系図の落とし穴に嵌らないためには                           「サイトの歩き方」も参照してください。

古今東西、洋の西東を問わずいつの世も、どこの国の人に限らず自らの祖先たちが果たして何者であったのかを知りたいという根源的な欲求があるようで、無論、わが国の住人も例外ではありません。現在では小さな町にも立派な図書館が整備されるようになり、中には「郷土コーナー」や「歴史コーナー」を特設しているものもあって、有名無名の人士を収集した過去の「人名録」あるいは著名な歴史上の人物に関する系譜を扱った資料などを展示しているものも散見され、来館者の人気を集めているようですが、それはさておき。日本史探訪オノコロ・シリーズでも幾つかの氏族に関わる事柄を少なからず記事にし、その都度、参考資料として公表されている古代氏族の系図を紹介してきています。その中でも所謂「天孫族」にまつわる有力豪族の系譜は、WEB上でも抜きん出て多く見受けられるものなのですが、今回はその「系図」に焦点を当ててみました。

応神天皇と継体天皇は、それぞれ四世紀末・六世紀始め頃登場して何れも帝室の権威を格段に高めましたが、この二人の大王はどちらも謎の多い息長氏の出身ではないかと考えられています。氏族の専門家などにより同氏の研究が進められていますが、現在では息長氏の祖神は天津彦根命であり、出雲国造家やニギハヤヒを頂点とする物部氏とも同じ天孫族の一員ではないかとする見方が有力視されているようです。下に紹介しているのは国立国会図書館が収蔵している各氏族の系図(『諸系譜』)から引用した物部大連家(穂積宿禰)の代表的な一例ですが、ここでは「神話」と同様ニギハヤヒは天忍穂耳命の子供で、天孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)とは「兄弟」の間柄であるという『先代旧事本紀』の主張を踏襲した形になっています。具体的には「天照大神−−天忍穂耳尊−−櫛玉饒速日尊−−ニギハヤヒ−−宇摩志麻治命−−彦湯支命」と云う風に繋がって行くのですが「ニギハヤヒ」の名称を冠した名前が冒頭から二代重複し、一方では海人族の尾張氏とも同祖であるという形を採るなど複雑怪奇な系図です。ただ、すべての伝承が架空とは言えないものの、様々な時代の実力者の出身氏族が伝えた「主張」を継ぎ接ぎして造作した憾みはぬぐえません。物部を名乗る氏族は決して少なくありませんから、時の朝廷内で重きを成した人物が氏族の長(氏上)であれば、当然その「物部」氏が伝える系譜が尊重された可能性は十分にあったと考えられます。

「諸系譜」より  麻呂の部分  石上麻呂

千数百年もの間、繰り返し多くの人によって写筆が繰り返されたものが系図であり、そこには意図しない「書き間違い」や「欠落した(書き漏らした)部分」があって当然です。また、上で述べたように、権力の中枢に近い地位を得た「何々氏」が主張する内容が、それまでに存在していたであろう「原系図」に随時書き加えられたり、或いは書き換えられたり、更には自家の言い伝えに合致しない部分は「削除」ないしは「改変」されたとも考えられます。つまり、有名な豪族の残した系譜であっても予断を持たず、常に慎重であるべきなのが系図を扱う上での基本姿勢だと言えるのですが、著名な研究者が収集して国の図書館などに収蔵されている「資料」としての系図を、頭から猜疑の目で見る者は決して多くはないでしょう。何故なら、私たちは通常公開された情報を探す場合、歴史的な文献を扱う専門家としての力量に全面的な信頼を寄せており、その資料の中に明らかな「間違い」が含まれているとは思ってもみないからに他なりません。

ところが例外というものは何に限らず存在するもののようで『諸系譜』に収められている「物部大連(穂積宿禰)」の項に記載された記述には、考えられないような誤り箇所が認められるのです。古都、奈良には七支刀で知られる石上神宮があり、その祭主を務めた石上氏は天武天皇から「石上」姓を下賜された有力氏族であり、古代史に度々登場する「物部」氏に属する名家とされています。元明天皇の下で左大臣まで栄達した石上朝臣麻呂(640〜717)は『先代旧事本紀』天孫本紀が「馬古連公の子」であって、その父親は「難波朝(孝徳天皇)の御世、大華上と氏印太刀を授かり、神宮に斎き奉った」人で、ニギハヤヒ十六世孫である「目大連の子」として掲げた人物です。上中央の系図を見てください。上段の右から五人目に「目連」とあって、その子が「衛部、宇麻呂(馬古)」そして「麻呂連」と続いて、更に罫線が引かれ「乙麻呂、安麻呂、宮」の三兄弟の名前が記されていますが、問題は安麻呂の子として上げられている「石足、豊成」の部分です。

     先代旧事本紀  

日本家系・系図大事典

新品価格
¥12,960から
(2016/11/24 18:55時点)

古代史に少しでも親しんだ経験をお持ちの方なら「石足」という一風変わった名前をこれまで何度も何処かで目にしているはずです。また、彼の子供に「年足」の名前を持つ人物が挙げられている処をみれば、この親子たちが決して「物部」しかも石上神宮と深い関わりのある石上麻呂の子孫ではない事に気づくはずです。歴史が苦手という読者のために蛇足の説明を加えると、上の系図にある「石川石足(イシタリ)667〜729」は蘇我氏の嫡流とも言うべき存在で、

  蘇我馬子(551?〜626)−−倉麻呂(蘇我蝦夷の弟)−−連子(614〜664)−−安麻呂−−石川石足−−石川年足(688〜762)

「乙巳の変(645年)」において蘇我氏の宗家入鹿(610?〜645)一族が滅ぼされた後、同家を継いだ蘇我倉山田石川麻呂(?〜649)が再び「謀反」の疑いを掛けられて自害した事から、石川麻呂の弟である連子(ムラジコ、大紫の位)が「蘇我氏」を代表する家柄となったのですが「蘇我」の姓は名乗らず、本拠地の名でもある「石川」を自らの姓として従三位、左大弁の地位にのぼった七世紀前半の人なのです。つまり古代史では「それなりに」名も知られた存在だったはずの「石足」が、何故、まったく異なる物部氏の一員として系図に書き込まれたのか不思議でなりません。増してや、この系譜を収集したのは古代系図の研究では第一人者と見られている人であっただけに謎は深まるばかりです。唯一の可能性としては先祖が二人とも「馬子、馬古(ウマコ)」という珍しい名前の持ち主であった事から生じた混乱、錯誤だったのではないのか、それ位しか誤記の原因が思い当たりませんが、それも古代史を扱う人にとっては常識の域を超えない範囲の事柄ですから、この間違い系図は大変特異なケースだったのかも知れません。

今回取り上げた「誤記」は筆者にでも分かるほど単純な間違いでしたが、自家の系譜を意図的に改編しようと試みたものなどは、余程、氏族の歴史等を学んだ者でなければ、その「誤り」部分を見つけ出すことが難しいと思われます。読者の皆さんも、歴史散歩される折は十分ご注意ください。

TOP      

古代史研究の最前線 古代豪族

新品価格
¥1,728から
(2016/11/24 19:04時点)

     
 人気のページ   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   お地蔵様の正体を探る   オオクニヌシは居なかった   邪馬台国と卑弥呼