狂歌師と蔦屋耕書堂金鶏伝説                               「サイトの歩き方」も参照してください。

田沼政治が、いよいよ終わりを迎えようとしていた天明六年、一人の男が大田南畝(1749〜1823)の居宅を訪れました。双方に面識がある江戸の版元の紹介文によれば、彼は駿河の地で手広く商いをしており、酒屋も開いているらしい。今日はお供の二人に大きな酒樽を大八車に乗せて態々目立つように曳かせてきている、勿論、酒は上方からの下りものであった。型通りの挨拶を済ませると男は懐から一冊の本を取り出し、徐に切り出した。『わたくし、この齢になるまで商いにかまけて、物の本を読むことさえ稀でした。ところが、先年この書に出会い、歌というものの楽しみを知ることが出来ました』通称を吉野七兵衛と云った彼が持っていたのは、南畝が朱楽菅江たちと数年前に刊行した「萬歳狂歌集」の一冊で、謂わば狂歌のお手本集、その道のバイブルのようなものだった。何だか物語風の書き出しになってしまいましたが、今回の内容はフィクションではありません、以前、天明期の狂歌を取り上げた際に触れた、洒楽斎と名乗った狂歌師に関する新しい情報を幾つか見つけたので、その続編のような物を書いてみます。

写楽よりも著名な浮世絵師の一人である喜多川歌麿(1753~1806)は天明期から寛政初めにかけての間、蔦屋を版元にした狂歌絵本を幾つも描いていますが、天明六年にも『三保の松原道中』と名付けた作品を刊行しています。そこには裕福そうな男女が、多くの女性たちを伴いながら籠に乗り優雅な旅を楽しんでいる風景が繊細な筆使いで見事に描かれているのですが、作中に詞書を寄せた一人が大田南畝その人で、次のような詞が記されています(下の画像参照)。江戸の後期になると今井似関(1657~1723)が駿河風土記逸文として採択した「三保松原」の羽衣伝説が、東遊の駿河舞の起源であるとする説話が広く市井にも浸透していたようで、南畝はその故事を踏まえて吉野家たちの道中に華を添えたらしい。

  天の羽衣いくかへり 駿河の国にすみさけを 楽とかいへる やどりのあるじ 瀧麿ぬしをことふきて
  羽衣の酒をたのしむ され歌は あづまあそひ(吾妻遊)の するかまい(駿河舞)かも

 『本朝神社考五』風土記を案ずるに、古老伝えて言はく、昔、神女あり。天より降り来て、羽衣を松の枝にさらしき。漁人、拾い得て見るに、その軽く柔らかきこと言ふべからず。 所謂六銖の衣か、織女の機中の物か。神女乞へども、漁人あたへず。神女、天に上らんと欲へども羽衣なし。ここに遂に漁人と夫婦になりぬ。[今井似関による解説文]

  三保の松原道中  「虫えらみ」より

「人穴」の酒楽  「よしのや洒楽」  金鶏の図

南畝に続けて詞書を入れているのが「つむり光(狂歌四天王の一人、別号・桑陽庵、寛政八年没)」で、彼も『珠流河二丁町 洒楽斎のあるじ わが大人の門に入りて』の文言で絵を飾っていることから、江戸文芸の研究者たちは、この作品を吉野七兵衛(狂名・洒楽斎瀧麿、吉野家洒楽とも号する。寛政十年没)が、天明六年頃に大田南畝の門人となった事を記念して、南畝が蔦屋に注文して拵えた誂えもの(入銀物)だと云うことのようですが、恐らく駿河地方でそれなりの「成功」を収めていた吉野家が、入門と引き換えに多額の束脩(謝礼)を南畝に贈った返礼ではないかと思われます。それから二年後、蔦屋は歌麿の画を駆使し『画本虫撰(むしえらみ)』を発売、その絵本の中の「蛍」を受け持っていたのが洒楽斎であったことは既に見てきた通りです。そして同じ天明八年、人気戯作者の山東京伝が洒楽斎瀧麿を主人公にした黄表紙『吉野家酒楽』を蔦屋から刊行しています(筆者は未見)。さらに京伝は同じ年に出した『富士人穴見物』で、主人公の仁田四郎の案内人として作中に「駿河町の酒楽」を登場させてもいるのです。商売上手の蔦屋が、ここまで酒楽を「持ち上げ」ている事から、吉野家自身が蔦屋にも資金(出版費用)を出していた可能性が高いと思えるのですが、確かな資料を見つけ出すことが出来ませんでした。そして異例の特別待遇は未だ続きます。翌天明九年(寛政元年)京伝は『嗚呼奇々羅金鶏』という黄表紙を歌麿の挿絵入りで発表しますが、その主人公が上方から江戸に旅する途中で立ち寄った先が、又しても「駿河二丁町、よしのや洒楽」の邸宅に設定されていたのです。この作品は角書にも「淀屋宝物東都名物」(東都見物とする資料もある)とある通り、宝永二年(1705)幕府が全ての財産を没収した浪速の豪商・淀屋辰五郎の「宝物」であったとされる「黄金の鶏」を題材にした読み物で、京伝は最終ページ(上右の画像)で続編の刊行まで予告しています。それが三庄(山椒)太夫と三女・鶏女の因縁話を骨格にした読み物で、歌麿の挿絵をそっくりそのまま利用しており、よしのや酒楽の名は姿を見せていません。そして京伝は同じ寛政元年、自らが別の作者の作品に描いた挿絵を幕府に咎められ過料処分(罰金刑)を受けてもいます。「改革」を進めようとする幕府は、読み物・挿絵などが持つ「民衆への影響力(風刺と批判)」に大きな関心を寄せるようになっていたのです。蔦屋も京伝も幕府、奉行所の監視対象となっていたことは明らかでした。この頁の主題には、続きがあります。

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