継体天皇の「血脈」と乙訓宮について                  サイトの歩き方」も参照してください

六世紀の初めに「即位」した大王として、その実在が専門家達にも「認められている」継体帝(450?〜531?)ですが、その人物像は摩訶不思議と言うしかありません。と言うのも、国の正史である日本書紀に、大王の最期について以下の様に記述されているからです。

  二十五年の春二月に、天皇、病甚し。丁未(七日)に天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年八十二。
  冬十二月の丙申の朔庚子に、藍野陵に葬りまつる。
  或本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩りましぬという。而るを此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、百済本記を取りて
  文を為れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥の三月に、軍進みて安羅に至りて、乞とく城を営る。是の月に、高麗、其の王安を弑す。
  又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に富る。
  後に勘校(かむが)へむ者、知らむ。

継体天皇陵古墳  古事記より

詳しく説明するまでもありませんが、書紀を編んだ天武・天智朝の「祖」とも言うべき人物の没年、それも文書化された資料が編集者たちの手元に複数残され、それぞれ照合することが可能であったにも関わらず、継体の亡くなった年が確定できず、外国の文献に取り上げられた一文を以って「後世の人が良く調べてみれば分かるかも知れない」と述べている訳です。疑義は、是に留まりません。書紀は継体の「長子」勾大兄(まがりのおおえ、安閑帝)が、

  二十五年の春二月の辛丑の朔丁未(七日)に

死の直前、父から譲位されて天皇となったと即位前紀に記す一方、元年十二月条の末尾には、

  謹みて国家のために、横渟・橘花・多氷・倉樔、四処の屯倉を置き奉る。是の年、太歳甲寅

と明らかに矛盾した即位の干支(甲寅は534年)を記録しています。周知のように継体と安閑は「親子」であり、二人は続けて大王に即位したはずなのですから帝記の根幹とも云える「前帝の没年」と「次帝の即位年」(通常は前帝の亡くなった翌年)のいずれをも間違えることなど想像することも出来ません。また、例え、編集者の一人が「たまたま書き間違えた」としても、僅か数ページを挟んだ前後の記述の齟齬に、校正の段階で誰かが直ぐに気づくに違いありません。更に、不可解な事実が重臣の任期に関するもので、継体二十三年条には、

  多々羅等の四つの村を掠められしは、毛野臣の過ちなり、と言う。秋九月に、巨勢男人大臣薨せぬ。

とあるのですが、天平勝宝三年(751)二月、男人の子孫・雀部朝臣真人は奏上文で、

  雀部朝臣男人は継体帝と安閑帝の御代に大臣に任じられ、天皇にお仕えしました。しかし誤って「巨勢」男人と記されました。(中略)
  巨勢と雀部は元々同祖ではありますが大臣に任じられたのは「雀部」男人であります。その名誉ある名前を永く後世に伝え、
  光栄を子孫に伝えるためにも「雀部」への改正を宜しくお願いいたします。(『続日本紀』)

「続日本紀」より(部分) 樟葉宮跡碑  PR

と訴え、同族で当時、大納言の要職にあった巨勢朝臣奈弖麻呂も、その事実を「証明」したので朝廷は彼の申請を認めて、治部省が「改正」したとあります(上三枚の画像)。このことは、

  1 書紀が「巨勢」氏だと記録していた男人が、正しくは「雀部」氏であったこと。
  2 男人は、継体と安閑の「二代」にわたり「大臣」を務めていたこと。
  3 男人の「勤務」に関わる六世紀前半の記録(文書類)が当時の朝廷に残されていたこと(大王の記録も当然在った)

などの事実を明らかにしているのですが、そうすると話は更に複雑になります。つまり「正史」が「継体二十三年=529年」に死去したとする大王の外戚巨勢男人が、実は、

  継体朝から引き続き安閑朝でも「大臣」を務めていた

記録が時の「治部省」にはあったことになります。と言う事は、当然「継体と安閑」が崩御した「正しい」干支も伝わっていたはずなのです。良く知られている様に巨勢(雀部)男人という人物は、武烈が亡くなり王家が『継嗣絶ゆべし』の状況になった折、大伴金村や物部麁鹿火と共に『枝孫を詳しく選ぶに、賢者はただし男大迹王ならくのみ』と言う共通の認識の許で継体を担ぎ上げた勢力の一人とされ、継体から王位を引き継いだ勾大兄に二人の娘(沙手媛、香香有媛)を嫁がせ、平群真鳥以後置かれていなかった「大臣」にまで上り詰めた実力者なのです。(雀部氏と「同族」であると申告しているのですから、大鷦鷯=仁徳帝の名代を管理していた一族だと考えるべきなのかも知れません。また彼は、孝元帝・武内宿禰のラインで蘇我氏とも繋がっています)「書紀」(編集者)は、ほぼ同時期に先行して採録された「古事記」をも完全に無視しています。記には、

  天皇の御年、肆拾参歳。丁未(527)の年の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり。

とあって(冒頭右の画像参照)、継体帝は527年(継体21年)4月9日に「43歳」で亡くなった、つまり継体大王は九州で筑紫国造磐井が「乱」を起こす前に既に亡くなっていたことになります。複雑怪奇なパズルの正解に少しでも近づくために、いつもの表を作ってみましょう。(左の2列が生没年に関するものです)

古事記(712年) 日本書紀(720年) そ の 他
 生 年   西暦485年  西暦450年  即位前紀「武烈八年に五十七歳」とある。
 没 年  丁未、継体21年、西暦527年  辛亥、継体25年、西暦531年
 甲寅、継体28年、西暦534年
 継体20年、磐余の玉穂に都を遷す。翌年、磐井の乱が起こる 
 継体23年9月、大臣の巨勢男人が亡くなる。
 子孫の雀部真人が男人が安閑朝まで大臣だったと奏上した。
 「百済本記」辛亥の年、日本の天皇、太子、皇子が倶に崩薨した

記紀と続日本紀の記述から男人の没年まで確認することは出来ませんが、継体の没年については或る程度の推理が可能です。つまり男人が『安閑朝においても大臣だった』と言う子孫たちの「証言」を朝廷が認めた事実を重視するなら、彼は「継体23年」に死去しているのですから、継体帝は、それよりも「前」に亡くなっていたはずです。つまり、その一点に関する限り「古事記」の伝える「丁未、継体21年」が信憑性を帯びてきます。その代わり別の「問題」が大きく浮上してきます。それが生年と系譜自体に関する疑念です。六世紀後半の出来事とは言え、書紀・推古28年是歳条にも、

  是歳、皇太子・嶋大臣、共に議りて天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。

と有るように、記紀編纂の一世紀以上も前に朝廷は大王家を含めた全豪族の「本記」を「録」しているのですから、どちらかが継体の生年を単に「誤って」伝えたのだとは考えられません。没年と「同様」、書紀が意図的に大王の記録に手を加えたのでしょう。唯、今となっては、記紀のいずれが事実を伝えているのか見極めるのはとても困難です。しかし、次のような状況証拠から古事記説が有利のようにも見えます。

  1 嫡男が59歳で産まれたと考えるより、24歳の時に産まれたと考える方が自然である(欽明の生年に関して)
  2 五世紀の人が82歳まで生きたとは考えにくい。
  3 武烈帝(489年生まれ)の姉・手白香皇女とは、ほぼ同い年で結婚相手としても相応しい。
  4 わずか22歳で即位したので畿内の諸豪族すべてを従えるまで20年近くの歳月を要したとも考えられる。
    507年・樟葉宮、511年・筒城宮、518年・弟国(乙訓)宮、526年・磐余玉穂宮

しかし、ここで古事記に軍配を揚げてしまうと大変厄介な別の問題を抱え込むことになります。それが安閑・宣化との「親子」関係、つまり系譜的な不具合が生じるのです。誰が考えても直ぐ気づくように「485年生まれの継体」が「466年生まれの安閑」の「親」であるはずがありません。勿論、書紀が親子共々、生年を粉飾したのだとも考えられますが、継体と三人の子供について古事記と書紀は混乱した記述に終始しています。

継 体 安 閑 宣 化 欽 明
 古 事 記  生年 485年
 没年 527年(丁未)
 生年 無し
 没年 535年(乙卯)
 生年 無し
 没年 無し 
 生年 無し
 没年 無し
 日本書紀   生年 450年
 没年 531年(辛亥82歳) 
 生年 466年
 没年 536年(70歳) 
 生年 467年
 没年 539年(73歳) 
 生年 509年
 没年 571年(年若干)

上表のように一見、書紀の「記録」が整然と正しく並んでいるようですが、これは編年体の記述方法のお蔭のようなもので生没年を古事記のように干支で明記している訳ではなく、生年も「享年」から逆算した結果に過ぎません。また、継体とヤマトの皇女・手白香との間に生まれ、敏達・舒明へと続く皇統の中核であるべき欽明帝について古事記は享年も陵も書き留めておらず、日本書紀も欽明のを伝えず即位前紀では『天国排開広庭皇子、即、天皇位す。時に年、若干』とのみ記し、在位32年夏四月に亡くなった時も『天皇、遂に内寝に崩りましぬ。時に年、若干』と欽明の享年を記録していません。要するに記紀が揃って欽明の実体を隠そうとしているのです。親子二代に亘り足跡を不透明にしなければならなかった継体・男大迹王は果たして本当にヤマトの豪族たちの要請を受けて大王となったのか?そのヒントの一つが乙訓(宮)にありそうなのですが…。詳しくは次回のオノコロ・シリーズに譲ります。《註=諡[いみな]とは、継体が男大迹(おおど)、安閑が勾大兄(まがりのおおえ)と呼ばれた様な生前の本名を指します》

   
     
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