継体陵」古墳に眠る人物の正体を探る                          サイトの歩き方」も参照してください

真の継体「天皇」陵は、大阪茨木にある太田茶臼山古墳ではなく、すぐ東に隣接する高槻市にある今城塚古墳なのだという考古学的な知見が、数次にわたる発掘調査や出土した土器類などの分析から多数提示されてきたにもかかわらず、お上は一向に頑なな姿勢を変えようとはしませんが、一方で『国が、あれ程、継体陵の比定に拘るのには、何か根拠のようなものがあるのでは?』『書陵部には、一般に知らされていない内部資料が存在している』などという憶測も飛び交い1,500年前に君臨したであろう大王の陵墓に関する謎は尽きません。そこで、オノコロ流に、皆さんと一緒に真相解明?の手がかりが見つからないものか、誰でも知り得る記録の類から検証してみましょう。

先ず太田茶臼山古墳(以下「太田陵」と略します)の被葬者が、どうして継体帝(450?〜531?)とは考えられないのかについてですが、その最大の理由が築造年代の大きなズレにあります。継体の没年に関しては各種の資料間で、幾つか細かな異同が見られるものの「およそ530年頃」つまり6世紀の半ば頃であると思われるのに対し「太田陵」の推定年代は出土した埴輪などの資料から、遅くても「5世紀半ば頃」だと見られ実に一世紀もの「ズレ」が生じてしまうのです。このように近接する二つの古墳の築造年代に関して、ある程度「相対的ではない」判断が示されるのは、最近の考古学分野での科学的手法による調査の結果が反映されたことによるもので、今城塚古墳の近くにある新池遺跡にある埴輪窯(A群1〜3号)を『古地磁気年代測定』したところ「太田陵」の埴輪を生産するために使用されていた時期が「最も早くて西暦430±30年」「最も遅くて西暦440±30年」だと判定されたからに他なりません。また、一部の研究家は『新池遺跡の埴輪窯群は、もともと太田陵を築造する時、わざわざ新たに造られたもの』(下右の画像)ではないかとも考えているようです。では、継体帝ではないのだとすれば、一体、誰が眠っているのでしょう?

解明の糸口を管理人は古墳の大きさに求めてみました。「真の」継体陵だとされる今城塚古墳の全長(墳長)が190mであるのに対して「太田陵」のそれは実に226mもあります。十数世紀を隔てた後にまで、その「名」を残し、我々にも、その存在(威容)を示し続けている「大王」の陵墓に比べ、数段大きな「陵墓」を築く資格を持つ人物が当時居たとすれば、それは、どのような人を考えれば良いのでしょう。幸い旧「三島郡」の土地には、と言うより淀川西岸に巨大な方円墳は、今とりあげている二つしかありません。常識的に考えれば「後から陵墓を築造した継体が、太田陵の被葬者に遠慮して、控えめに小さく拵えた」のではないでしょうか。だとすれば、太田陵には継体帝にとって直接の先祖に当たる人物が葬られている可能性があります。何故なら、一部で言われているように継体帝が、従来の「王朝」とはまったく無縁の人であったなら、古い時代の支配者に「遠慮」する必要など更々無いわけですから、三十年近くの在位期間に好きなだけ「大きな」古墳を作ることが出来たからです。また、太田陵と今城塚古墳が同じ基本設計に基づいて築造されていることも見逃せません。(方円墳の設計には主なものだけで3種類あるとされ、古市古墳群に属する多くの陵墓も、今城塚古墳と同じ形式が採用されています。言うまでも無く応神陵・誉田御廟山古墳も同形式です)

太田茶臼山古墳  古代の窯跡(復元)

壬申の乱(672年)に勝利して、実力で帝位を手中に収めた天武帝(631?〜686)は、その十三年十月「八色の姓」を定めますが、その最高位に置かれたのが十三家の「真人」姓の人々でした。『新撰姓氏録』などを参考にしたWEB上の解説文では、その内のトップ四氏を「応神天皇」から出た皇別氏族であると紹介していますが、、実はこの様な言い方は厳密には正しくありません。何故なら、姓氏録・左京皇別には次のように記されているからです。

  息長真人  誉田天皇の皇子、稚渟毛二俣王の後より出ず。
  山道真人  息長真人と同じき祖。稚渟毛二俣王の後なり。日本紀に合へり。
  坂田真人  息長真人と同じき祖。
  八多真人  諡は応神の皇子、稚渟毛二俣王の後より出ず。日本紀に合へり。

記紀などによれば応神帝には「皇后」仲姫命(オオサザキ・仁徳帝の母親)を初めとする十一人の后妃があって、嫡子の仁徳を除いても十人の皇子が居たと伝えられているのですが、帝位を継いだ仁徳の他に血統の存続が確認できるのは、天武が「真人」と認めた息長真若中比売を母として産まれた稚野毛二派皇子(ワカノゲフタマタノミコ、若沼毛二俣王・稚渟毛二俣王とも表記する)の子孫だけなのです。(果たして事実がどうであったのかは分かりません。姓氏録に記録として残されている資料には、同皇子を祖とする氏の名前しか確認できないという事です)そして、オノコロ・シリーズの読者は、この皇子の名前を過去何度も眼にしてきたはずです。『大阪府全志』(井上正雄、大正11年刊)に収録されている「北村某の家記」を覚えていますか?そこには正史が語らない「息長氏」をめぐる不思議な系譜が記載され、大々杼一族と帝室との親密な関係が縷々述べられています。そして、今、話題の中心となっている稚野毛二派皇子(若沼毛二俣王)について、

  応神八年、皇子を連れて里帰りした息長真若中女命に、その父親である杭俣長日子王が、
  当家には世継ぎの男子がいない。この若沼毛二俣王を養子に迎えたいと考えているのだがと相談したところ「天皇」から許しが出たので、

同皇子に息長真若伊呂弁王を娶わせて息長氏の家督を継がせた。二人の間には大郎子(継体の曽祖父)、忍坂大中姫沙禰王など七人の子宝が恵まれ、長子の大郎子(意冨本杼王)は『仁徳天皇の勅命を奉じて淡海の息長君』となり、忍坂大中姫は允恭帝の「皇妃」に立ち、弟の沙禰王が息長家を相続したと伝えられているのです。もち論「家記」の内容をそのまま全て鵜呑みにする訳には行きませんが、五世紀の前半「大王」でもない者が、若し巨大な方円墳を畿内に作れるとしたら、それは大王に次ぐ存在(嫡子あるいは皇子)を置いて他には考えられません。そして継体帝の親族で、その可能性がある人物は系譜上一人しかいません。それは応神の実子・若沼毛二俣王その人に他なりません。九世紀に編まれた「新撰姓氏録」(815年)に全幅の信頼が置けないことも事実です、天武の「賜姓」に彼を取り巻く諸般の事情が色濃く影響していることも又確かなことでしょう。それらを承知の上で、敢えて管理人の妄想を語るとするなら「家記」の云う「皇子を婿にする」話しと、その長子・大郎子(意冨本杼王)が仁徳の勅命を受けて「淡海」の息長君になった(つまり分家して大王の所領から離れた土地で独立した)話は明らかに「二重写し」の構造で、これは若沼毛二俣王が大郎子その人である事を寓意しているのかも知れません。

隅田八幡神社の人物画像鏡  忍坂の歌碑  PR

そう推理すると、また別の資料にあった文言が脳裏をかすめます。それが有名な隅田八幡宮人物画像鏡・銘文です。そこには、

  癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

の文字が認められ「意柴沙加宮」を「忍坂(おしさか)」にあった「大きな建物=宮」だと解し、冒頭に見る「癸未」年を若し西暦443年だと仮定すると、文中にある「大王」は第19代允恭帝(376?〜453)を指しているものと見られることから「忍坂宮」に居る「男弟王」とは忍坂大中姫の兄弟、大郎子(意冨本杼王=実は若沼毛二俣王?)であった可能性が浮上するのです(銘文には不明な文言も多く、断定は出来ないのですが…)。病弱を理由になかなか帝位を継ごうとしない夫を「叱咤激励」して即位させた忍坂大中姫の強い存在感は、何となく、あの神功皇后を髣髴とさせるものがあるのですが…、それはさておき。

「日本書紀」は第11代垂仁帝の三十九年十月の出来事として、次のような記事を掲げています。

  皇子・五十瓊敷命が茅渟の菟砥河上宮に居るとき、剣一千口を作った。因って、その剣を名付けて河上部と言う。又の名は裸伴と言う。
  石上神宮に蔵む。この後、五十瓊敷命に命じて石上神宮の神宝を主(つかさど)らしむ。
  一に曰く、鍛名は河上を召して、太刀一千口を作らしむ。(略)その一千口の太刀をば忍坂邑に蔵む。後に石上神宮に蔵む。

この条には後日談も有り、神宝を掌ってきた皇子は半世紀余りを経た八十七年春二月の五日、その妹である大中姫に話しかけます。

  「我は老いたり。神宝を掌ること能はず。今より以後は、必ず汝、つかさどれ」

ところが姫は『私は、か弱い女です。どうして、あんな大きくて高い蔵に登ったりすることが出来るでしょう。お断りします』とすげなく拒絶。諦めきれない皇子は、尚『それなら登り易い梯子をかけてあげるから』とまで申し出たのですが、結局姫が首を縦に振ることはなく、その役目自体を物部十千根大連に授けてしまいます。つまりは物部連一族が「ずっと昔から」石上神宮の神宝を管理してきたのだという権威付けのための文章なのですが、忍坂邑にあった帝室の建物が「武器庫」として機能していた事実を反映した「物語」だと見ることも可能です。また皇子から蔵を任された姫の名が「大中姫」であることは、五世紀中頃における帝室の中核となり、息長一族を繁栄に導いた忍坂大中姫の存在の偉大さを反映しているように思えてなりません。系図を辿れば分かることですが、応神の「子」仁徳に受け継がれた帝位は葛城系の履中、反正そして今見てきた允恭へと移った訳ですが、若し、忍坂大中姫が允恭の尻を叩かなかったら応神系の一族が再び大王位に就く確率は相当低いものになっていたに違いありません。また、応神帝の「皇后」息長足姫尊に象徴される金属生産集団を抱えた王家(鍛冶王)が、五世紀の権力構造の中心に位置し、尚且つ、一族の中でも優れた女性が大きな発言力を持ち、部族間の統廃合にも少なからぬ影響を与えていたと想像することが出来そうです。

今回のオマケ話は、地名に関するものです。実は最近まで誤解していたのですが、ここのところ数回テーマとして扱っている息長氏と継体帝が活躍している5〜6世紀当時「摂津」という国は存在していませんでした。もともと「摂津」という呼称が無かったようで、この場合「津」は港を意味していますから、要するに「津」と言った場合畿内に住む人々には「大阪湾周辺」を想起させる言葉であった可能性があります。では、現在ある「摂津の国」は、その頃何と呼ばれていたのか、と言う事になりますが、どうやら「凡河内国(おおしこうちのくに)」の一地域に過ぎなかったようなのです。(『古事記』にも川内、山代の地名は明記されていますが「摂津」に対応する地名は記載されていません)

金属神の性格を帯びた天津彦根命と天御影

関西で暮らす者にとって「河内」と言う言葉は、つい「南大阪」方面の限られた地域を想起させてしまうのですが、古代の人々にとっては現在の大阪府・兵庫県にまたがる広大な地域を指し示すものであったようです。(だから『凡(おおし)』が冠せられている)そして当然のことながら、それだけの広大な領土を支配した凡河内氏は大王家にも匹敵する実力を持つ豪族であったと思われますから、上で見た人物画像鏡にある「開中費直」は、同家の始祖に関わりのある人物だったのかも知れません。金属神の性格を持つ天津彦根命・天御影命を遠祖とする凡河内氏は五世紀の半ば、大王位を目指して兵器類の備蓄増強に努めていた息長・忍坂一族に接近、協力体制を作り上げ、継体大王の息子の一人には娘・凡河内稚子姫を輿入れさせるまでに親しい関係となります。しかし、その一方で、もう独りの息子(安閑帝)との土地の献上を巡る生々しい対立の構図も「書紀」が伝えていますから、全ての事柄が順調に進んだのではなさそうです。その証拠?に、忍坂大中姫の嫡男・雄略帝の九年二月、神事に関わる重大な禁忌を犯した罪で凡河内直香賜という人物が、弓削連豊穂により「三嶋郡の藍原」(今の茨木市太田)で捕まり処刑されています。(つまり、凡河内某という人にとって藍原付近が最も安全な場所=故地だと考えられていたのでは?。蛇足ですが国が指定する継体「天皇」の墳墓は三嶋藍野陵です)

安閑・凡河内事件=事の発端は跡継ぎに恵まれなかった安閑帝が后妃たちのために名代を残したいと思い立ち、勅使を大河内直味張(又の名は黒梭)の元に差し向けますが、彼は『当家には良田がありません』と嘘を付き、献上しませんでした。一方、大連の大伴金村と三嶋に行幸した安閑に当時の県主飯粒は喜んで広い田を帝の屯倉として差し出したのです。味張は、これが元で『郡司(地方長官)』の職を解かれたと書紀は伝えているのですが、凡河内氏が途絶えた訳ではなく、天武朝において「連(むらじ)」「忌寸(いみき)」の姓を下賜され、慶運三年(706)には凡河内石麻呂という人物が摂津国造を務め文武帝に仕えていたことが『続日本紀』に記録されています。安閑と凡河内氏が直接「対立」したのではなく、安閑・大伴氏の陣営と宣化・凡河内を含む支持する二つの陣営との間に何らかの「軋轢」があったと考えるべきなのかも知れません。三島県主が己の子・鳥樹を大連の「従者」として献上したとも書紀は述べていますので豪族間に問題が生じていた可能性もあります。

太田神社  復元された新池窯跡  復元した埴輪

「河内」関連で、もう一つ気になるのがオオタタネコの住いがあった「茅渟の陶邑(河内の美努村)」です。『国内の疾疫』が蔓延し国民がばたばたと倒れて行く状況に困り果てた崇神天皇は神々に助力を求めます。そして夢枕に立った大物主から『吾が児、大田田根子』をもって吾を祀れば国は、たちどころに「平らぐ」と告げられ、彼を探し出したのですが、天皇の問いに答えて己の父が大物主大神で、母は陶津耳の娘・活玉依姫であると出自を明らかにしています。「古事記」では更に詳しく『僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子』であると答えており、大田田根子は何故か「建甕槌(タケミカヅチ)」の子に位置づけられています。「継体陵」だとされる摂津最大の方円墳がある場所が茨木市太田で、その「太田陵」のすぐ西側には太田神社があり、少し離れた高槻市上土室の地には5世紀初めから百年以上延々と埴輪を造り続けた大規模な新池窯遺跡があるのは、果たして単なる偶然に過ぎないのでしょうか!

     
     
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