吉備国と応神天皇そして稲背入彦命の系譜を考える                                    「サイトの歩き方」」も参照してください

岡山県岡山市北区に造山古墳があります。その全長は350メートルにも及び、勿論、県下随一の大きさを誇る前方後円墳なのですが、その築造年代は五世紀初め~五世紀前半と推定されています。全国でも四番目に大きい造山は、吉備地方の大豪族首長の墓だと考える研究者が多いのですが、その推定されている築造時期が正しければ、当時まだ大山古墳(486メートル)、誉田山古墳(425メートル)は河内和泉に築かれてはおらず、履中陵に比定される百舌鳥陵山古墳(365メートル、石津ケ丘古墳)との前後関係も微妙だとすれば、五世紀の初めに我が国で最大の方円墳が大和以外の地で造られていた可能性も否定できません。加えて築造時期が比較的接近していると考えられる造山と石津ケ丘の両古墳の平面設計が「ほぼ同じ」だという調査結果もあることから、吉備が大和朝廷の発展に果たした役割の大きさが想像されます。(方円墳には三つの基本形があるとされ、二つの墳墓はいずれも『Ⅱ型』に属しています。古墳の設計については『正しい古墳の造り方』を参照してください)

日本書紀が、神功皇后摂政五十二年秋七月条で採録した、

  久氐等、千熊長彦に従がいて詣り。則ち七枝刀一口・七子鏡一面、及び種々の重宝を献る。

の記事によって、西暦372年に鎮東将軍領楽浪太守となった百済国の肖古王から倭国王に「七枝刀」などが贈られた事が分かっていますが、当時、半島の政治情勢は必ずしも安定したものではなく、百済は倭国と結びつくことで新羅、高句麗などに対抗する政策を取っていました。要するに半島内での陣取り合戦主導権争いなのですが、崇神・垂仁・景行と比較的安定した政権基盤を大和中心に作り上げた倭国は、百済の求めに応じて西暦391年、399年の少なくとも二度出兵して同盟国を支援しますが、404年高句麗との戦いに敗れた倭国は半島での影響力を無くして行きます。そして、国内でも「政変」が起こり列島が震撼しました。それが応神帝の出現です。日本書紀や古事記は、神功皇后・応神親子が歴史上に登場する段取りを、

  ① 神功皇后が神から聞いた「神託」を、夫である仲哀帝が信用しなかった。(神は海の彼方に宝があると教えた)
  ② 神の言葉を信じなかったので、仲哀帝が突如亡くなられた。(神は神功のお腹の中に居る子供が宝を得るだろうと予祝した)
  ③ 神功皇后は身重の身体で半島遠征を行い、大きな戦果を収め九州にもどって応神帝を産んだ。
  ④ 仲哀帝の遺児、忍熊王と香坂王が謀反をたくらんだので、これを和邇氏、竹内宿祢などの協力を得て撃退した。

と構築し、応神が母親の胎内にある時から大王になるべき宿命を帯びていた(胎中天皇)のだと主張していますが、仲哀帝が亡くなった後、四世紀末から五世紀の初めにかけて出兵した大王は応神自身に他なりません。それを何故、神功による外征という筋書きに代えたのかについては、崇神・垂仁・景行・仲哀と続いた大王家の血筋が、応神の出現で変化したことを意味しているのだと考えられます。つまり下世話な言い方をすると『仲哀という父親は余り大した業績も残せなかったが、神功(息長)という母親は外国遠征も自ら行うほど優れた人物であり、応神は、その息子なのだから当然立派な大王になる』に違いないと言いたかった訳です(想像を逞しくすれば、神功のモデルになった皇后が実在したのかも知れません)。その栄光ある大王が吉備に巡行し、吉備臣一族に土地を分け与えた様子を、応神紀二十二年秋九月条が、

  時に、御友別参赴り。すなわち其の兄弟子孫を以て膳手として饗奉る。天皇(中略)、因りて吉備国を割きて、その子等に封さす。
  すなわち川嶋県を分ちて、長子稲速別に封さす。是、下道臣の始祖なり。次に上道県を以て、中子仲彦に封さす。是、上道臣・香屋臣の始祖なり。
  次に三野県を以て、弟彦に封さす。是、三野臣の始祖なり。また、波區芸県を以て、御友別が弟、鴨別に封さす。是、笠臣の始祖なり。

と詳しく書き留めています。確かに応神には御友別の妹・兄媛(えひめ)が妃として嫁いでいますが、それにしても「吉備の全てを一族に分け与える」とは何とも豪気なと思ってしまいますね。実は、同じ書紀自体が既に孝霊帝二年春二月条で、

  妃、倭国香媛(またの名は絚某姉)、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命(またの名、吉備津彦命)、倭迹迹稚屋姫命を生む。
  またの妃、絚某弟(はえいろど)、彦狭嶋命、稚武彦命を生む。弟、稚武彦命は、これ吉備臣の始祖なり。

と記述していますから、応神の時代より何世代も前から「吉備一族」は山陽道を中心とした広大な地盤を築き上げていたと考えられます。では何故、ここで応神による封土が語られねばならなかったのか?筆者は全く異なる「事情」が大和王権の方に存在していたのだと推理しています。その細かな分析は『応神帝の父親は稲背入彦命だったのか?』に譲りますが、結論だけを言えば、応神大王とは垂仁帝の皇女・阿邪美都比売命と彦人大江王(稲背入彦命、息長彦人大兄水城命)との間に産まれた息長系の王子だったのではないか、という点が推論の核心です。そして、彼の父、祖父のいずれもが吉備氏の娘を娶っていると考えられる事から、応神の大王位就任(現実には実力によって前帝の遺児を排除した)にあたっては、吉備一族の物心両面にわたる強力な後押しがあったのではないか?ほぼ、同時期に築造が進められていた大和朝の大王墓と「全く同じ規模」の方円墳築造(の許可)は、大王位を得た応神からの「プレゼント」ではなかったのか!と妄想しているのです(如何に地方とはいえ、大王を上回る規模の墳墓は有り得ません。また、この後、吉備は度々『反乱』を起こして国時代も分割統治されることになりますが、応神を大王位に就けた実績=驕りがその遠因となったのではないでしょうか。つまり、吉備が、その気にさえなれば、いつでも大和の大王を入れ替えることが可能なのだと…)。

西殿塚古墳(Ⅱ型)  箸墓古墳(Ⅱ型) 

阿蘇ピンク石(今城塚古墳出土)   PR

吉備が大和朝の発展に寄与した物的証拠が近年の纏向遺跡発掘調査によって次第に明らかになってきましたが、考古学の分野でも吉備が前方後円墳という陵墓の発生そのものに深く関与していたのではないかとする見方が有力です。先に、方円墳には「三種類の平面設計」があったと書きましたが、実は、大和で最も時期的に早い築造と見られている纏向ちかくの箸墓、そして西殿塚古墳(衾田陵)は何れも「Ⅱ型」の設計によって造られたものと見られていますが、吉備地方で造られた大型古墳は備前の両宮山古墳を除いて「すべてⅡ型」の要件を満たしていると言われます。これを偶然の産物だと考える人はいないと思いますが、最も古い古墳から円筒形ハニワの基になった「吉備の特殊器台と特殊壺」が出土していることと合わせて、王権の象徴作りが吉備主導で進められた可能性を強く感じさせます。各古墳築造の実年代を確定することは非常に困難ですが、筆者は「Ⅲ型」の第一号である巣山古墳(全長204メートル)が四世紀末頃に造られたのであれば、応神帝の大和平定が新たな形式の古墳を生み出したと考えても良いと思います。(国が継体大王の陵墓だとしている太田茶臼山古墳と、真の継体陵ではないかと見られている今城塚古墳そして応神陵に比定される誉田御廟山古墳は、いずれもⅢ型に属しています)

応神・息長一族と九州肥(火)国の深い縁については『火の国と兵主大神』などのページで詳しく紹介してきましたが、その中でも繰り返し取り上げてきた九州馬門地方の石材(阿蘇ピンク石)も吉備と大和そして九州をつなぐ重要な資料です。岡山埋蔵文化財センターの係員は筆者の取材に対して『科学的な分析は未だ済ませていませんが』と前置きしながら『石材を良く知る現地の方も肯定されていますので、馬門石で間違いないと思います』と説明してくれたのが、冒頭で紹介した造山古墳前方部出土と伝えられてきた刳り抜き式長持型石棺(上・右CG画像参照)そのものです。風化が進んで痛みも激しいのですが、その身の小口部分には「直弧紋」がかすかに浮かんで見えるそうです。また、造山古墳の倍塚5号墳(千足古墳)には、明らかに九州系のレリーフが刻まれた障壁があって、被葬者と九州との浅からぬ関わりを示しています。巨大な前方後円墳と阿蘇溶結凝灰岩製の石棺の組合せは何となく市野山古墳(允恭陵、227メートル、Ⅲ型)と長持山石棺を想起させますが、時期的には吉備の造山が先行していたことになります。初期大和朝の流れをごく大雑把にまとめると、

  ① 崇神、垂仁帝が三輪山周辺の磯城を中心とした都作りを行い、忍坂に武器集積庫を設置、皇子クラスの管理者が常駐した(四世紀初め~中ごろ)。
  ② 垂仁の時代に、新しい技術を持った様々な集団が大和に入った。天日槍(矛)伝説はその典型を示したもので、九州に本貫を持つ稲背入彦命も時代の魁として
     大王に才能を認められ、娘婿として大和朝の一員に加わる。
  ③ 垂仁の跡を継いで大王となった景行は、吉備との連携を強め皇后も吉備氏から迎えた。ヤマトタケル伝説は景行朝における全国的な勢力拡大を示唆している。
     景行は晩年、稲背入彦命の勧めもあってか、新たな武器生産拠点作りを目指して近江に遷都、成務も近江を離れず大和には徐々に「空白」が生じていた(四世紀後半)。
     半島での勢力維持拡大を目指していた百済が「七枝刀」などの宝物を贈り、倭国の派兵を頻りに求める(西暦372年)
  ④ 大和朝での存在感を強めた稲背入彦命(大江王)は、娘の大中姫を仲哀の皇后として輿入れさせていたが、皇后は二人の王子を残して早世。
     仲哀は、恐らく百済の要請を受けて援軍を送り込むため自ら九州に出陣、これを記紀は「熊襲の反乱」というモチーフ筋書きに変換し編集した。
     大王の九州遠征の間、大和朝の留守役を任されていたのが稲背入彦命の子?ホムタワケたちであったが、仲哀は半島において顕著な実績を残せなかった。

の様に成りますが、応神親子が「九州から大和へ」やって来たという伝承を重視するなら、半島応援のため地元九州に派遣され兵団の監督を任されていたのがホムタワケ自身であった可能性もあります。遠征の途中で仲哀帝の死を知り、大和に帰還する途上で香坂王・忍熊王(を擁する勢力)たちが実力による応神の排除を考えている事態に直面、かねてから父親の後ろ盾でもあった吉備一族の全面協力を取り付けて大和に攻め上った、とする方が流れとしても納得しやすいでしょう。二人の王子が、

  すなわち詳りて天皇の為に陵を作るまねにして、播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。よりて船を編みて淡路嶋に渡して、その嶋の石を運びて造

ったと云う書紀の書き振りに妙に真実味があるのは当時の陵墓造営の姿を引き写しているからなのかも知れませんが、大古墳の築造と神々の祭祀そのものの大元が「吉備」から移入されたものであるのなら、吉備一族のルーツが孝安・孝霊帝と磯城氏にあるという伝承は、もっと研究されるべき課題である様に思えます。神武帝が大和に上る前、吉備に数年留まったと記紀にはあります。そして、速吸門(ハヤスイノト、児島湾付近?)で出会った珍彦命(ウズヒコ)に水先案内をさせて更に東へ進みました。この珍彦(宇豆毘古)は倭国造の祖先であり磯城氏とは直接関係ありませんが、神武と共に大和に入り勢力を伸ばしたのであれば、吉備出身の実力者が『崇神朝が誕生する前』から既にヤマト内部に勢力圏を築き上げていた証左になりそうです。「ハツクニシラス」と諡された崇神でしたが、書紀は垂仁紀二十五年三月条の「一云」で、

  しかるに先の皇、御間城天皇、神祇を祭祀りたまうといえども、微細しくは未だ其の根源を探りたまわずして、粗に枝葉に留めたまえり。

と酷評し、彼の治世の初期、国中に疫病がはびこるなど「神々の祟り」に見舞われています。崇神前にも大きな変動が起きていたと考えて良さそうですが『倭成す、大物主』を祭る主となった大田田根子は勿論、事代主命直系の後裔ですから磯城氏とも極近い関係にあったはずです。記紀の書き振りを見る限り、大王家とオオモノヌシ一族との間で深刻な確執があったと想像できるのですが、両陣営の間では頻繁に血の交流(婚姻)が存在した記録が残されています。まだまだ歴史の闇には底知れぬものがあります。

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