一枚の系図が教えてくれる歴史の秘密                                                  「サイトの歩き方」も参照してください

「人は誰でも自分の見たい物しか見ていない、見えていない」などと言おうものなら、すぐさま大向うから『それは、元々、お前の錆びたアンテナが十分に機能していないだけのことだ』と安易な普遍化を諌める無数の紙礫が飛んできそうですが、限りある経験に照らしてみても、関心がある対象であっったとしても常に細部にまで眼を行き届かせ確認している訳ではありません。早い話、毎日のように「読んでいる」はずの記紀でさえ、大半の部分について知らないのが「実情」なのです。例えば、記紀が伝える「神武東征」の件に関して言えば、神武兄弟たちの進軍とヤマト建国についての概要はおぼろげながら分かったつもりでいても、書記の綏靖即位前紀に次のような一節があることは、今回記事を書くまで全く知りませんでした。

  冬十一月に、神渟名川耳尊(綏靖帝)、兄の神八井耳命と、陰にその志を知ろしめして、善く防きたまう。
  山陵の事おわるに至りて、すなわち弓削稚彦をして弓を造らしめ、倭鍛部天津真浦をして真麛(マカゴ)の鏃(ヤサキ)を造らしめ、
  矢部(やはぎべ)をして箭(ヤ)を作がしむ。

これは、初代神武が亡くなり二代目争いが兄弟間で起こり、異母兄弟の一人である手研耳命(タギシミミ)が自分たちを排除しようと計画しているのに気づいた綏靖と神八井耳命の二人が「片丘の大室」の中で寝ている相手を「弓矢で射殺」そうとする場面の記述なのですが、年長の神八井耳命は『手脚が震えおののいて』矢を射ることが出来ません、それを見ていた弟の綏靖が兄の手から弓矢を「掣き取り」二本の矢を胸と背に「中て」タギシミミを葬ります。事後、己の行いを恥じた神八井耳命は弟に向かい、

  『今、汝、特挺れて神武(あやしくたけ)くして、自ら元悪を誅う。宜なるかな、汝の天位に光臨みて、皇祖の業を承けんこと。
  吾は當に汝の輔となり、神祇を奉典らん』と申す。これ即ち多臣が始祖なり。

と宣言して皇位を弟に譲ったのだと記紀は記しています。一般的には、この「事件」は古代王族家で行われていた「末子相続」(兄弟の中で最も年下の者が家を継承する)の風習を説話化したものだと解釈されているのですが「反逆の疑い」をもたれ、極めて近しい者が放った「矢」で射殺されるという筋書きには見覚え聞き覚えがありませんか?。そうです、例の天若日子の「返し矢」神話が、全く同じ構図を持っていましたね。このサイトでは彼を天津彦根命(又は子息)と同一の存在ではないか、或いは又、彼が弓矢の業に長けたとても親しい人物が放った矢によって斃れたのではないか、そして大王一族によって後世「オオクニヌシ」の名称を贈られて縁の深い出雲の地に祀られることになったのではないか、という推理を展開してきましたが、今回も、系図という資料を手元に置いて妄想の輪を広げてみたいと思います。

先ず、上の引用文についてですが古事記を少しでも読んだ方なら登場人物の一人「天津真浦(アマツマウラ)」の名前に注目したはずです。倭鍛冶(やまとのかぬち)を代表する彼の姿は古事記にも記録されていますが、登場する時代背景に数代にも亘る大きな食い違いがあります。記では、神武東征の遥か以前、アマテラスの「岩屋戸隠れ」の場面において、次のように描写されています。(文中の高御産巣日神が、葦原中国に行く天稚彦=天若日子に天鹿児弓と天羽羽矢を与えた本人で、天稚彦は同神が投げ還した矢で胸を貫かれて絶命します。高御産巣日神は高皇産霊尊とも表記されます。天鹿児弓を日本古典文学大系の監修者は『鹿児を射る大きな弓』だと説明していますが、書紀自身が『マカゴの鏃』と書き残しているのですから、その解釈は成り立ちません。古墳時代の五世紀頃までは銅の鏃(やじり)が使用されたと見られていますから『マカゴ』も銅製を意味していると考えられます)

  是をもちて八百萬の神、天安の河原に神集いて、高御産巣日神の子、思金神に思わしめて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、
  天安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐡を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売命に科せてを作らしめ、
  玉祖命に科せて、八尺の勾玉の五百津の御須麻流のを作らしめて…

一読して違和感を覚えてしまうのは「何を作らせるために」鍛人を求めたのか、つまり伊斯許理度売命が「鏡」、玉祖命が「勾玉」をそれぞれ作ったように天津麻羅にも何かを作らせたはずなのに古事記の編集者は故意に、その「物」の名前を書き落としているからです。「鏡」「勾玉」とくれば、三種の神器の原型であることは明白ですから、鍛人が「鐡」で作ったものは「剣(武器)」に違いないはずなのに記は何故か語ろうとしません。第一、書紀の本文・一書には倭鍛人そのものが、この大事な場面に姿すら見せていないのです。その代わり思兼神、手力雄神と共に主役の座を射止めているのが中臣連の遠祖、天児屋根命であり、かろうじて脇役の一人として忌部の遠祖、太玉命が名前を連ねています。その理由は、今更云うまでも無いと思いますが、念のため蛇足として付け足すなら、書紀の編集が実力者藤原氏の監督下で行われ、神話時代からヤマト朝初期を経て飛鳥時代に至る間に大王家の近くに在って活躍をしていた弓削一族や天津彦根命後裔を称する多くの氏族が既に凋落していたことが記述内容の選択に大きく影響していたと考えざるを得ないのです。(物部一族の雄で弓削守屋とも称された物部守屋は蘇我馬子を中心とした部族連合軍によって『射堕とされ』、栄華を誇った蘇我の宗家・入鹿も皇極四年、乙巳の変によって暗殺されます)

「諸系譜」より  比売許曾神社(大阪)

さて、東京国立国会図書館は数多くの系譜系図類を収蔵していますが『諸系譜』の名称で保管されている三十三冊の写本もその一部で、これは明治期の司法関係者で系譜研究家でもあった中田憲信(1835~1910)が収集し編集した諸家の系図類で、その第一冊には「東国諸国造、天津彦根之裔」と呼ばれるものが含まれています(上左の画像)。先ず、この系譜が教えてくれることは天津彦根命の子「天目一箇命」には①天戸間見命、②天久志比乃命、③明立天御影命、④天津麻羅命という四つもの別名があり『天目一箇命=天御影命=天津麻羅』の等式が成り立つのだという事実です。そして、もっと興味深く思えるのが同神の妹?が比売許曾命(ヒメコソ)であり、かつ、この女神が天日矛命の「后神」だとする伝承です。また、ヒメコソには①息長大姫刀自命、②淡海比売命の別名もあったと記していますから、息長一族と大王家との深いつながりを解明する糸口になる資料と見ることが出来るかも知れません。天日槍(天日矛)については記紀で扱う時代も、その具体的な伝承の内容も大きく異なりますが、古事記が「アカルヒメ」だとする妻が天津彦根命の娘であって、尚且つ天目一箇神の妹だとするなら、天津彦根命(と天目一箇命の親子神)こそがオオクニヌシの実体ではないかという管理人の妄想に一つの傍証を与えてくれるかも知れません。何故なら彼等は、記紀神話の中で、

  天照大神の子孫を天下らせる前衛として葦原中国に派遣された天若日子は、天穂日命や大背飯三熊之大人と同様、大己貴神に阿り媚びて、
  顕国玉(大己貴神)の女子、下照姫(又の名は高姫)と夫婦になって自分で葦原中国を治めようとした

天孫族内の「反逆者」という烙印を押されている「天若日子」とダブルイメージされた神々だとするのが筆者の推理の核心ですが、播磨風土記が詳しく伝えている「天日矛と葦原志挙乎命」の勢力争いの「神話」こそ「葦原志挙乎命=オオクニヌシ=天目一箇神」である実情を裏書きする言い伝えだと考えられるからです。かつて、第八十三代出雲国造の千家尊祀氏は出雲大社の祭祀に関して『出雲国造は、オオクニヌシをお祀りする立場の者であり、また同時にオオクニヌシそのものともなるのです』と云う意味合いの発言をしていたそうですが、古代の祭祀そのものが「祖霊」の慰撫にあったと考えれば、出雲大社の祭神であるオオクニヌシは巷間に流布されているような「国津神」ではなく、あくまでも「天孫」一族それも権力の中枢で重要な地位を占めていた人物の「霊」を祀ったものだと考える方が自然で、上の天津彦根命の系譜の左側にある、

  出雲風土記、屋代の郷。天乃夫比命の御伴に天降り来ましし(伊伎等が遠つ神、天津子命:この部分は出雲風土記による)  近江国蒲生郡 彦根神社

という注文は天津彦根命が遠い昔に出雲の地に「天降り」、風土記が編まれた八世紀の現在、近江国で「彦根」の神として祀られている事実を伝えています。そして、この社の祭神は「活津彦根命」という神様ですが、天穂日命・天津彦根命と「兄弟」だとされるだけで子孫も見当たらず、逸話も記紀風土記に一切見当たりません。恐らく「天津・活津」の語呂合わせで産まれた数合わせのための存在だとも考えられるのですが、その名前に含まれる「彦根」の文言と、天若日子の葬儀に訪れた味耜高彦根神が、

  この神の容貌、正に天稚彦が平生の儀に類(に)たり

と表現されていることを考慮すると、天若日子の妻・下照姫(高姫)の兄=味耜高彦根神という神格も天津彦根命自身と微妙に重なり合い、天若日子とオオクニヌシ(の娘)を巡る一連の神話も、天津彦根命という名に象徴された天孫一部族の「悲劇」を後世に伝えるための「物語」だったように思えてなりません。では、記紀には記録されてはいないものの天津彦根命らしき人物が遥か昔に出雲の地を確かに踏みしめ生活していたことを記した資料は存在するものなのでしょうか?!それが上で紹介した系譜そのものなのです。出雲風土記、飯石郡、波多の郷の条には次のようにあります。

  波多の郷、郡家の西南のかた一十九里なり。波多都美命の天降りましし所なり。かれ、波多という。
  波多の小川、源は郡家の正南のかた二十四里なる志許斐山より出で、北に流れて須佐川に入る。(まがね)あり。

波多都美命(ハタツミ)は天津彦根命の別名か

オオクニヌシの舅であり、かつ「祖先」でもある須佐之男(スサノオ)の故地のすぐ近くにあって「鐡(マガネ)」が採れる地に「天穂日命」とともに「天降った」波多都美命(ハタツミ)こそ、天津彦根命の「別名」なのだと云う訳ですが、何とも「出来過ぎた」話のようにも思えますが、現在、雲南市掛合町になっている同地にはハタツミを祀る波多神社が鎮座しています。この社には剣大明神(恐らくツルギヒコ)が配祀されていますから、伝承通りに鍛冶師の祖霊たちが周辺地域を開拓した記念碑の役割も果たしていると考えられます。一方、近畿に眼を転じると阪南市石田(旧和泉国日根郡)に波太神社があって角凝魂命を主祭神としています。この「ハタ」は「畑」の意味だと社伝などにあるようですが、ツノゴリが鳥取氏の祖神である事は明白で、新撰姓氏録によれば「角凝魂命の三世孫が天湯河桁命(アメノユカワタナ)」であり、その三世孫が鳥取連の祖先なのです。『もうひとつの白鳥伝説』の中で詳述しましたが、垂仁の皇子ホムツワケは大人になっても満足に話すことが出来ません。ところが或る日、空を飛ぶ鵠(クグイ)を見て片言を発します。この時、大王の側に仕えていた鳥取連の祖先、天湯河板挙命が皇子のために各地を経て出雲まで鳥を追い、捕獲して献上しました。更に、古事記は皇子の言葉の問題は「出雲の大神」の祟りであったと記し、姓氏録は祖先が鳥を捕えたのは出雲国宇夜江(島根県簸川郡簸川町神庭宇屋谷)という土地だったとも伝えています。単なる系図の話だったはずが少々込み入った構図に変化してきましたので、これまでに分かってきた事柄を箇条書きにしてみたいと思います。(過去に掲載した記事にある内容も含まれています)

  ① 古来より大王の近くに鍛冶師などモノ(神器と武器)づくりを担当する様々な氏族集団が存在していた。武器作りそのものが神器作りと共存していた。
          新撰姓氏録は弓削宿祢を「高魂尊の後裔、天日鷲翔矢命の子孫」だと紹介しているが、天日鷲翔矢命が天日鷲命と同神であるとするなら、
     天日鷲命は忌部(斎部)氏の祖神(「古語拾遺」)でもあるので弓削氏も元々は天孫の一族、天津彦根命とも同族という位置づけになる。
  ② アマテラスの一族(息子)でもある天津彦根命もヤマト朝、草創前から大王と共に在って武器作りを率先して行っていた。(八千矛、大穴持の別名の由来)
  ③ 天津彦根命に代表される一派は、ヤマトに入る以前に出雲の地を支配下に置いて開発を進め、大きな足跡を残した。(後にオオクニヌシとも称えられた)
  ④ 天津彦根命の一族は、天目一箇命や天御影命あるいは天津麻羅といった神々の名前で伝承された。(近江の御上神社が有名だが地味な神様である)
  ⑤ 天津彦根命は地元出雲では波多都美命(ハタツミ)とも呼ばれ、鳥取連の祖神(角凝魂命)を祀る社も波太神社と呼ばれている。(関連も疑われる)
     大和国山辺郡にはスサノオ、櫛稲田姫、天忍穂耳命、天津日子根命、天穂日命などを祀る神波多神社という社があり、高市郡にも式内社の波多神社がある。
          この神社はオオクニヌシの子・事代主命を祭神としているが蘇我氏と同族とされる波多臣の本拠地の守り神と見ることも出来る。(明日香村冬野が所在地)
  ⑥ 天湯河桁命がクグイを捕まえた(出雲の大神の祟りを鎮めた)場所は、銅剣銅鐸が大量に発見された荒神谷遺跡の北東数百メートルの所だった。(地名は神庭)
  ⑦ アマテラスの直系子孫であるはずのヤマト朝初期の大王たち(崇神、垂仁)は「出雲の大神」の祟りに大いに悩まされ、丁重に祀ることを決めた。
          古事記によれば大神を拝するため出雲に赴くホムツワケの介添え役としてお供した曙立王・菟上王の祖母が天津彦根命一族の山代之荏名津比売であった。
     応神帝の頃、播磨国枚方の里にいた「出雲の御影の大神」が住人を大いに悩ませ伯耆、因幡、出雲三国の代表が朝廷に荒ぶる神の「鎮圧」を願い出た時も、
     大神を「祷ましめる」ために送り込まれた人物が、やはり天津彦根命系統の額田部連久等々(天戸間見命の子孫)であった。
          なお播磨風土記は、この「枚方の里」は「河内の国、茨田の郡の枚方の里」から来た漢人が開発して住み着いたので「枚方」と呼ぶのだと地名由来を語っているが、
     この「茨田」の「漢人」が姓氏録に云う河内皇別の茨田連・茨田宿祢(の部民)を指すとすれば、天津彦根命系との「軋轢」衝突を窺わせる。

弓削宿祢系譜  ハタツミ  都下国造  PR

「東国諸国造」系譜には、もう一つ不思議な家系が書き加えられています。それが上右の画像左端の部分で紹介している「彦己曾根命」の箇所です。天津彦根命後裔の主流は「天目一箇命--意冨伊我都命」と受け継がれた後、画像に見える「三兄弟」に分岐し、①長男?の彦伊賀津命が三上祝家を、②次男?の阿多根命が山背国造家を、そして三男?の彦己曾根命が凡河内国造家のをそれぞれ興したとする解釈が最もポピュラーなのですが、上で引用した部分には凡河内国造の下に『大縣主、河内国大縣郡ナリ』とあり更に、その左側に『都下国造等祖』と註文が付け加えられています。都下(ツゲ)国造と言えば古事記が冒頭に引用した「タギシミミの反逆」未遂事件の後に、神八井耳命の子孫だとして多臣、火君、阿蘇君、筑紫の三家連、科野国造などの諸氏と共にあげている天孫族の初期分岐氏族だと考えられており、どの資料を見ても都祁直を「彦己曾根命」に結びつける記述は存在していません。従って「系譜そのものが間違っている」或いは「系譜を書き写す時、書き入れる場所を間違えた」と考えるのが最も穏当な「解釈」なのですが、この二つの氏族に共通した「事柄」があることは事実です。オノコロ・シリーズのファン?である方々なら、それが何なのか既にピンと来ていることでしょう。書紀允恭二年条は、

  初め皇后(忍坂大中姫)、母に随いたまいて家に在します時に、独り苑の中に遊びたまう。時に、闘鶏国造、傍らの径より行く。

と書き起こし皇后に「けしからぬ振る舞い」をした闘鶏国造の「姓」を「直」から「稲置」におとして、命だけは助けてやったと不敬事件の顛末を記しています。時代は下り安閑帝は皇后のために「屯倉」を選定し宮殿を建てようと計画、大(凡)河内直味張に「良田」を選んで献上するように勅使を遣わせたところ、

  私の田は旱しても水を十分に与えることが難しい反面、一度洪水などに見舞われると中々水が引かない大変に厄介で収穫の少ない質の良くない田んぼです

と嘘を言い出し惜しみました。他方、三嶋縣主飯粒は大変名誉なことだと四か所もの土地を屯倉として差し出した上に、自分の子供鳥樹を大伴大連の従者にしてもらいます。味張の虚偽申告を重く見た朝廷は『お前のように大王の命を軽んじて背くような者は、今後、一切公の立場に身を置いてはならない』と厳しく糾弾しました。「反省」した味張は結局、田六町と多くの部民(郡ごとに五百人)を農繁期に供出することになります。これらの話には二つの共通点があり、一つ目が「大王妃」に関わる事柄であること、そして二つ目が「応神・息長」系統の大王の家族と「対立した」勢力の没落を揶揄する内容になっている点です。正にそれは「滅び行く者の象徴」と言えなくもありません。オオクニヌシ、天若日子に始まり、弓削宿祢、蘇我氏、凡河内氏そして都祁氏と見てきた今、決して語られる事のない歴史の深部を垣間見た心地がしています…。彦火火出見は東征に先立ち、塩土老翁の状況説明を聞き『東の方に美き地有り。青山四周れり。その中にまた、天磐船に乗りて飛び降る者有り。その飛び降る者は、是、饒速日と謂うか』と述べて勇躍進軍したのだそうですが、これまで述べてきた一連の出来事を例えば「敗北の構図」と名付けるとするなら、ニギハヤヒこそ「国造りから国譲り」までの全てを体現した悲劇の主人公であり、オオクニヌシの最も良き理解者であったのではないかと思えるのです。

ここからはオマケ話です。実は楽屋話を披露すると、今回こそ『諸系譜』の中に稲背入彦命の先祖につながる記述を「発見」してやろうと大いに意気込んで書き始めたものですから、ページのURLにもinaseirihikoが含まれてしまっているのです。話の接ぎ穂がどこかに無いものかと思案六峰…、果たして直接関係があると云えるのどうか?自信は無いのですが、とにかく付け足しておきます。播磨国、今の姫路市嶺山にスサノオ・五十猛命を祀る広峰神社が建てられています。社伝によれば吉備真備が帰朝した折に、この地で異神を見ます。それがスサノオだったそうなのですが、実は、この神社の社家が凡河内躬恒の子孫で広峰氏。そして七代目の当主に跡継ぎの男子がなかったため阿曽氏の末裔である広瀬家から養子を迎えて別当職を継がせたと言うのです。躬恒は明らかに天津彦根命の末裔ですから、古事記が神功皇后の弟・息長日子王の子孫であるとする「針間の阿宗君」(であろう)阿曽氏から婿養子をもらったことになります。祖先たちの「怨念」を乗り越えて、新たな時代に立ち向かったのかも知れませんね。

(追記・日本書紀が「闘鶏国造」と記していること、系図には「都下国造」とあることを重視して、二つは別の氏族とする考えも成り立ちます。その場合「都下国造」が天津彦根命の後裔であったとする伝承があっても不思議ではありません)

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