数少ない古墳巡りを体験する過程で、断続的に脳裏をかすめ続けた不鮮明なイメージの断片が、一つのまとまった「姓」として浮かび上がるまでには相当の月日を要した。蘇我氏の足跡を辿り大和橿原の大きくうねる台地を歩き回り、その巨大さで知られる見瀬丸山古墳に登った後、ほぼ真東にある植山古墳を目指して進む−。すぐ、目と鼻の先にブルーシートに覆われた小山が手に取るように見えていたのに、畦道伝いに民家の間を抜けて到着するまで結構、時間をとられたように思う。古墳は、周囲全てに宅地開発が進められ往時を偲ぶよすがも無いが、陵墓を覆う赤土だけは今でも目の底に焼きついている。何しろ、すべて赤い土の小山なのである(下右の画像、橿原市教育委員会提供)。古代史に興味のある読者なら、この墓の主が若しかすると推古女帝と、若くして亡くなった息子との合葬陵であった可能性があり、その石室の一つから近年注目を集めている阿蘇溶結凝灰岩(通称=阿蘇ピンク石、馬門石)製の石棺が見つかったことをご存知のことでしょう。大和の平定を進めていた神武帝が夢の中で、
天香山の社の中の土(はに)を取りて、天平瓮八十枚を造り、合わせて厳瓮を造りて
天神地神を敬い祀れ。また厳呪詛をせよ。如此せば、仇、自ずからに平き伏ひなん。
と「天神」からの教えを聞いたとされ、時代を経た崇神十年九月、謀反を企てた孝元帝の皇子・武埴安彦が、
妻の吾田媛を密かに遣わして倭の香山の土(はに)を取りて、領巾(ひれ)の頭に包みて祈みて曰さく
『これ、倭国の物実』と申した
ともあって、香具山の「土」そのものが大和では最も神聖で霊力のある存在だったのですから、橿原の軽の里一帯に広がる「赤土」に、もっと早くに注目すべきだったのですが、当時は蘇我氏と「軽」の関連ばかりを追いかけており、全く、迂闊であったとしか言いようがありません。(この武埴安彦たちの反乱を制圧した人物が開化帝の兄で四道将軍の一人・大彦命と、和邇臣の遠祖である彦国葺でした。大彦命は、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文にあるオオヒコに比定できるかも知れません。)
丸山古墳
植山古墳
植山、見瀬の陵墓が築かれた地に向き合うように軽境原宮(見瀬町、牟佐坐神社のあたり)を営んだとされる孝元帝と、河内青玉繁の娘・埴安媛との子供である武埴安彦(たけはにやすひこ)が『みかど』を傾けようと企てたとする一方、孝元の祖父に位置づけられている孝昭帝の孫・和邇日子押入命の娘・姥津媛が開化に嫁ぎ、子孫の彦国葺命が謀反を制圧し、和邇氏や春日氏、大宅氏の祖先となったという一連のお話は、誠に良く出来た筋書きのようにも思えますが、帝位は開化から崇神を経て垂仁帝に引き継がれ、日本書紀は興味深い出来事を幾つも記録しています。その詳細は『相撲の元祖は野見宿禰』に譲りますが、垂仁七年、大和当麻の勇士・蹴速との力比べで名を上げた「出雲国の勇士・野見宿禰」が、皇后・日葉酢姫命の逝去にあたって、
即ち、使者を遣わして、出雲国の土部(はじべ)壱百人を召しあげて、自ら土部等を使いて、埴(はに)を取り
人、馬および種々の物の形を造り……、是を埴輪、立物と名付けた
ので、野見宿禰を「土部(はじ)」の「職(つかさ)」に任じ、土部臣の姓が与えられたのです。大王たちに仕え「赤土」「埴」を以って葬送や祭祀の儀礼を専門に行う集団があり、先ず、和邇氏が「実力」で先任者の立場を勝ち取った「後から」出雲族とされる一団がヤマトに迎え入れられた様です。(大雑把に見れば、古墳時代には祭祀葬祭に関わる氏族が三つ[河内埴、大和和邇、出雲土師]存在していた訳です。これが方円墳の基本設計が三つのタイプに分類される事実に対応しているのか?興味深いところです)いささか煩雑になりますが、継体とのからみで話を続けると、彼の母親である振媛(ふるひめ)は埴輪を採用した垂仁の「七世の孫=磐衝別命の後裔」ですが、孝昭の次世代で一旦「孝安と天足彦国押入命」の二つに分かれた血統が、系譜上再度つながるのが開化と和邇氏の娘・姥津媛との婚姻なのです。そして更に重要な点は、
開化と姥津媛との間に産まれた彦坐王と、和邇氏の娘・袁祁都媛の息子が山代之大筒木真若王
その人であり、同王こそ息長足姫尊(神功皇后)、息長宿禰王親子の祖先なのですから、ここで和邇と息長の二つの血脈が合流し、継体が祖と仰ぐ応神朝が花開く道筋が出来上がるのです。また垂仁紀三十九年冬十月条の「一に云う」には和邇氏の別な一面が、次の様に記されています。
長男・五十瓊敷命は茅渟の菟砥の河上に住んでいた。河上という鍛名(かぬちな)を召して、太刀一千口を作らせた。
この時に楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部あわせて
十箇の品部をもて五十瓊敷皇子に賜う。その一千口の太刀をば、忍坂の邑に蔵む。而して後に、忍坂より移して
石上神宮に蔵む。この時に、神、乞して言はく『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』とのたまう。
因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首が始祖なり。
伝承の内容は改めて解説するまでもなく十品部の発生と「石上神宮」の縁起そのものに関わるものなのですが、ここに記録された「忍坂の邑」が、例の隅田八幡神社人物画像鏡(下・右の画像、WEBより)の銘文にある「意柴沙加宮(おしさかのみや)」に比定できるものであれば、上で見た二つの后妃氏族の関係が一層親密で強固なものであったと推測することも出来そうです。(「春日臣」は、市河の時代に和邇から姓を変えたもので和邇氏そのものです。また、市河を「物部」連ではなく「物部」首[おびと]の始祖と言っているのは、我々が良く知っている饒速日を祖先として主に軍事を司る「物部連」一族との区別を正史の編集者が意識していた証しかも知れません。何れにしても、神宮の祭祀が『太刀』という武器の収蔵から始まり、それが元々、忍坂[桜井市]にあったのだとする話振りには真実味が感じられます。何故なら、允恭の后となり雄略を産んだ忍坂大中姫は息長真若中比売の孫娘にあたるのですから。また良く知られた「伝承」では、神功皇后[息長足姫尊]が海外遠征から戻る途中、播磨国で待ち伏せていた先妻の子・忍熊王を撃退したのが和邇氏・春日氏の祖である武振熊命で、記紀では息長の最も頼りになる一族として描かれています)

石棺の朱
人物画像鏡
品部が実際に何時の頃から置かれるようになったのか、もう想像するしか無いのですが、時代が下り応神が大王となる直前の出来事の中に一つのヒントが隠されています。播州播磨は吉備と並んで、彼の母・息長足姫尊に関する言い伝えが多い地域として知られていますが「播磨風土記」印南郡、大国の里の条に、次のような一文が載せられています。
大国の里に山あり。名を伊保山という。帯中日子命(仲哀帝)を神に坐せて、
息長帯日女命、石作連大来を率いて、讃岐の国の羽若の石を求ぎたまいき。
つまり夫である仲哀の陵に使うための石材を「石作連」に命じて讃岐まで派遣したと言うのですが、書紀の神功皇后摂政前紀でも、応神の異母兄にあたる香坂王、忍熊王たちが「密かに謀って」、
偽りて天皇のために陵を作るまねにして、播磨に至りて山陵を赤石に興つ。
よりて船を編みて淡路嶋に渡して、その嶋の石を運びて造った
のだと明記しています。どちらの言い分が正しいのかは別にして「当時の」大王に仕えていた「石作」たちが播磨や讃岐に適材を求めていた事は確かなようで、この石作「連(むらじ)」が、有名な「竹取物語」の主人公・かぐや姫に無理難題をふっかけられる貴族の一人・石作皇子のモデルだとされる多治比真人嶋(624〜701)と「同祖」だとする通説もあるのですが、果たして本当なのか?播磨国風土記は重ねて「土師」弩美宿禰が出雲に向う途中病を得て亡くなり、出雲の国の人が墓の山を石で築いた所が「立野(竜野)」であると記しているが本当なのか!それに答える前に先ず、継体親子の妻たちの出自をひも解くことにしましょう。多くの「解説本」が継体大王たちの后妃については尾張氏と息長氏に関連付けて語り、それはそれで間違いではないのですが、継体・安閑・宣化三代の皇后の血統を軸にした別様の見方をすることも可能なのです。
良く知られているように「皇統」が正に途絶えようとする危機に際し、若くして亡くなった武烈帝の姉・手白香皇女を皇后に迎えて帝位を継いだのが継体で、彼の前・正妃であった尾張目子媛との息子である安閑・宣化も、同様に仁賢の娘である春日山田皇女、橘仲皇女を正妻に迎えています。安閑の妻が和邇氏の出身であることは、その名前(春日)からも明らかなのですが、実は手白香・橘仲皇女の母親が雄略帝と和邇臣深目の娘・童女君の間に出来た春日大娘皇女に他なりません。つまり欽明妃・糠子(春日日抓臣の娘)と敏達妃・老女子(春日臣仲君の娘)までを含めると、なんと五代にも亘って和邇氏は大王家に后妃を送り込んでいたのです。(武烈の妃・春日娘子を認めるとすれば六代になります)継体には更に和邇臣河内の娘の一人が輿入れしていることも含め、彼等には「大王の娘」であると同時に「和邇の娘」でもある皇女を皇后にする必要性があったのではないかとさえ思えるのです。(時間が前後しますが、応神・允恭にも、それぞれ二人の娘が和邇氏から嫁いでいます)
石作連に話しを戻しましょう。「新撰姓氏録」左京神別によれば、同氏は、
天火明命の六世孫で、垂仁帝の皇后・日葉酢媛命の石棺を作って献上したので、姓を石作大連公とされた
とあって、技術者の集団を管理していた一族のようですから、宣化帝から上殖葉皇子、十市王を経て左大臣の嶋につながる多治比(丹比)氏とは明らかに出自が異なります(但し、多治比氏が金属と深く関わったのは事実です)。それでは何故「石作」が多治比に関連付けて語られて来たのか?理由は二つありそうです。まず、延喜式によれば全国に六つある石作神社のうち四社が宣化帝の母親の出身地とされる尾張国内にあり、先に見たように石作連の太祖は天火明命ですから、河内多治井に鎮座する丹比神社の主祭神との一致から同族関係にあると見られたのではないか?二番目が、今回の主題となっている「赤土」「埴」との関わりです。つまり赤土に象徴される「朱(色)」は古代の大王たちにとって取り分け神聖で不可欠なモノだったのですが(葬送儀礼を司る和邇氏の存在価値もこの辺りにあった)、丹比氏の姓に含まれる「丹」の一字が「赤土、朱」を意味していることから「丹比」が正しい呼称であったにも関わらず「丹生」と混同され、先に引用した逸話とは別に伝わる、
爾保都比売命が、新羅へ遠征する息長帯日女命へ教えを垂れて赤土を与えた
と云う伝承も、二つの氏族を同祖とする「神話」を生み出す遠因となったのかも知れません。もっと単純に考えるなら、宣化と和邇族の皇女から産まれた娘の名が「石姫」「小石姫」だったので、後世の物知りが和邇・息長・丹比による「朱の輪」の中に火明命を祖とする石作連を一見それらしく紛れ込ませただけなのかも…。(息長も「朱」と考えるのは、彼等が古代において鉄を扱うことで大王家に貢献した一族であり、鉄を含む土砂もまた赤土であるからです。滋賀県の余呉町、米原町には丹生神社があり、その社家が息長丹生真人家であることも見逃せませんし、息長家の直接の祖先とも言われる迦邇米雷王を祀る社の名は朱智神社です)さて、長々と朱と赤土にまつわる御話しをしてきましたが、大王たち貴人が永遠の眠りにつく石の棺は最も貴重で神聖な朱で覆われました(上の画像参照)。朱(色)が人の体を構成している血液に酷似していることから、貴人たちは死後の世界で「永遠の命」を得たいと願ったのかも知れません。記紀の伝える様々な「物語り」を総合すると、埴輪作りや朱による葬送儀礼がヤマト独自のものではなく、石棺として使用される部材すらヤマト以外の場所から持ち込まれていた事が想像されます。目の前に二上山という格好の採石場がありながら、ヤマトの権力者たちが何故最も運搬が困難な石材を、わざわざ西日本そして九州から求めたのでしょう?。
丹比神社
朱智神社
築山古墳
考古学の分野では埴輪の起源を吉備地方で作られ始めた特殊器台、特殊壷に求め、方円墳という陵墓の「形式」も吉備が発生源だとする説もあるようです。吉備と言えば継体から始まり欽明・敏達に続く王家が盛んに「屯倉(直轄地)」を置き、影響力の拡大を狙って国の分割統治を積極的に進めた地域で、その尖兵となったのが蘇我氏一族でした。欽明16年(555)に置かれていた白猪の屯倉が同30年に拡張され、敏達3年(574)には大臣馬子自身が4カ月余りも滞在して「屯倉と田部」を増やしたと書紀が伝えていますが、ヤマト王権の圧力に吉備が完全に屈する頃、備前国邑久郡の地に一つの方円墳が築造されました。全長90mに及ぶ築山古墳の竪穴式石室に納められた棺は、馬門から持ち込まれた阿蘇ビンク石製の刳抜式家形石棺(上・右の画像、瀬戸内市教育委員会提供)だったのです。反乱を企てたとされる吉備稚媛(息子が星川皇子)を妻とした雄略(418〜479)が亡くなり、間もなく和邇と息長に支えられた継体の時代が始まります。
| 古墳の名前 | 所在地 | 形式 | 縄掛突起 | 大きさ | 築造年代 | 主な出来事 |
| 長持山古墳 | 藤井寺市 | 円墳 | 短0 長2 | 40m | 5世紀半ば | 451年 允恭が宋に遣を送り「安東将軍」の爵位を受ける |
| 築山古墳 | 瀬戸内市 | 方円墳 | 短0 長2 | 90m | 5世紀末〜 | 456年 ワカタケル雄略が即位する |
| 兜塚古墳 | 桜井市 | 方円墳 | 短0 長2 | 50m | 5C末〜6C | 463年 吉備下道臣田狭が反乱を起こす |
| 峯ケ塚古墳 | 羽曳野市 | 方円墳 | 不明 | 96m | 5世紀末〜 | 471年 稲荷山古墳の主が鉄剣を作らせた(辛亥年) |
| 野神古墳 | 奈良市 | 方円墳 | 短0 長2 | 50m | 5C末〜6C | 478年 倭王「武」雄略が宋に遣を送り「安東将軍」の爵位を受ける |
| 鑵子塚古墳 | 天理市 | 方円墳 | 不明 | 57m | 不明 | 507年 大伴連金村が男大迹王を大王に迎える |
| 慶運寺古墳 | 桜井市 | 不明 | 不明 | 不明 | 不明 | 512年 穂積臣押山を使者として百済に筑紫の馬40頭を贈る |
| 金屋ミロク | 桜井市 | 不明 | 短0 長2 | 不明 | 不明 | 527年 筑紫君磐井が反乱を起こし、翌年、物部氏により平定される |
| 東乗鞍古墳 | 天理市 | 方円墳 | 短0 長2 | 75m | 6世紀前半 | 528年 磐井の子・葛子が糟屋屯倉を献上する |
| 丸山古墳 | 野洲市 | 円墳 | 短1 長2 | 28m | 520〜530 | 530年 近江毛野が任那から帰国する途中、対馬で病死する |
| 今城塚古墳 | 高槻市 | 方円墳 | 不明 | 190m | 530年頃 | 531年 継体が死去、尾張氏の娘を母とする兄弟が大王の位を継ぐ |
| 甲山古墳 | 野洲市 | 円墳 | 短1 長2 | 30m | 550年頃 | 536年 宣化のもとで蘇我稲目が初めて大臣(おおおみ)に就任する |
| 植山古墳 | 橿原市 | 長方墳 | 短1 長2 | 40m | 6世紀後半 | 592年 推古が即位し、翌年「聖徳」太子を摂政に任じる |
上の表で示したものが平成21年1月現在で阿蘇ピンク石製のものと確認されている石棺が出土したとされる古墳と棺のデータです。慶運寺や金屋ミロクなど既に古墳そのものが無くなっているものもあり、築造年代については管理人の推測も多分に含まれていますから、そのつもりで参照してください。ただ、阿蘇ピンク石が近畿で初めて使用されたのは、大阪古市古墳群・市野山古墳の培塚とされる長持山古墳出土の2号棺(下・右の画像)で、その根拠は「棺身の途中から石の層が通常の凝灰岩からピンク石の層に変わっている」点にあり、その時期は「凡そ5世紀半ば」頃ではないかと考えられます。市野山古墳は「允恭天皇陵」に比定されており、築造場所が河内古市であること、彼の妻が息長系の忍坂大中姫であることなどから@土師A息長B和邇の三氏族と深く関わった可能性が濃厚ですが、米国ボストン美術館が現在所有している隅田八幡宮人物画像鏡の原鏡とされる一面が出土している点に注目すれば、忍坂大中姫の近親者と見ることも出来るでしょう。そして、表でも明らかな様に兜塚・野神・鑵子塚・慶運寺・金屋ミロクといった古墳が、いずれも桜井市・奈良市そして天理市という和邇氏・春日氏の本拠地に作られている事からも、阿蘇ピンク石と両氏族とのつながりが類推されます。では、瀬戸内市に作られた築山古墳は誰のものなのか?古墳のある長船は、かつて備前国邑久郡とよばれた鉄の産地として知られた地域で、吉備氏の「反乱」を実力で押さえ込んだヤマトの大王は、直接支配を実現するため己の息のかかった管理者を送り込んだはずです。それが「5世紀末」頃という時期に間に合うのかどうか微妙なところですが、時代がやや下った奈良時代になると、その邑久郡には「土師」「須恵」「宗我部」そして「石上」の「部」が置かれ、古墳は正に「須恵」の地に築かれているのです。(近くには金ヶ平、ナベ蓋、カジヤ林といった地名が多く残されています)ヤマトからの管理者にせよ或いは又、地元の実力者にせよ古墳の主が「鉄」と深く関わった人物であったことだけは確かなようです。
兜塚古墳
築山古墳 
次に、近江の地に築かれた丸山と甲山の被葬者は誰なのか?WEBで検索してみると「近江毛野臣」に軍配を上げる方が多いようですが、野洲という土地の名にこだわるのなら「古事記」にも記されている近淡海の「安」国造が有力な候補に上ります。記によれば安直(やす・あたい)の祖は彦坐王の子・水穂真若王ですから、系譜上、明らかに息長一族と関係のある家系であり、母方の息長水依比売は三上氏が祀る鍛冶神(天目一箇神)に連なるようですから「金属・朱」がらみ、更には、継体大王との擬似血縁がらみで、この石棺を用いたのではないかと思っています。また、この安国造は一説に日本武尊と水穂真若王の孫・布多遅比売との間に産まれた稲依別王を直接の祖としているとも伝えられていますので、そうすると神功の夫である仲哀帝とは「兄弟」が先祖ということになり、大王家を介して「金属・朱」関連氏族と親しい存在であったのは確実です。いずれにしても継体大王が自らの陵墓を築いている三嶋の目の前で、淀川沿いに巨大なピンク石の棺を運び込むことを「許されていた」のですから、大王(一族)にとって親しい存在であった人物の墓であると考えるべきでしょう。(科学的な分析結果を踏まえたものではありませんが、管理人は今城塚から出土した石と野洲の丸山古墳の石棺は馬門の同じ石切り場から切り出された物ではないか、また、九州から二つの石材は[同時に]近畿まで運ばれたのではないかと考えています)
ほぼ同じ時期(西暦530年頃)に作られた大阪高槻にある今城塚古墳は数次に亘る学術調査の結果「真の」継体陵ではないかと見られている大きな方円墳で、この陵墓は太田茶臼山古墳(5世紀前半)、市野山古墳(5世紀半ば)、誉田御廟山古墳(5世紀初め)などと同じ「設計」により築造された事実が明らかになっています。また彼の正妻が仁賢・春日大娘皇女の娘・手白香皇女であり、彼自身が息長の「血」を受け継いでいたのだとするなら、当然、上で見た「土師・息長・和邇」の朱連合が陵そのものの材料選びに大きな影響力を発揮したに違いありません。ただ、同墳から別の石棺材二つ(竜山石と二上山石)も見つかっていますから、被葬者が「三名」だったのかを含め、検討する課題が多く残されています。では峯ヶ塚古墳は誰のものか?実は、この竪穴式石室にあった石棺がどのようなものだったのか分かっていません。今城塚と同様、棺に使われたのではないかと思われる「石片」が幾つか発見されているに過ぎないのです。ただし、十数本にも及ぶ太刀を含めた副葬品から5世紀後半〜6世紀、厳密に言えば言えば470〜500年頃に造られた方円墳ではないかと判断されています。敢えて推測すれば、その築造場所が土師氏の本拠地に極めて近いことから、同氏の関与を見て取ることが出来るかも知れません。また、直ぐ東隣には日本武尊の墓とされる白鳥陵があり、墓域の辺りが「軽の里」と呼ばれていますから、一番簡単な「答」は、木梨軽皇子の墓になるのでしょうが、残念ながら時期が少しずれています。後は推理するしか無いのですが、真東に日本武尊の白鳥陵、北に仁賢陵そして南には清寧陵とされる大王墓が目白押しの土地柄を考慮すれば、息長の血筋の貴人を土師氏が埋葬したと考えるのが自然だと思います。
最後に残ったものが橿原の植山古墳です。この古墳は他のものと比べて多くの特徴を持っています。それは、
@ 円墳ではなく、方円墳でもなく方墳、正しくは長方墳であること。
A 貴人の「合葬墓」だとされるが、石室そのものが二つある双室墳であること(初めから西石室への追葬が計画されていた)
B 西石室は「扉」を用い、開閉できる様に設計されていること(更に、追葬や改葬が予定されていた?)
C 通常他の古墳で見られる盗掘の跡がないこと。それなのに石室の天井石が不明であること
D 東石室に残されていた石棺には、朱が塗られた形跡が全く無いこと。
E 東石室の石棺内に副葬品が全く残されていなかったこと。古墳全体でも副葬品が極少なかったこと。
F 蘇我氏の本拠地に近い五条野の地に築造されていること。
などの事柄です。結論から言うと、管理人は、この古墳に設えられた石室、石棺は誰のものでもないと考えるようになりました。棺の画像を最初に見た時の印象(使用した形跡がほとんど見られない)から、今回敢えて橿原市教育委員会の文化財課に確認したのですが、この石棺には『朱、ベンガラなどが全く塗られていなかった』のです。この一点だけを取っても東石室に「残された」石棺は、未使用のままで天井石を剥ぎ取られ、放置されたと考えるべきでしょう。また、すぐ西隣に造営された巨大な見瀬丸山古墳も「前方部に盛り土が無い」ことから、一旦築造が中断した後、陵墓として再利用されたのではないかという見方があることも理由の一つとして添えておきます。(同じ設計図によるものと推測されている河内大塚古墳も、前方部の盛り土を欠き、再利用したと考えられている)西石室の扉石が、すぐ近くの神社で「階段」の踏石に転用されているというのが事実なら、正に何をか況やではないでしょうか!貴族ではない、普通の人々でもご先祖の「墓」(に使われた)石を、日々、踏みつけては暮らさないと思うのですが、皆さんはどのようにお考えですか?!六世紀末、蘇我氏の地元で大きな異変が起きていたようです。
では最後に、阿蘇ピンク石がどうして石棺材として利用されたのか?極々、自然に考えれば良いと思います。石棺は最高の「儀礼」をもって朱やベンガラで全て塗装され石室に収められるのですから、熊本の馬門で「発見」された「赤い石」が吉備や近畿の「朱」を尊ぶ習俗に合致したことから埋葬用の資材として選ばれたもので、その「選定」にあたっては大王家に近い存在であった「息長・和邇(春日)」と専門の土木技術を持って王家に仕えた「土師」一族の意向が尊重されたのではないかと考えてはどうでしょう!と言うか、それ以上の理由が見当たらないのです…。
| 注意=このページに掲載している築山古墳石棺と兜塚古墳石棺、植山古墳の画像は、それぞれ瀬戸内市教育委員会および 桜井市教育委員会、橿原市教育委員会から提供されたもので、各委員会の許可なく転載することは出来ません。 |
次回は、名前を巡るメイ推理?をお届けしようと考えております。どうぞ、ご期待くださいませ。
(追考)平成23年春に峯ケ塚古墳の第12次調査が行われ、同古墳にあった刳り抜き方舟形石棺は色の異なる二種類の阿蘇溶結凝灰岩で構成されていた可能性が強まりました。これは、長持山古墳2号棺と全く同じ仕様と云えます。従って、築造年代も近く、被葬者についても近親者であったとする見方ができそうです。