景行天皇、播磨稲日大郎姫と皇子たち               「サイトの歩き方」も参照してください。

播磨国風土記によれば景行天皇は、賀毛の郡を本拠にしていた「山直らの始祖」息長命(大中伊志治)を「媒(なかだち=媒酌人)」として印南の別嬢(播磨稲日大郎姫)を皇后として迎えることに成功しますが、彼女の最期を次のように伝えています。

  年ありて、別嬢、此の宮(城宮)に薨りまししかば、やがて墓を日岡に作りて葬りまつりき。その尸を挙げて印南川を渡る時、大き飃、川下より来て
  その尸を川中に纏き入れき。求むれども得ず。ただ、匣と褶とを得つ。すなわち、此の二つの物を以ちてその墓に葬りき。故、褶墓と号く。

日本書紀は景行五十二年の「夏五月」に前皇后が亡くなったとだけ記録し、彼女がどこの陵墓に葬られたかについて口をつぐんでいますが、ここで一つの素朴な疑問が沸き上がります。それは、景行帝(或いは垂仁帝も)などの大王たちは大和に定住することが無かったのではないのか?という思いなのです。四世紀前半から後葉にかけての時期であることを考慮すれば、当時は大王と言えども「妻」の許に通っていたと考えられる訳で、その相手となった女性が産んだ子供たちも当然、大和の纏向宮ではなく播磨国の城宮で育てられたのでしょう。記紀では伝承が異なりますが、二人が儲けた子供たちは次の通りで、

 古 事 記  櫛角別王(茨田の下の連らの祖)   大碓命   小碓命   倭根子命   神櫛王(木国り酒部、宇陀の酒部の祖) 
 日本書紀  大碓皇子  小碓皇子(日本童男また日本武尊=仲哀天皇の父親)   

天皇の命を受け全国各地の反抗勢力を平定した、白鳥伝説で知られるヤマトタケルは恐らく成人するまでの間、父親とは離れた環境で双子の兄ともども母親一族の庇護の下で成長したことが容易に推測できます。また一方、景行天皇は後の皇后となる王族の八坂入姫命を四年春二月に妃として多くの子女を儲けてもいます(姫の生家は美濃国でした)。その主だった皇子皇女は、

 古 事 記   若帯日子命(成務天皇)   五百木之入日子命   押別命   五百木之入日売命 
 日本書紀  稚足彦天皇  五百城入彦皇子   忍之別皇子   五百城入姫皇女

などと記録されていますが、これらの系譜によって前後二人の皇后所生の皇子たちが皇統をつないだ事が明確に示されています。また、日本武尊は垂仁天皇の娘である両道入姫皇女との間に帯中津日子命(仲哀天皇)を儲けており、吉備穴戸武姫との間には武卵王(讃岐綾君の祖)が生まれています。崇神・垂仁更には景行と続く諸大王の系譜は、応神天皇および継体天皇の即位後、かなり大幅な修正改編等の加工が施されていると思われますが、記紀編集者たちの主眼は息長一族の正当性を強調する点にあったようです。つまり垂仁帝の娘婿として帝室の一員となった稲瀬毘古命(稲背入彦命)の子供だったと推測されるホムツワケの血統をいかに円滑に皇統内に組み込むか、に腐心したのです。(母親の里である播磨で育てられたヤマトタケルに白鳥伝説があり、誉津別命にもまた鵠伝説があることが偶然ではなく、記紀を作らせた帝室の意向に沿うものだったと言えます)

景行天皇陵  日葉酢姫陵

大王家の系譜は疑い始めるときりがありませんが、古事記の伝える処によれば垂仁帝は丹波の比古多多須美知宇斯王(丹波道主王)の娘たちを后妃とし、その内の一人である阿邪美能伊理毘売命(薊瓊入姫)との間に産まれた阿邪美都比売命を稲瀬毘古王に嫁がせたとあります(長女の日葉酢姫命が景行天皇の母親に位置付けられているにもかかわらず皇位を象徴する『瓊』の字を含んでおらず、その妹の名前に含まれているのは彼女がホムツワケ【応神天皇】の母親だったからなのかも知れません)。記紀は景行帝を垂仁天皇の「子」としていますが、若し書紀が云うように稲背入彦皇子が景行と五十河媛との間に生まれた「子」なら世代的に辻褄が合いません。従って他の頁で何度も触れてきた通り、垂仁と景行は多少歳の差が開いていたにしても「兄弟」だったと見るべきです。では神武以降、大和の地で勢力の充実を図っていた大王家の当主が、何故、地方豪族の子弟を大切な娘の配偶者として迎え入れる決断をしたのでしょうか?その契機は具体的に何だったのでしょう。傍証となりそうな記事が垂仁紀にあります。

垂仁三年の春三月に「新羅の王の子、天日槍」が『羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、熊の神籬』など七草の宝物を持って来朝したと伝え、それらを但馬国に蔵めて神宝としたと書紀が伝えています。同書は更に「一に云はく」として、

  初め天日槍、艇に乗りて播磨国に泊まりて、宍粟邑に在り。時に天皇、三輪君が祖・大友主と、倭直の祖・長尾市とを播磨に遣わして、天日槍を問わしむ。(中略)
  よりて貢献る物は葉細の、足高の、鵜鹿鹿の赤石の、出石の刀子、出石の日鏡、熊の神籬、膽狭浅の太刀合わせて八物あり。
  よりて天日槍に詔して曰く『播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑と、この二つの邑は、汝、任意に居れ』とのたまう。時に天日槍啓して申さく
  『臣が住まう処は、若し天恩を垂れて、臣が情の願わしき地を聴したまわば、臣親ら諸国を暦り視て則ち臣が心に合えるを給わらんと欲す』と申す。乃ち聴したまう。

と記録し、続けて天日槍が住まいを定めた様子を、

  菟道河より遡りて、北、近江国の吾名邑に入りて暫く住む。また近江より若狭国を経て西、但馬国に到りて即ち住居を定む。
  ここを以って、近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍の従人なり。

と述べてもいます。垂仁天皇の即位後間もなく海の彼方から訪れた「天日槍」とは誰だったのでしょう。「玉・珠=瓊、剣、鏡」の宝物と言えば帝室に伝えられてきた三種の神器にほかならず、来朝者の名に「天」の字が冠せられていることも天孫族の一員であったことを暗示しているかの様です。また、神宝については後日談があり一度所在が分からなくなった「小刀」が、いつの間にか淡路島に渡り島の住人が奇蹟を尊び社を立ててお祀りしたと書紀にあります。四世紀の前半、最新の製鉄技術(者集団)を従えて朝見した人物は強力な軍事力も併せ持つ実力者でした。それが遠縁とは言え先祖(スサノオ)を同じくする一族の長だと分かれば、愛娘の伴侶としてふさわしいと垂仁帝が思ったとしても不思議ではありません。恐らく両者の会見は様々なかつ十分な根回しの下に行われ、事前にもたらされた息長一族の諸情報が稲背入彦命の評価を最大限にまで高めていたことも容易に想像されます。正に「鉄は国家の源」だったのです。

記紀に云う「⑩崇神ーー⑪垂仁ーー⑫景行ーー⑬成務ーー⑭仲哀ーー⑮応神」と続く皇統の流れを見ていると如何にも「長い」時の流れが其処にはあったように感じてしまいますが、応神天皇が垂仁帝の「孫」であるとするなら第十代から十五代までの世代数は「三つ」しかない事になります。つまり、この間を年数に直すとせいぜい「25×3=75年」程度しか経過していない勘定になるでしょう。ほぼ一世紀の後、息長氏から大王の位に就いた継体天皇が「母方の祖」を垂仁帝に求めた理由もホムツワケの出自に在ったと言えそうです。

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