継体天皇と摂津三島の謎2、宣化の血脈                              サイトの歩き方」も参照してください。

古事記が応神天皇(おうじんてんのう)の「事績」に多くのページを割いていることは周知の事実ですが、その末尾に、次のような一文が付け加えられていることは余り知られていません。

  また、この品陀天皇(応神天皇)の御子、若野毛二俣王、その母の弟、
  百師木伊呂弁、またの名は弟日売真若比売命を娶して生める子、大郎子。
  またの名は意富富杼王(おおほどおう)。……中略……
  故、意富富杼王は、三国君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫の末多君、布勢君等の祖なり。

いきなり、此処で始めるのもナニですが、漢字テストです。『五百住』さて、この三文字でなんと読むでしょう。

第25代の天皇に「子」が一人もいなかったので、臣下が額を寄せ集めて相談し、遠くに住んでいた何代か前に分家した人物に白羽の矢を立てた。それが継体天皇(けいたいてんのう,450?〜531?)であり皇統は途切れることがなかった。古代史の教科書などには、そのように記述されることが多く、それはそれで決して「間違い」ではないのですが、実際にあった出来事を系図などで再現してみると、事はそう簡単なものではありませんでした。後世の関心は、あくまでも第24代「仁賢天皇の娘」と「継体」との婚姻、そして欽明天皇(きんめいてんのう,509〜571)へと続く皇統のつながりばかりに向けられ気味ですが、先先代の娘と結婚したのは何も継体帝一人だけではなかったのです。つまり、帝が手白髪皇女と夫婦になる前に娶っていた尾張連等祖、凡連(おおしむらじ)の妹、目子郎女(めこのいらつめ)との間に生まれていた二人の皇子にも、それぞれ春日の豪族である和邇氏(わにし)出身の母・祖母を持つ娘たちが嫁いでいたのです。第28代の皇位を継いだとされる宣化天皇(せんかてんのう,467〜539)には春日大娘皇女(母は雄略天皇の娘)が生んだ橘仲皇女が嫁入りしており、その子供たちのうち三人までが欽明の后妃になっていますが、其のうちの一人・石姫が産んだ皇子が敏達天皇(びだつてんのう,538?〜585)です。そして大切な事ですが、この敏達のラインには蘇我氏の影響力が及んでいません。

入鹿神社 「継体天皇稜」  安閑陵

六世紀から七世紀半ばにかけての凡そ百年の間が「蘇我氏の時代」とも言える入鹿(いるか,?〜645)たちの黄金期であったことに違いは無いのですが、何代もの天皇に仕え、実力も兼ね備えていた譜代の大伴金村(おおとも・かねむら)が、例え外交問題で大きくつまずいたとは言え、余りにもあっけなく主役の座から滑り落ちた経緯については大きな疑問符が浮かび上がるのです。特に、都から遠く離れた地で謂わば「隠棲」していた主家の、極めて繋がりの薄い遠縁?の人物を「帝」として担ぎ上げるだけの力を持っていた(つまり武力も十二分に備えていた)大豪族の大伴氏が、新興に過ぎない蘇我氏に簡単にとって替わられた背景が、何とも見えにくい…。確かに蘇我氏は「娘たちを沢山皇室に嫁がせた」結果、帝室の「外戚」として実権を掌握してゆくのですが、ただ、それが何故、継体帝の子・欽明の時代から始まったのか?その理由が思い当たらないのです。強いて、その理由を挙げるとするなら「発想の違い」なのかも知れませんが、ともかく旧体制の一翼を担った武家の元祖とも言える大伴氏は急速に勢いを失います。そして、大伴氏の凋落に反比例して俄かに皇室の姻戚として存在感を強めたのが蘇我氏一族で、宣化帝の時、稲目(いなめ)が初めて大臣に登用されると一族の勢いは益々盛んになります。常識的に考えれば『自分たちを大和の大王として迎え入れるお膳立てをしてくれた』大伴氏を身贔屓してもおかしく無いはずなのですが、歴史は、その方向へは進まず、当時の実力者たち(物部氏、許勢氏)を差し置いて蘇我氏の「独走」が始まります。

新しい「皇室の外戚」を生み出すきっかけを提供した宣化帝には、もっと注目が集まっても良いと思うのですが、一般的に、帝は所謂「二朝並立」説などの記述で顔を覗かせる程度の扱いに終始することが多く、その「真の存在価値」についてWEB上でも正面きって大きく取り上げられることも無いようです。しかし、この継体天皇の「次男」であり尾張連の血を引く第28代天皇は、オノコロシリーズの読者にとって大変重要な存在なのです。万葉歌人として余りにも有名な柿本人麻呂そして、人麻呂の「妻」・依羅郎女(よさみいらつめ)さらには東大寺の「黄金」にまつわる豪族トリオについては別の所で詳しく論じてきましたが、七世紀末から八世紀初め、蘇我氏亡き後、比類ない「力」で朝廷内を取り仕切った藤原氏を抑え、左大臣の地位に上り詰めた人物がいました。その名を、多治比真人島(たじひ・しま,624〜701)と言います。彼の祖先が「誰」なのか、もう皆さんにはお分かりの事だと思いますが…、敢えて説明を加えておきます。ご想像の通り、多治比氏の太祖は宣化帝と橘仲皇女の息子・上殖葉皇子(かみえはみこ)であり、直接の祖先は十市王・多治比古王に他なりません。(公式には684年の「八色の姓」により真人の姓を授けられています)

古代の露天掘銅鉱跡   大型の家型埴輪  玉手箱開けてみれば   PR

この比較的新しい時代に帝室から「分かれた」とされる多治比氏と、渡来系の技術者集団(氏族)との関わり合いについては先のページなどに詳細がありますから、そちらの文章を参考にして頂くとして、読者の皆さんにも大変馴染みのある「出来事」と深い関わりのある多治比氏のお話をしてみましょう。西暦708年、武蔵国から都へ急使が派遣され、朝廷は大きな喜びの渦に包まれました。それは秩父に視察に出かけていた使節が「銅山」を発見、献上したという朗報で、年号が直ちに『和銅』と改元されたことは余りにも有名です。では、誰が、その鉱山を見つけたのか?実は、その発見者は一人ではなく三人だったのですが、その組み合わせが、なんともオノコロ的には「象徴的」に思えてなりません。見つけたのは、

  日下部宿禰老  津島朝臣堅石  金上无

の三人だったのですが、日下部氏は浦島伝説で知られる浦嶋子(開化天皇の子孫)の一族、津島朝臣は「大中臣朝臣と同じき祖、津速魂命の三世孫、天児屋根命の後」とされる摂津国を本貫とする氏族の一員で、上无は新羅から招かれた鉱山技術者(の長)でした。当時の朝廷にとって「和銅」の出現が、どれほどの価値を持っていたのかは「無位」の庶民に過ぎなかった「金」氏に、いきなり「従五位下」を与え「伯耆守」に抜擢した事実が証明していますが、その極めて重要な「銅」で貨幣を鋳造し管理する「催鋳銭司」に選ばれた男が、嶋の弟である多治比真人三宅麻呂だったのです。この職は、今の大蔵大臣と経済産業大臣そして日本銀行総裁を合わせたような、朝廷にとって極めて重要な地位を占めていたものと考えられますから、多治比氏への信頼感の篤さが分かります。そして、この後も多治比氏が東北地方の長官を輩出したことが分かっています。(和銅発見から十年後に武蔵国司に任命されたのが三宅麻呂の甥・県守です)

国語の授業は苦手、古文と聞いただけでも逃げ出したくなる…、そんな「貴方」でも、この歌には聞き覚えがあるでしょう。

  熟田津に 船乗りせむと 月待てば  潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
  あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき  野守は見ずや 君が袖ふる

天智天皇は、その七年(668)の五月五日、大皇弟である大海人皇子(後の天武天皇)を筆頭に、王族は勿論、中臣鎌足をはじめとする百官すべてを従えて蒲生野において「薬狩り」の宴を催しました。『万葉集』でお馴染みの「君が袖ふる」は、その時、天皇に随行した額田女王(ぬかたおおきみ)が詠んだ一首で、恋多い女王の生き方を示す歌であるとの解釈がもっぱらでしたが、この宴に臨んだ時、彼女は既に「四十歳」くらいであり、とても「匂うがごとき」乙女とは言い難く、天武との絶妙の「掛け合い」で場の雰囲気を大いに盛り上げたのだ、という見方もあるようです。それはさておき、彼女の姉妹かも知れない一人の女性が居ました。

天武帝と藤原鎌足は「兄弟」だったのか!?

天智の「盟友」であり藤原家の祖でもある藤原鎌足(ふじわら・かまたり,614〜669)の夫人は、地方豪族・車持君国子の娘与志古であったとされていますが『興福寺縁起』によれば藤原不比等(ふじわら・ふひと)の母は鏡女王(かがみおおきみ)だとされ『万葉集』にも、彼女が「藤原内大臣に妻問いされたとき贈った歌」、

  たまくしげ 覆ふを安み 明けていなば  君が名あれど 我が名し惜しも

が収録されています。つまり鏡女王が「正妻」だった様なのですが、実は正史である「日本書紀」は彼女のことを、天武十二年七月四日、天皇が『鏡姫王の家に出でまして、病を訊いたまふ』と記すのみで、その父親の名を含め系譜らしいものは一切採録していないのです。その事から「鏡王の娘」額田女王の姉ではなく舒明天皇の皇女ないしは皇妹ではないかとする説もあるのですが、この時期「鏡」姓は大変珍しく、管理人としては彼女が、

  宣化帝と大河内稚子媛との間に産まれた火焔(ほのお)皇子の子孫

であるとする説に注目してみたいのです。また出自に不鮮明さが残るとしても、奈良時代において天皇が「臨終」の彼女を私邸に見舞った事実は、朝廷にとっての鏡姫王の存在の大きさを如実に示していると思われます。更に、鏡姫王が若し類推通り額田女王の姉妹であったなら、天武帝と藤原鎌足は、それぞれの夫人を介して義理の兄弟ということになり、ひいては鎌足が死去した時、わずか十歳余りにすぎなかった不比等が、天下を二分した大激震「壬申の乱」(672)の真っ只中においても「無傷」のまま生き延びることが可能であった理由の一つと見ることも出来るのかも知れません。(鎌足と言えば、すぐ天智の名が浮かびますが、この様にして見て来ると、彼の築きあげた婚姻を核にした二重三重の人間模様は、あらゆる不測の事態に対処できる、正に「万全」の全方位外交の粋であったことが良く分かります。通説では鏡女王は『もと天智妃』だったとされているのですが、臨終の彼女を見舞ったのは天武だったのですから謎は深まりますね!)

さて、そろそろ漢字テストの解答を示さねばなりませんが、それには宣化帝の一つ違いの同母兄・安閑天皇の事績を紹介する必要があります。彼も弟と同様、仁賢帝の娘・春日山田皇女を皇后に立て、三人の妃も迎え入れたのですが、どうしても子宝に恵まれません。『今に至るまで嗣無し。万歳の後に朕が名絶えむ』と後顧を憂える帝の言葉に答えたのは大連の大伴金村で、金村は『お世継ぎのある無しで、帝の名が後世に伝わらないというのではありません』が『お后様たちの行く末がご心配なのであれば、それぞれに屯倉を造り、残されては如何でしょう』と奏上、帝が直ちにゴー・サインを出したので小墾田屯倉などが設けられたのです。安閑帝が在位の間に行った治世の大半が数十箇所にも及ぶ屯倉の設置で、后妃の屯倉もまた経済基盤確立の一環とみなされるのですが書記は不思議な「話」を伝えています。それは、即位した年の十二月四日、

  天皇が大伴金村を従えて、わざわざ摂津三嶋に行幸し、
  三嶋県主飯粒に直接「良田」があるかと尋ねた。
  大変光栄に思った飯粒は四箇所の土地を慶んで献上した。

と言う内容なのですが、実は、この「話」には伏線となる出来事があったのです。この年の七月、天皇は皇后のための宮殿を建て、その名を「後代」に残そうと考え、その財源となる「屯倉」を選ぶよう命じました。そこで勅使が河内国に赴き、国造の凡河内味張に『良く肥えた雌雉田を奉るべし』と勅語を伝えたのですが、

  自分の田を差し出すことが惜しくなった味張は、
  『私の田は水を送るのにも困る旱の土地なので収穫が殆どありません』

と返答し、田んぼを差し出さなかったのです。天皇が、己の息子・鳥樹を大連の従者として差し出した飯粒を大いに褒めた事は言うまでもありません。そして一方の味張に対しては「国造」の地位を剥奪する処分を行ったのです。事の重大性に気付き大いに反省した凡河内直は、

  钁丁、春のときに五百丁、秋のときに五百丁を郡ごとに
  天皇に献上することを子々孫々まで絶やすことなく行います

と約束したそうです。書紀は、これが三嶋竹村屯倉に河内県の住民が「田部」として働くことになった「元(はじめ)」であると記していますが正否のほどは明らかではありません。ただ、これらの「話」からは安閑帝と三嶋とのつながり(と言うよりも三嶋と朝廷とのつながり)の強さが感じられ、帝の父・継体天皇の陵が三嶋の地に造営された理由の一端を窺わせます。東京にある国立博物館には、江戸期に安閑陵の一部が崩れ落ちたとき「偶然」見つかったとされるガラス碗が収蔵されています。正倉院の御物の中にも似たようなモノがあるそうで、製作場所はイラン北部なのだそうです。帝たちは、この器で一体何を召し上がったのでしょう?やっぱり、ワインでしょうか?!

  良田は豊作をもたらします 安閑稜出土とされる椀

 『古事記』黄泉国の段=「千五百(ちいほ)の黄泉軍を添えて」「一日に千五百人(ちいほたり)生まれるなり」 

上の記述例にある通り、「五百」は、もともと「いほ」と読ませたものと考えられます。従って「五百住」は「いほすみ」と呼ばれていた旧三嶋地区に在る地名なのですが、それが転訛して現在では「よすみ」(高槻市)と発音されています。

     
     
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