和気清麻呂山師の親玉だったのか                                   「サイトの歩き方」も参照してください。

宇佐八幡神宮から、称徳天皇(718〜770)の意に反する「託宣」を都に持ち帰った和気清麻呂(733〜799)は、女帝の大きな怒りを買い「別部穢麻呂(わけべ・きたなまろ)」と改名された上で九州大隅国に配流されました。朝廷を大混乱に陥れた一連の騒動は、一般的に「道鏡事件」と呼ばれており日本史の授業で学ばれた方も多いことでしょう。この一件は、もともと宇佐神宮の神主も兼ねていた中臣習宣阿曽麻呂という大宰府の主神が『道鏡が皇位に就けば世の中は太平になる』という御神託があったと朝廷に届け出たことに端を発しているのですが、事前に誰かと示し合わせていたのかは兎も角、称徳帝が「譲位」に乗り気だったことは確かで、事件後の関係者の処分の軽さからも推して、道鏡という一人の僧侶が自ら「仕組んだ」政府転覆の空騒ぎでは無かったと思われます。大抵、変事の背後には「得をする者(黒幕)」が控えて居り、事変後に頭角を現したりするものですが、清麻呂にその黒子役をあてはめるのは、どう考えても無理なようです。それはさておき。

清麻呂の名前が正史に登場するのは、姉の広虫と一緒に天平神護元年(756)三月の人事で「藤野和気真人」の姓を賜ったという記事だと思われますが、その姉は既にその時「正六位下」の位を授けられており「藤野別真人」の姓も有していましたから、称徳天皇が彼女に与えていた評価(信頼度)は相当高かったのではないかと考えられます。天武帝による「八色の姓」制度創設からは八十年余りが経過し「真人」姓そのものの社会的な「価値」が低下していたとは謂え、備前藤野を本拠とした一地方豪族に過ぎなかった同氏が時の朝廷から最高位の「姓」を下賜されていたのは、『新撰姓氏録』(和気朝臣:垂仁天皇皇子鐸石別命の後なり)が伝える次のような由緒に一定の信憑性が認められていた証だと言えるでしょう。

  神功皇后征伐新羅凱帰 明年車駕還都 于時忍熊別皇子等 窃搆逆謀於明石堺備兵待之 皇后鑑識 遣弟彦王於針間吉備堺造関防之 所謂和気関是也
  太平之後 録従駕勲酬以封地 仍被吉備磐梨県始家之焉 光仁天皇宝亀五年改賜和気朝臣姓也

  「宇佐託宣集」より  「続日本紀」より

また、ほぼ事件と同じ時期に編まれたと推測される「播磨風土記」は、讃容の郡の項で興味深い伝承を記録しています。それが今回の主題の「犬」にまつわるもので、讃容(さよう)の地名の起源に続く、以下の文言です。

  故、五月夜の郡と名づけ、神を賛用都比売命と名づく。(作用町長尾の作用都比売神社の祭神)今も、讃容の町田あり。即ち、鹿を放ちて山を鹿庭山と名づく。
  山の四方に十二の谷あり。皆、鉄を生す。難波の豊前の朝廷(孝徳天皇)に始めてたてまつりき。見顕しし人は別部の犬、その孫ら奉発り始めき。

和気氏に関して日本書紀は、鐸石別命(ヌデシワケ)が垂仁天皇と渟葉田瓊入姫との間に生まれた皇子の一人であるとしか記録していませんが、古事記は垂仁后妃を詳しく述べた段において皇子の名前は鐸石別命ではなく「沼帯別命(ヌタラシワケ)」であり伊賀帯日子命と兄弟であるとした上で、和気氏の先祖は垂仁帝と氷羽州比売命(日葉酢姫命)の子供、大中津日子命だとする分註を載せています。それによれば同皇子は、

  山邊の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張国の三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、牟禮の別、飛鳥の君

など多くの氏族の祖先であるとされており、全国各地に同祖関係を主張する勢力が広く存在していたことを窺わせます。以上三つの資料からは、応神親子の「大和入り」の際に「吉備」を地盤としていた和気氏の先祖が、「武力」を以って大いに協力した事実を背景とした伝承が広く知られていたと思われますが「鉄(まがね)」を初めて朝廷に提供したのが孝徳帝(596〜654)の御世だったと云うのは時期的に見て少し遅すぎると思われ、応神天皇が実力で大王位を手中にした四世紀末頃には鉱物資源の発掘や鍛冶の技術に長けた「別部」を配下に従えた和気氏が存在感を増していたのだと推測されます。この頁の冒頭で紹介した清麻呂の「貶めた」姓名そのものが、和気氏族の特徴を如実に現したものであったことが良く分かりますが、歴史上語り継がれてきた著名な「犬」は他にも居ます。それが弘法大師・空海にまつわる逸話なのです。

今昔物語集  三鈷杵  天津彦根命系図

真言密教の奥義を唐の長安で学び会得した空海は、帰国を前にして大陸から日本に向け『仏の教えを広める目的に最も適う地に落ちよ』と念じながら三鈷杵と呼ばれる法具を投げたとされ、帰朝後彼はその場所探しのため大和国宇智郡の山中を探索していましたが、二頭の犬を連れた屈強な猟師に遭遇します。「南山の犬飼」と名乗ったその猟師が『法師が何故このような山深い所におられるのか?』と尋ねたので空海が訳を話すと、彼は『その場所を知っている』と言い道案内を申し出ます、探し物は更に別の「山人」の同行の結果、一本の檜の枝に突き刺さった状態で発見することができたと「今昔物語集」(巻十一)は伝えています。時に弘仁七年六月頃の出来事でした。そして猟師姿で現れた人物が狩場明神、もう一人の山人が丹生明神だと云うのですが、高野山には別に「三鈷の松」と呼ばれる樹木もあるなど、神仏混淆の奇跡譚がどれほどの真実を伝えているのかは不明と言わざるを得ません。しかし、山野を棲家として人跡未踏の地を切り開く「山人」たちにとって「犬」が忠実な僕であり探索能力に秀でた有難い存在であったように、人里はなれた一見不毛の山林原野の只中に、半ば無尽蔵に自然が隠蔽した鉱物資源を探し出す得意な才能を持った者たちも又、権力を持つ有力者たちの「犬」的な配下として珍重されていたことだけは確かなようです。

さて、正史が垂仁天皇の後裔であるとする和気氏の祖先を祀ったものではないかと思しい社が河内国に今も残されています。「河内名所図会」や神社縁起によれば江戸期には「鐸石比古神」一柱だけをお祭していたようなのですが、現在は高尾山の中腹にあって鐸比古鐸比売神社と称している式内社がそれで、祭神を鐸石別命とする神社は全国でも珍しく、同社以外では岡山の和気神社があるのみです。ただ筆者には、この社の祭神について一つの仮説があります。と云うのも、古代において河内国で大きな勢力を持っていた凡河内国造の存在を抜きにしては河内の製鉄鍛冶文化は語れないと考えられますから、直ぐ近くに在った「大県遺跡」の管理者という面も合わせて考えるなら、天津彦根命の系譜に名前が記される彦己曾根命こそ、この河内大県で製鉄神として祀られるに相応しい人物だと言えるでしょう。凡河内国造は安閑朝において大王の意向に副わなかった者として「良くない貴族」の象徴のように正史で描かれていますが、若しかすると「別部の犬」が七世紀に「初めて吉備の鉄」を献上したという伝承は、継体−−宣化and安閑−−敏達−−忍坂彦人大兄−−舒明(息長足日広額天皇)・・・孝徳(軽皇子)と続いた所謂「息長」系大王たちの治世下において、旧来の産鉄事業の管理者に代わって和気氏などの新しい勢力が畿内で台頭した事情を物語っているのかも知れません。

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