系図片手に古代への旅に出かけよう                         「サイトの歩き方」も参照してください。

映画などで時間旅行の主役はタイムマシンと相場は決まっている。子供たちの好きなアニメにも、自分たちが望む場所に自在に行ける不思議な扉が登場するが、そんな便利な道具を持ち合せていなくても、ほんの少しばかりの想像力さえあれば、千数百年くらいの時間をたちまち遡り、古代の日本で活躍した人々の素顔の一端を垣間見ることは不可能ではない。近くに図書館があるのなら「歴史」コーナーに足を運ぶも良し、外出が億劫ならインターネットで検索してみるのも良いだろう。皆が日本史の授業で習ったはずの豪族たちの子孫が伝えた「系図」は、最も手に入れやすい古代史への案内図だと言える。かつて帝室をも凌ぐ勢いがあったとされる蘇我氏は、仏教の受け入れ方を巡り日本古来の神々を祀り続けてきた物部氏と対立、朝廷は二分され激動の時代を迎えました。新しい文化の受容に積極的であった蘇我氏は、血縁でもある厩戸皇子(聖徳太子)を味方に付け、旧来の神々を信奉する豪族たちとの戦いに挑み、守旧派の旗頭であった物部守屋(?〜587)を打ち取り戦の主導権を握った、と日本書紀などが伝えています。馬子(551?〜626)から蝦夷更には入鹿(610?〜645)へと一族三代にわたって隆盛を極めた蘇我氏でしたが、時代は移ろいやがて藤原氏の台頭を招き、中大兄皇子(天智天皇,626〜672)の登場となるのですが、それはさておき。

誰もが良く知っている物部、蘇我の両豪族は権力闘争の過程でその一族が悉く同時に滅び去ってしまった訳では無く、それぞれの子孫(、子、分家や親類など)は新たな政権の許においても一部の人は重要な役職を与えられて朝廷政治の内部でも活躍していたのです。その典型的な例として一人を上げるとすれば、七世紀後半から八世紀にかけ朝廷の重職を務めた上げた石上麻呂(640〜717)の名前が直ぐに浮かぶほど、彼は「幸運」にも恵まれた武人でした。西暦673年、天智帝が亡くなった途端、壬申の乱が勃発します。その時、帝の遺児・大友皇子に忠誠を誓い加担した麻呂でしたが思いもかけぬ負け戦となり、

  ここに、大友皇子、走げて入らん所無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ。
  時に、左右大臣および群臣、皆、散け亡せぬ。

惨状となったのですが、その様な絶望的な状況の只中にあって『ただし、物部連麻呂、また一二の舎人のみ』が皇子の最期まで付き従ったと日本書紀は記録しています。「続日本紀」が『泊瀬朝倉朝庭(雄略天皇)大連物部目の後、難波朝衛部大華上宇麻乃の子』と明記した彼は、天武帝にとって正に敵「反乱軍」側の将であったはずなのですが、通説は「敗軍の将」物部連麻呂が天武に許されて復帰し、石上の姓も賜って廟堂の首座にまで上り詰めたのだとする見方を取っています。ただ、物部氏の系譜を詳しく綴った『先代旧事本紀』天孫本紀には天武天皇から「石上」の姓を賜り神宮で祀り事を取り仕切った物部連麻呂は「馬古連公」の子であり、その父親の馬古連は、

  難波朝(孝徳天皇,596〜654))の御世、大華上と氏印の太刀を授かり、食封千烟を賜りて神宮に斎き奉った

人物であると註文が記載され、祖神ニギハヤヒから数えて十六世孫の項に「目大連の子」として掲げられており、その系譜を文字で示すと次の様な形になります。(先頭に位置している『目』大連が上で見た雄略時代に活躍したとされる十一世孫にあたる人です。物部氏の系譜には三人の『目』が登場します)

  目大連−−荒山連−−物部尾輿−−太市御狩(守屋の兄)−−目−−馬古(宇麻乃)−−石上麻呂(640〜717)

  石上神宮  石上麻呂  PR

天武十三年(684)十月「八色の姓」が制度化され、物部「連」は「朝臣」の姓を賜ったのですが、不思議な事に肝心の「石上」姓の下賜について日本書紀は何も語ってはいません。歴史書によれば彼は持統朝以降でも厚遇され筑紫総領(700)、中納言(701)、大納言(701)、大宰帥(702)、右大臣(704)などの要職を次々と歴任、養老元年三月左大臣正二位で亡くなったとされていますが、それだけ朝廷から重要視されていた顕官の賜姓記事を何故、書紀は書洩らしているのでしょうか?その理由は不明ですが、正史に現れた「物部麻呂」と「石上麻呂」を表にしてまとめてみました(右側の列には同時代関係者の生没年を入れています)。

  西 暦   出来事・記事   藤原不比等   659〜720 
 673年   壬申の乱。物部連麻呂が二三人の舎人とともに大友皇子の最期をみとる。  石上 麻呂  640〜717
 684年  11月 「八色の姓」施行に伴い、物部連麻呂が「物部朝臣姓」を賜る。  物部 守屋   ?〜587
 686年   9月 天武帝が亡くなる。直広参の石上朝臣麻呂が法官の事を誅して奉る。  物部 雄君   ?〜676
 689年   9月 石上朝臣麻呂、直広肆石川朝臣蟲名らを筑紫に遣わす。  石川 石足  667〜729
 690年   正月 持統帝の即位に際して、物部麻呂朝臣が大楯を樹つ。  持統天皇  645〜703

天武帝が「八色の姓」を制定した後に「石上」姓を賜ったのだとすれば、その時期は西暦684年から686年の間であったはずで、689年に「石上朝臣麻呂」は同僚と共に筑紫に派遣されています。ところが、その翌年、天武の跡を襲った持統帝の即位に際して行われた儀礼に「大楯」を建てたのは「物部麻呂朝臣」という人物なのです。この時、物部氏の氏上(総領家)は上表に掲げた「物部(榎井)雄君」の子孫だったと思われるのですが、雄君の「子」とされる家は「物部金弓連」「物部忍勝連」の復姓二氏のみが資料に見えるだけで、天武の寵臣であり、その死に際して『内大紫位を贈い。因りて(物部氏の)氏上を賜』わった家柄以外の物部氏が存在していた可能性があるようです。なお、雄君は「物部守屋」の子供だとする系譜が残されていますが、守屋は西暦587年に亡くなっていますから、雄君が例え587年生まれだとしても、壬申の乱(673)には「86歳」で従軍したことになり、これは凡そ有り得ない話なので、系譜の改造が疑われます。

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