正しい?金鉱の探し方                                                 サイトの歩き方」も参照してください

昔むかし、天高原という国の尊い家に生まれ、その将来を親から嘱望され広い海原の統治を命じられたにもかかわらず、少なからずママ・コンの気質があったことに加え、美人?で才媛の誉れ高い姉に対する妙な対抗心が旺盛であったことが災いし、任地へ赴くどころか姉の領地や使用人宅で乱暴狼藉の限りをつくすという大失態を演じたため、国中の神様たちから総スカンを喰らい、人間の世界に追放されたスサノオ。降り立った所は何故か出雲国、肥河(斐伊川)の鳥髪(今の奥出雲町鳥上)という場所でした。暫く呆然と周囲の景色を眺めておられたミコトでしたが、そこは偉いカミサマのこと、直ぐに気を取り直され、

  川上から流れてきた箸

を目敏く見つけられると『ははーん、この上には誰か人が住んでいるな』と鋭く推理、川伝いに上流を目指して歩いたミコトが、泣き崩れている老夫婦(足名椎命、手名椎命)と娘(櫛稲田姫命)に出会うまで、そんなに時間はかかりませんでした。縷々、身の上話を聞き、腕には覚えのあるミコトが、姫を「お嫁さん」に貰い受ける条件で、悪い「ヤマタノオロチ」を退治したのが有名な『出雲神話』のとっかかりなのですが、今回の主題ではありません。大昔の神様たちが活躍しておられた時代のことは、正に想像を絶するばかりで茫洋としていますが、それ程大昔ではなく、千数百年あるいは二千年近く前の事であれば少しは想像を逞しくして妄想出来るかも知れません。

須佐神社 三嶋鴨神社

このオノコロ・シリーズでは先に大阪・高槻市にある三島鴨神社というお社に纏わるお話を紹介してきましたが、この川中に出来た「洲」のような場所に大山積神が最初に祀られたのは仁徳天皇(?〜399)朝の頃(四世紀後半)だとされています。

  御嶋、います神の御名は大山積の神。又の名は、和多志(わたし)の大神なり。
  この神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇(仁徳)の御世にあらわれましき。
  この神、百済の国より渡り来まして、津の国の御嶋(三嶋)にいましき

と『伊予国風土記』逸文にある訳ですが、上のスサノオとの関連で蛇足を付け加えるなら、ここで三嶋の大山積神(おおやまつみのかみ)と呼ばれている渡来の神様こそ、ミコトが出雲で出会った足名椎・手名椎両神の親神に他なりません。また、この大山積という神様には神大市姫(スサノオの妻で大年神の母)、木花開耶姫(天孫ニニギの妻)という二人の娘があり、アマテラス・スサノオ両系統の外戚だったことが分かっています。其れはさておき、高句麗「広開土王碑」(391年)の碑文を見るまでもなく、四世末から五世紀初頭の半島情勢は動乱の時期そのものだったと言えるのですが、相次ぐ戦火が半島からの移住者、渡来者たちの背中を無言で押し「未開」の土地へ彼らを誘う一因となったことは言うまでもありません。

瀬戸内の海を何艘かの船団を組み、若しかしたら水先案内人と通訳も従えて嶋伝い、入り江伝いに進んできた人々に明確な目的意識があったとしたらどうでしょう。勿論、その「目的」の大元は一族郎党が皆揃って安全に暮らせる場所(土地と食糧)の確保にあるのですが、水が豊富で耕作も容易な海辺の平野、扇状地周辺には必ず先住民が多く暮らしていたに違いありません。では、どうするのか?ミコトが、かつて試したように、船を着けた入り江の住民には何か彼らの喜ぶ品物を与えて「上陸」の許可を貰い、先住民たちの集落に割り込んで「住む」意思の無いことを伝えた後、新たに渡来した人々は更に「川上」を目指したことでしょう。そして、彼らが「上陸地」としての場所を決定するためには幾つかの条件があったように思えるのです。俗に試験を前にして出題を予想することを『ヤマを張る』と言い、明確な根拠もなく予測する行為を『ヤマ感に頼る』などと言いますが、この「ヤマ」は、大山積神の「山」に他なりません。昔むかし大海原の彼方から遥々と「渡って」来られた神々だけでなく、新天地を求めて渡来した人々も眼前に、あるいは遥か彼方に聳える「山々」を目印に船を進め(『ヤマを立てる』)己たちのたどり着くべき港の正確な位置を求めたのです。

更に彼らには、もっと切実な願望がありました。既に平野部の土地には元々の住民たちと古い時代に渡来した人々が強固な生活圏を営んでおり、少数の新参者には彼らを実力で排除するだけの「能力」に欠けています。上流の、或いは山間部の原野を開拓するには、どうしても「」の器具が不可欠なのです。そして又、彼らの集団には故郷で「鉄」に関わってきた経験者・技術者が少なからず含まれていたと考えられるのです。(大山積神に関連付けて想像すれば、四世紀末から五世紀にかけての畿内王朝が土木・航海・治水の技術に限って先進地域であった半島・大陸から人材を招請したと考えるのは不自然で、あらゆる分野の技術者集団と、それらの人々を管理統率出来る実力者を招きいれたと考えるのが自然でしょう。また、鉄の先進国であった半島では製鉄のために森林が破壊され、新たな土地が求められていたとする考え方が古くからあります)専門的な知識がありませんから、全くの想像に過ぎませんが、河口部に沈殿した土砂などの「分析」から、ある程度「鉄」が採取できそうな「ヤマ」を、彼らは見つけることが出来たのでは…、と思います。

1981年、鹿児島県で「発見」された菱刈鉱床は鉄ではなく世界有数の「金」鉱床で、その埋蔵量は約250トンと推定されていますが、これを見つけた当時の金属鉱業事業団(現在の石油天然ガス金属鉱物資源機構、JOGMEC)では1987年から植物を用いた「植物地化学探査」を行ってきており、その広報HP上でも、

  植物地化学探査ではヤブムラサキが金鉱床指示植物として有効

であると明言しています。この「金山草」(カナヤマシダ、Athyrin yokoscense)とも呼ばれるイワデシダ科の植物は研究の結果「葉の部分に多くの金を含有する」特性を持っていることから『土壌を分析』するよりも広範囲に金鉱脈の存在を窺い知ることが容易である特異なもので、古代の金狩人も経験則として利用していた可能性があります。また、秋田県立大学の服部浩之氏によれば、

  シダ科のヘビノネゴザは重金属濃度の高い鉱山近くの土壌に優占して生育することから、
  古くから金属鉱床を探すための指標植物として利用されてきた(「秋田魁新報」H18.5.15朝刊掲載)

ことが知られており、これも銅や鉛の鉱床探索の目安になっていた事は間違いありません。ただ、この植物と金との関連性については、国立環境研究所の中嶋信美氏から、管理人の問いかけに対して、

  鉱脈近くに繁茂する植物としてヘビノネゴザというシダ植物が古くから知られていますが(中略)、
  残念なことに、ヘビノネゴザオが育成しているからといって必ず金の鉱脈が近くにあるわけでなく、
  可能性がやや高いといった程度のものです。

との回答を頂きましたので、旧事業団の言う「有効」性を、どのように経験則などに照らして、より「高い可能性」につなげて行くのかは、やはり数多くの「ヤマ」を渡り歩いた男達が身に着けた独特の「カン」に頼らざるを得ない部分(秘伝)があったと考えた方が良いようです。ところで再びスサノオのミコトに話を戻しますが、尊には出雲の地を「娘ムコ」のオオクニヌシに任せたとされる一方、出雲の地にも元々は息子(イソタケル)と一緒に植林事業を進めるために降臨したという言い伝え(『日本書紀』)があり、日本の国では神々も大昔から森林資源に関心が深かったことが分かります。(下の植物は荒木秀登さんの撮影した画像です)

 彼方から訪れる神  ヘビノネゴザ 秘伝書? PR

ここからは恒例のオマケ話に移ります。大陸の大国へ使いを送り有名な上表文を残した「倭の王」は第21代雄略天皇(418〜479)ではないかとする説がありますが、神話世界で「異国の怪物(実力者?)」を実力で排除して親神さまの娘に婿入りすることを果たしたスサノオのミコト同様に、ヤマト朝廷の中継ぎ役として「越の国」から迎え入れられた大王が居ました。その大王の名を「男大迹(おおど)王」と言い漢風諡号を「継体」帝とおくり名された人物なのですが、彼は系譜上、応神天皇の五世孫に位置づけられています。また、皇位という面から見ると継体は雄略の「五代」後のミカドに当たります。ここで、良く錯覚してしまうのですが、当時、つまり四世紀から五世紀にかけての間、皇位は親子間で直系にだけ継承されるのではなく、兄弟の間で順送りに引き継がれるケースも多かったので「五代」後の天皇が、イコールで「五代」後の「世代」に属する存在では決して無いのです。

埼玉県行田市の稲荷山古墳と、熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した鉄剣・鉄刀の銘文にある「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」つまり雄略の生年を記紀等の言うように西暦418年だとすると、その「五代」後、第26代の大王となった継体帝の生年は一体「何年」だと皆さんは推理しますか?「五代」も後なのだから、二人の生まれた年の差は少なくとも数十年以上あるだろう−−、そう想い勝ちですが、実はそうではありません。彼が生まれた年は西暦450年であり、第23代顕宗帝と同い年、雄略が宋に使者を送り「六国諸軍事安東大将軍」倭王の称号をもらった時は、既に三十歳近い立派な成人だったのです。

石棺模型  復元された埴輪

オオドのミコトは、時の大連で実力者の大伴金村を筆頭に、物部大連や許勢大臣など有力豪族が皆揃って『次の大王には、この人しか居ない(枝孫を詳しくえらぶに、賢者はただし男大迹王ならくのみ)』と判断して越の国から態々手白香皇女(仁賢天皇の娘)のお婿さんに迎えたはずなのに、中々、ヤマト国の中心部に都を営むことが出来ず、その陵墓も妻や子供たちとは異なり摂津三島に、まるで「島流し」のように孤立して造営されたのです。その継体帝の墓と推定されている摂津高槻市の今城塚古墳からは九州阿蘇で産出されるビンク石(上・左の画像)が調査時に見つかっています。古代五〜六世紀の大阪淀川周辺と、遠く離れた阿蘇の地に、どのような結びつきがあったのでしょう。高天原に集う八百万の神々全てから拒絶され、より厳しい環境の元に放り出され、折角手に入れた宝剣も上位の神様に取り上げられ、散々苦労して作り上げた国々も息子の世代になってアマテラス側に「譲り渡」さねばならなかったスサノオの寂しげな後姿が、何故か彼に退治されたはずの高志の八俣の遠呂智、そして奈良朝直系祖先の地位に置かれながら、早くから墓泥棒たちの餌食となってしまった悲劇の大王オオドのミコト像と折り重なって見えてしまいます。

 TOP    
     
 人気のページ   お地蔵さまの正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼