に、

  人皇九代開化天皇六十一年四月甲午日、先御孫神、天水與気命更の御名、天加賀命、更、天世平命がu須(やす)川に天降った

とあるそうなので後世、息長氏の隆盛を見た誰かが意図的に「息長」の二文字を潜り込ませた可能性は十分あります(深読みせず、単なる土地名を冠しただけの可能性も残ります=旧坂田郡息長邑)。ただし、大谷治作が著書(「御上神社沿革考」)に引用している三上系譜には、

  天加賀美命−−天世平命−−鳥鳴海命−−八綱田命(八網田?)−−

の順序に神名が綴られているらしく、三上氏の系図自体も複雑な様相を呈しているようです。(註・『諸系譜』第28冊に収録されている「三上祝家系」によると、天世平命は天加賀美命の「亦名」とあります)再び、天御影命の系譜に戻りますが、疑わしい国忍富命の前に置かれた坂戸彦・川枯彦という存在は「先代旧事本紀」の物部氏系譜に「淡海川枯姫」「坂戸由良都姫」たちが、極、古い時期に物部氏の族長の許に輿入れし後継者を儲けたとされ、崇神天皇の頃に存在したと伝えられる伊香色雄命(いかしこお)にも三上氏同族の山代県主長溝の娘二人(真木姫と荒姫)が嫁いだとされていますから、天御影命に続く「意富伊我都(おおいかつ)」「彦伊賀都(ひこいかつ)」にも実在した人物像が投影されているのかも知れません。何れにせよ、琵琶湖東南岸に勢力を持っていた三上氏が、早くから大王の軍事部門を任されていた物部諸氏族と親しい間柄であったことは確かなのですが、そのような「旧家」が、しかもヤマト王家の直系に連なる一族が、記紀神話上とは言え「国を譲らされた側」の後裔と思われる神々を態々自家の系譜に組み入れた真意が掴めないというのが本音です。ただ全く逆の発想で、国忍富命はもともと天孫系の神様であったと考えることも出来る訳ですが、出雲大社のお膝元とも云える島根県斐川町に富神社(とびじんじゃ)が鎮座し「国引き神話」で知られる八束水臣津野神と共に、天之冬衣命・国忍富神そして布忍富鳥鳴海神が祀られている事実は、神々の本籍は八雲たつ出雲なのだと言っているように思えてなりません。更に、須佐神社の社家・須佐氏(稲田氏)の系図に、

  大国主命−−国忍富命−−雲山命−−湯地主命−−彦坂日子命−−国仁命(神武帝の頃)−−

と列記されている事も、同神が天孫族ではない傍証になるものと考えられます。閑話休題、もう皆さんお気付きのことと思いますが、アメノヒボコに関する播磨風土記と日本書紀の記述は、別の意味で大きな問題を孕んでいます。それは二つの資料が、

  @ アメノヒボコが葦原志挙乎命と同じ世代に属する者であり、かつ A 第十一代垂仁帝とも同じ世代に属していた

と証言しているからに他なりません。如何にカミサマ方の世界での出来事とは云え、ここまで来ると、流石にもう御手上げですが、葦原志挙乎命の名で表される神を「大国主」に成る前の、狭い地域を治める部族長として捉えるなら、アメノヒボコは新しい文化(技術)をもたらす今来の神の代名詞だったのかも知れません。三度、系譜に話を戻しますが、天津彦根命を凡川内国造を筆頭とする十二氏族の「祖」と記す古事記ですが、実は、その割註文に三上直の名は上げられていないのです。三上祝については開化帝の段において、日子坐王が、

  近淡海の御上の祝が以ちいつく天御影神の女、息長水依比売を娶して生める子は丹波比古多多須美知能宇斯王、次に水穂真若王

と書かれている様にあくまでも「天御影神」を斎祀る存在でした。そんな三上氏も金属関連の技術力を背景に大王の家系と間接的に関わりを持ち、ヤマト政権中枢に一歩近づきますが、幸いなことに息長水依比売の孫娘・日葉酢媛命が、垂仁大王の后として立った(十五年秋八月)事で大王家準外戚の地位をも獲得することになったのです。景行帝と共に同媛の息子とされる五十瓊敷入彦命が、

  三十九年の冬十月に、茅渟の菟砥川上宮に居しまして、剣一千口を作る。因りて其の剣を名付けて川上部と謂う。又の名は裸伴という。
  石上神宮に蔵む。この後に、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主らしむ。(註=記は「鳥取の河上宮」と記す)

とあるのも、三上一族が優れた鍛冶の業を持つ「祝(はふり)」家であった特性を裏付けている様に思えます。また、一書に依れば、これら「一千口の太刀」が一端、忍坂邑に収められた後、石上神宮に運び込まれ春日臣市河(和邇氏の一族、物部首の始祖)に管理が移されたそうですから、一時期とは言え忍坂(おしさか)邑の武器庫の責任者として、政権内で三上氏の血を受け継いだ五十瓊敷入彦命が一定の役割を果たしていたと見ることが出来ます(ただ『イリひこ』の名を継いだにも関わらず、彼には跡を託すべき子供がいませんでした)。先に見た物部氏族との通婚も、三上氏の武器製造者であり祭祀者でもある面から理解すべきものであるのかも知れません。忍坂と言えば著名な鏡の銘文の中にも出てきた古代の要衝でした。近江の三上氏に代わり、天日槍の新技術を文字通り血肉に取り入れた息長氏が台頭し、政権内の勢力図を塗り替えます。応神朝の幕開けです。(「裸伴(あかはだとも)」と言う言葉が、古い金属としての銅で設えた剣を示唆している様に思えます。新技術による武器革命の大波が古代氏族の消長に大きく関与した事は疑いようもありません)

倭姫命=五十瓊敷入彦命には二人の妹があり年下の妹の名を倭姫(やまとひめ)と言います。その昔、出雲の地に降り立ったスサノオは国つ神の要請を受けて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治しますが、その尾から一振りの剣が見つかりました。これこそ天叢雲剣(別名・草薙剣)と呼ばれる帝室の神宝で、スサノオはアマテラスに献上しています。この権力の象徴とも言うべき至宝を管理していたのが景行・日葉酢媛夫婦の娘、倭姫命で、彼女は景行帝から地方勢力の平定を命じられた甥の日本武尊ヤマトタケルに『慎め、な怠りそ(油断せず、行いを慎みなさい)』と助言を添えて、草薙剣を「授け」たと伝えられます。これは後に彼が尾張宮簀媛の許に剣を「置いた」まま「荒ぶる神」と対決し、その毒気に中って死に至る伏線でもあるのですが、日葉酢媛の子供が二人とも「剣」(武器)に関わる伝承を持っている処が三上氏の本質を表しているのかも知れません。垂仁帝は丹波道主王の娘を三人后妃として迎え、渟葉田瓊入媛は胆香足姫命(いかたらしひめ)を生んでいます。意富伊我都命、彦伊賀都命更には伊香色男命の「イカ」に通じる名前であることは明白です。崇神帝の息子・五十日鶴彦命(いかつるひこ)も鬱色謎命という物部氏族の祖神を前提にした命名と考えられるでしょう。

ヤマト政権の一翼を担い、大王家の軍需相の役割を果たした三上氏の存在は当然、時の王家から極めて頼もしい一族としての十分な評価を得ました。それが記紀神話での「アマテラスの三男の子孫」という位置づけに他なりません。時代は下り六世紀に入ろうとする頃、またヤマトの政権が激しく揺れ動きます。男大迹王と名のる人物が新たな大王としてヤマト入りを果たしたのです。継体帝の子・宣化には凡河内氏の娘(大河内稚子媛)が妃として入り、天津彦根命の子孫は再び、権力の座に近づく機会を得たのです…。

国忍富を名乗る神様の正体を明かしたいものと書き始めたものの、遂に、その願いは叶いませんでした。しかし収穫もありました。初期帝室の系図を書いてみれば分かることですが、アマテラスの系譜に属する天津彦根命の血脈は孫の意富伊我都命で各氏族に分岐します。その内「阿多根命」を祖とする山代氏(山背国造)は「大国不避命」の娘二人が垂仁帝に輿入れし、他方「彦伊賀都命」の流れを汲む三上氏は彦坐王に息長水仍比売が嫁ぎ、その孫娘(日葉酢媛命)が同じく垂仁帝の后に立てられることで天津彦根命の家系は時の王家と深い縁で結ばれます。そして、この垂仁・彦坐王を中核にした円環を完成させるために必要なジョイントの部分に国忍富命が置かれているのです。更に言えば、彦坐王が和邇氏の娘とも通婚することで王家と息長氏との関わりが生じる結果にもなったのでした。葦原色許男神が二人いたように、スサノオやオオクニヌシも複数存在していたのではないのか?そんな考えが今、頭の中を過ぎりました。凡そ、神々の系譜は度々「改編」されたに違いありません。

     
     
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