吉備の国と、そして鍛冶                                   サイトの歩き方」も参照してください

天下分け目の関が原から十年余り、徳川幕府による全国支配が進む中、西国のとある小島で伝説が生まれようとしていた。豊前・細川家の剣術指南を務めていた巌流・佐々木小次郎(ささき・こじろう,?〜1612)と、遅れてやってきた「剣豪」宮本武蔵(みやもと・むさし,1584?〜1645)の二人は慶長十七年四月十三日、山口県下関市にある無人島(船島)において決闘に及んだ。小次郎が燕の飛ぶ様から編み出した?と言う秘剣が、一体どのようなものであったのか、もう知る術はないが、情報の収集が兵法の基本であるとすれば、武蔵は彼の愛用した刀が尋常のものより相当長いものであることを事前に調べていただろう。そして、小次郎の『物干し竿』(刃渡り三尺一寸、約94センチ)より、更に数十センチ長く堅い木刀を自らしつらえた。伝記、小説などでは実に様々な「場面」「駆け引き」「背景」などが、さも見てきた様に語られるが、修行を積み日々鍛錬を重ねていた長身(六尺、180センチ)で若い(28歳)武蔵が、小次郎より「長い」得物を持った時点で勝負はついていた…、と思います。(江戸時代を通して日本人男子の平均身長は155〜158センチでした)

 錦絵に描かれた武蔵    武蔵の二刀流

時代が少し遡りますが、そして本来「個人戦」ではなく国単位の「団体戦」にもかかわらず、親分同士の一騎打ちの様に語り継がれた「名勝負」がありました。室町幕府「最後の関東管領」越後の雄・上杉謙信(うえすぎ・けんしん,1530〜1578、謙信は法号で、元々の名前は長尾景虎)と甲斐の武田信玄(たけだ・しんげん,1521〜1573)が数度に亘り対決した『川中島の戦い』がそれで、江戸の歌舞伎芝居などにも荒々しい武人をテーマにした作品として度々取り上げられ、庶民の人気を博したものです。さて、二組四人の「その後」は小説などで堪能して頂くとして、武蔵の好敵手であった小次郎、そして歴史小説などには必ずと言って良いほど登場する越後の上杉謙信、さらには歌舞伎の『忠臣蔵』でもお馴染みの播州赤穂、浅野家家老・大石内蔵助(おおいし・くらのすけ,1659〜1703)の三人には「共通」する事柄があります。果たして、それは何でしょう?今回の謎々は、冒頭にある「見出しの文言」が大きなヒントになっているので、時代劇ファン?或いは古物収集に興味のある方なら、もうお分かりになったかも知れませんね。

上杉謙信 討入り  大石内蔵助 武田信玄

まだ長尾姓を名乗っていた頃の「謙信」については、小説家・半村良(はんむら・りょう,1933〜2002)の『戦国自衛隊』(1971年、SFマガジン初出)が二度にわたり映画化されたことからご存知の方も多いのではと思いますが、埼玉県にある県立歴史と民族の博物館は、国宝にも指定されている下左の画像の刀を収蔵しています。この短刀の銘を見ると「備前長船住景光」とあります。これは、備前国の長船に住む景光という刀工が元亨三年(1323)に鍛えた名品で、謙信の愛刀であったと伝えられる物なのですが、この長船景光の作とされる名刀(国宝)が東京国立博物館にも一振りあります。それが、かつて楠正成(くすのき・まさしげ,1294〜1336)が所持していたと謂われる小龍景光で、維新後には明治帝の佩刀でもあったとか…。と言うことで歴史に名を留めた多くの武将たちが、こぞって所有していた刀が「備前物」中でも長船派の刀工たちの手になる逸品だったのです。因みに、佐々木小次郎の長い刀は景光の父・長光の作、大石内蔵助の差し料は備前長船清光でした。では、何故、備前では刀鍛冶の名人を輩出したのでしょう?

謙信景光 小龍景光

古今和歌集」の1,082番(本歌 大王の 三笠の山に 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ 「万葉集」巻七)に、

  真金ふく 吉備の中山 帯にせる  細谷川の 音のさやけさ

と在るように古くから吉備は鉄の「名産地」として知られており、飛鳥から奈良時代にかけて「鉄と鍬」を税の代用として都に納めていたのは備前、備中、備後と美作の四カ国だけだったのです。その吉備の国で鉄の生産が盛んに行われるようになったのは「六世紀後半」に入ってからだとされ、岡山県古代吉備文化財センターの調べによれば、鉄鉱石を原料とした製鉄が備中の総社市(千引かなくろ谷遺跡など)を中心にして発達したようで、吉備全体の製鉄遺跡は三十箇所、製鉄炉跡も百基以上が発掘されているそうです。

欽明23年(562)、お隣の半島では新羅が南部の加那諸国を併合(任那の滅亡)、大和朝廷は半島での権益の全てを失います。磐井の乱(527)の記憶は、まだ中央政府要人たちの間で生々しいものだったはずで、地方勢力の統制は重要性を帯びていました。時間が少し前後しますが、同16年七月に吉備の白猪に屯倉(直轄領)を置き、翌17年七月には児島に屯倉を設置したのも、吉備が有する「鉄」の開発と管理を目指した動きであったと考えることも出来るでしょう。そして、どうやら地方、特に吉備国に深い関心を寄せていたのが蘇我氏一族だったと思われます。宣化帝のもとで初めて「大臣」に抜擢された蘇我稲目(そが・いなめ,506?〜570)は、正に、その宣化元年(536)に、

  食は天下の本である。黄金が満貫あっても飢えを癒すことは出来ない。
  真珠が千箱あっても、凍える人々を救うことは出来ない。

と「天皇」の名で殖産(イコール、農作物の増産)の大号令を発していますが、農業の振興に最も必要な道具が「鉄製の農具」であったことは明白で、稲目が吉備に屯倉を次々と設営したのも、鉄器具生産の技術集団を送り込むための布石だったのかも知れません。また、殊更言うまでもありませんが当時「鉄」が「武器」と同意語であったことも事実です。代が変わった敏達三年(574)十月、大臣蘇我馬子(そが・うまこ,551?〜626)は自ら吉備に入り白猪の屯倉と田部(農民)を拡張増員し、その成果を見届けるため半年もの間、現地にとどまりました。蘇我氏が短期間に実力を蓄えることを可能にした背景の一つが見えてくるようです。ただ、日本書紀が悪の権化のようにこきおろし、権勢をほしいままにしたと言われている蘇我氏ですが、吉備四国の中に「宗我部」として存在した所有民(「部曲」かきべ)は備前・邑久郡に1箇所しかありませんでした。欽明天皇という人は、まだ即位する前の幼い頃(つまり父・継体帝の御世)に「秦大津父」を登用すれば「必ず天下を巧く治めることが出来る」という夢を見、彼を探し出して実際に役人として重用したと伝えられる帝ですが、蘇我氏の台頭も継体・宣化そして欽明と続く「人材登用」(技術の導入を含めて)の流れに沿ったものだったと想像出来ます。

美作国の設置は「砂鉄」支配が目的だったのか?

西暦713年、備前の北部にあった六つの郡を割いて新たに「美作(みまさか)国」が設置されますが、そこには政治的な思惑が見え隠れします。この地域は南部と異なり花崗岩地帯で、砂鉄は花崗岩の風化残留物であることから美作では備前とは違い、砂鉄を原料とした製鉄が行われます(恐らく備前とは異なる技術集団が指導したのではないでしょうか?)。そして「真金ふく」とjまで歌われた備前では原材料の鉄鉱石を確保すること自体が難しくなり、鉄による納税を継続できなくなったのです。平安京への遷都から三年後、延暦十五年(796)都の官僚宛に出された記録によれば、

  備前では、今や鉄を産出しない。今後、鉄での納税を止めたい。これからは糸を献上する。

方針に大転換を余儀なくされてしまいます。『播磨国風土記』讃容郡の記述によれば、

  鹿庭山の四面に十二の谷あり。みな鉄(まがね)を生す
  難波の豊前の朝廷に初めてたてまつりき。
   見あらわしし人は別部の犬、その孫等奉り初めき。

とあって、美作の東に隣接する讃容で「鉄(砂鉄)」を発見して「難波の豊前の朝廷(孝徳天皇,596〜654)」に献上した者が、備前国和気郡磐梨を本拠とする和気氏の部民であったことも分かっていますが、一世紀半にわたる繁栄の後、備前の鉄は終焉を迎えざるを得なかったようです。ただ、何世代にも亘って培われ蓄積された「製鉄」に関わる技能(者の集団)は、支配層の変質という外部的な環境の変化によって蘇る機会を与えられます。それが武士階級の台頭、武器としての刀需要の急増でした。現存する日本刀の大半、四割以上が「備前物」なのですが、伝統に支えられた備前「長船」の刀鍛冶は鎌倉時代中頃から室町時代まで後世に名を留める名工を輩出したのです。

美作国の新設を遡ること五年、宣化帝の後裔(火焔皇子、額田鏡王の子孫)とされる猪名真人(まひと)石前に代わって備前国司に任じられていた人物の名を百済王南典(くだらのこにきし・なんてん,666〜758)と言います。そして同じ年、備中の国司となって赴任していたのが多治比真人吉備でした。二人の姓名は、このオノコロ・シリーズの読者にとって、とても馴染み深いもののはずですね。大仏様のための「」、貨幣鋳造のための「銅」そして、農業振興の大本の「鉄」、いずれの金属のお話を進める時も、彼ら一族の存在を抜きにしては何一つ語れないようです。同じ和銅元年の九月三十日、多治比家の一員である従四位下の池守(たじひ・いけもり,?〜730)が平城京の造営長官を拝命しています。

       
     
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