徒然、取りとめも無く古代幻想倭人伝の世界            サイトの歩き方」も参照してください。

人の思考と云うものは不思議なもので、誰に言われた訳でもなく、と言って自ら意識的に決めていた訳でも無いのに、何となく、その時々に興味の対象になった事柄を「主題」のようにして雑文を何年も書き続けて来ると、今度は、その「主題」のようなものが見つからないと、文章まで書けなくなるような気分になり、その症状が嵩じると『あぁ、もう書くことが出来ないのか!これは、きっとスランプに違いない』などと、一端の物書きにでもなったかのように悩みだす事にも成りかねません。「病、膏肓に入る」という諺は、あくまでも体調の重篤さを表わすもののようですが……。

「何も見つからない時は原点に立ち戻れ」という格言?に従い、古代史の出発点とも言うべき幾つかの資料の原文を紐解き、果てしなく続く迷路をさ迷う事に致しましょう。(注意:国名については、便宜上、一般的に用いられている「邪馬台国」とすべきなのでしょうが、管理人の立場はかつて『卑弥呼と邪馬台国』で詳論したように「邪馬台国」ではなく「耶馬壱国」であるというものですので、ここでも「耶馬壱(一)国」と表記します)。取り立てて我が国の古代に興味を持ってはいなくても「魏志倭人伝」という文献の名前を耳にしたことがあるでしょう。これは、その名の通り、お隣の大国で作成された文書で、三世紀前半から中頃つまり卑弥呼時代の倭国の様子が書き記されているものですが、その内容、特に「方角」「距離」等などについては首を傾げたくなるような部分(記述)も多々あります。例えば、倭人伝の云う「人口」の多さです。

魏志は「邪馬一国」の大きさを「七万戸」だと教えてくれているのですが、これは実数にすると一体どのくらいの人口になるのか?先ず「一戸」の住人を決めなければなりませんが、魏志自体が「倭国」について、

  その俗では、国の大人は、皆4〜5人の妻を持ち、下戸でも2、3人の妻を持つ

と解説してくれていますから「一戸」当たり少なくとも「2、3人の妻」が居るとすれば、それぞれ「複数名の子」が居て当たり前ですから、一戸あたりの住人の数は「戸主+夫人+子」だけだとしても10人近くになります。(「父母、兄弟は別の所で寝る」らしいので、これを含めると数は更に増えます。奴婢使用人も考えると、数はもっと多くなりますが…)だとするなら、この「国」の人口は凡そ70万人だった訳です。最も新しい人口統計によれば、これに匹敵するのが岡山市(2008.3現在)の70万人なのですが、果たして弥生時代の三世紀前半に、このような「巨大」な国が存在しえたのでしょうか?と言うのも、歴史人口学の推計によれば日本国内の人口は縄文時代を通して50万人を超えることはなく、その数も気候変動などの外的要因が加わり「晩期」には激減したと見られています。そして「水稲」による稲作技術の伝播という「革新」を経て、人々の生活も豊かになり人口も再び増加したと考えられてはいるのですが、それでも三世紀初めの段階では「多くても100万人程度」だったと思われるのです。(因みに、記録の国でもある大国の文書によれば、三国時代の『蜀』の全人口が、西暦263年で約94万人だったとの事です)WEBで見かける「邪馬一国」関連の文献では、当時の「一戸当たりの人数」を「五名」とする例が多いようですが、上でも見てきた様に、それは「子供たち」や「親兄弟たち」を全く勘定に入れない空論に過ぎません。最大級とされる、有名な吉野ヶ里遺跡や唐子・鍵遺跡でさえ、その人口は1,000人程度とされているのです。70万人の人口を構成するには、その弥生時代最大級の遺跡(ムラ)が、最低でも700必要になります。気の遠くなるような「数字」だとは思いませんか!

魏志倭人伝  遮光式土偶(国立博物館収蔵)  PR

都心のど真ん中、明治神宮のあたりをナウマン象たちが闊歩していたのは2万年近く前のことでしたが、ひょっとしたら縄文人のご先祖は、あのギャグ漫画の主人公たちと同じように、日々、象の群れと格闘を演じていたのかも知れません。それはさておき、遮光式土偶(上中の画像)の例を持ち出すまでもなく、縄文という時代は東日本が中心というより、西日本に住む人口の占める割合は極ごく、限られていました。その「原因」の一つが火山活動(噴火)による住環境の悪さなのですが、丁度、東京をナウマン象たちが散歩していた頃(22,000〜21,000年前)九州南部を火口原とする大噴出があり、九州は勿論のこと中国、四国地方にかけての広範囲に大量の火山灰が降り注ぎ、食糧となるべき動植物なども大打撃を受けたと考えられているのです。また、これとは別に約7,300年前頃には大隈海峡にある鬼界カルデラから大噴火があり、九州北部などで細々と生活していた縄文人に壊滅的な打撃を与えました。このような「事情」を背景に、縄文文化は東中心に発展していたのですが、大陸では紀元前十一世紀にが滅び、後を継いだも紀元前770年には東に逃れて東周となります。更に歴史は進みを亡ぼし(前473年)、が越を亡ぼす(前334年頃)訳ですが、「稲作と鉄器の使用」に象徴される弥生時代の夜明けが、これらの大陸国家の激動と無関係であったはずもありません。只、これらの「渡来人」に関して管理人は、大陸方面からの一方的な「来訪だけ」があったのではなく「こちら側から」半島や大陸に「渡った人々」も相当数にのぼり、それら「渡った」側の人々から齎された「海の東にある国」の情報が相乗的に「渡来」を促したと考えています。また想像を逞しくすることが許されるならば、こちら側から大陸半島に「渡った人々(の子孫たち)」が、新しい伴侶や仲間たちを引き連れて「凱旋」する姿も見えてきそうです。(その典型が浦島太郎の伝説です)

「倭人伝」は又、次の様にも述べています。

  租賦を収む。邸閣あり。

わずか十文字にも満たない上の文言は重大な事実を伝えています。『賦』は軍役・兵役をも意味する言葉なのだそうですが、ここでは『邸閣』(大きな建物、倉庫?)に「収め」られているのですから「租」と合わせて「税」に相当する品物だと考えられます。「邪馬一国」関連の文書でも余り触れられる事がありませんが、国が国民から「税」を徴収していると云う事は、つまり権力組織としての国家が、国民の一人一人を識別して把握していた、言葉を代えれば「戸籍」のような資料が存在し、国の役人が何らかの台帳に基づいて各「戸」ごとの租税を決め、納めさせていたと言うことになります。また、当たり前の事ですが、国の「記録」には文字が使われたに違いありません。古事記の記述(応神記、論語などの貢物)に従えば漢字漢籍の公式な伝来は四世紀の後半をまたねばなりませんが「漢書」地理志には、紀元前一世紀頃、

  楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国をなし、歳時をもって来たりて献見す。

とあり「後漢書」にも「倭奴国王」が建武中元二年(西暦57年)に朝賀に訪れ、光武帝から「印」を授けられているのですから、当然、これらの「倭人」や「倭王」たちも漢字を理解していた(漢字を使う者たちを従えていた)と理解すべきでしょう。大陸や半島から漢字(に象徴される)文化を身につけた人々が続々と西日本に流入する過程の過半が「弥生」時代そのものだったと言えなくもありません。漢字(文化)の伝来と定着を示す「遺物」も現存します。それが「墨書土器」(下左の画像)とよばれる物で、平成9年4月の調査時すでに三世紀初頭の土器と「筆と墨」で人面・記号などが描かれた土器が見つかっていた松阪市貝蔵遺跡から、平成11年、更に古い「二世紀後半」の「田」の字が墨書された土器が出土したもので、これとは別に、三重県津市の大城(だいしろ)遺跡でも「奉」と線刻された「二世紀中頃」の「刻書」土器(下中央の画像)も見つかっています。また、二世紀の初め永初元年(107)に倭国王帥升が160人もの「生口(奴隷)」を献上して安帝に謁見を願い出た事も記録されていますから、卑弥呼たちの三世紀には既に戸籍台帳のような公文書が存在していた可能性があるのです。そして卑弥呼たちの「国(権力)」が税の徴収だけに「文字による記録」を利用していたとは到底考えられません。「邪馬一国」の歴史を記した碑文が、そのうち「発見」される日が来るのかも知れません。(三世紀の半ば頃までに「全国民」を掌握出来るだけの権力があったからこそ、好太王碑文で確認できる四世紀末の半島侵攻も実現出来たのでしょう。万単位の人を動員するだけでも実に大変な事なのです)

「田」   人面つぼ 後漢書

「倭人伝」が教えてくれる「邪馬ー国」住民の風俗は総じて「南方風」の様相を呈していると思われるのですが、中でも以下の文言は特に目を惹く内容になっています。それが、

  男子は大小の別なく皆鯨面文身し、婦人は被髪屈かいしている。

の部分です。つまり「倭人」の男たちは老若を問わず「すべて」の人が「顔や身体に入れ墨」をしており、婦人は「ざんばら髪」(を結う?)にしていると表現しているのですが、これらの風習が「邪馬一国」の真の姿を伝えているとするなら、違和感が生じるのを禁じえません。確かに、茨城県下館市の女方遺跡から出土した「人面つぼ」(弥生中期)などの例に見られる通り「鯨面」した人物と思われる遺物もあるのですが、時代的に見て、それほど隔たるとは考えられない古墳時代の人物埴輪(下右の画像)などでは、余り顔の装飾が認められません。また、管理人は漢文の知識に乏しいので自信が無いのですが「婦人」の髪型を一方で「被髪(ざんばら髪)」と言い、続けて「屈かい(曲げて結う)」と記述している点に不自然さを覚えます。周から漢の時代にかけて纏められたとされる『礼記』巻十二には、異民族の「野蛮な風習」を指して、

  東方、夷(えびす)と曰う。被髪文身、火食せざる者有り。

の記述があるそうなので、魏志の陳寿(233〜297)が、この文献に記された「夷」の定義を知らなかったはずは無いのですが…、まぁ、疑いだせばキリがありません。閑話休題、九州から大和へ「東征」の旅に出たとされる神武天皇は、天下を治めるようになった後、皇后や妃を迎えるのですが、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)に天皇が妻問いした場に同席し、天皇の意思を伝えたのが久米氏の遠祖・大久米命という神様?でした。そして、彼が、姫に近づいた時、その『大久米命の鯨ける利目』(目の周りの入れ墨)に驚き、問いかけて歌ったと古事記が伝えています。つまり、天皇の「天孫降臨」にも随伴した大伴氏と並ぶ直属の親衛隊とも言うべき久米氏一族が「鯨面」していた事が、果たして先の「倭人伝」の文言を裏打ちする資料になり得るのでしょうか?(下の画像でも明らかな様に、古墳時代の女性とみられる埴輪は確かに髷を結っています。左が群馬県、中央が大阪府出土のものです)

大陸国家では「顔」への入れ墨を刑罰の一環として行っていましたから、文明国?への脱皮を目指していたヤマト朝が良くない風習として撲滅した可能性はあるでしょう。日本書紀、履中元年四月の条には、仲皇子の反乱に加担した安曇連濱子の『殺す罪を免じて、墨の刑を科した』とあり、雄略十一年十月の条に『天皇怒りて、面を鯨みて鳥養部とし賜う』とあるのも大陸風を真似た刑罰の導入を背景にした「物語」なのかも知れません。

髷髪の巫女 新池の巫女(複製) 武人埴輪(国宝)

魏の正始八年(247)「邪馬一国」の女王卑弥呼は最期の使節を送り出しました。

  卑弥呼以って死す。大いに冢を作る、径百余歩。殉葬する者、奴婢百余人。

日本書紀の垂仁紀二十八年十一月の条にも、帝の弟・倭彦命の葬儀に関連した記述があり、その中でも『近習者を集へて、悉くに生きながらにして陵の域に埋めて立つ』様子が生々しく語られていますから殉死の風習もあったのでしょう。しかし「径百余歩(百数十メートル)」もの陵墓に「百余人」もの殉死者を葬ったとされる「女王」の墓についての伝承が全く残されていないのは何故なのでしょう?かつて、歌聖・柿本人麻呂は、

  淡海の海 夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに いにしえ思ほゆ

と過ぎし日への追慕を見事に謳いあげましたが「邪馬一国」の末裔達は、たった一つの「昔話」さえ子孫に残さなかったのでしょうか!「いにしえ」を巧く思い出すことは案外、難しいことなのかも知れません。


おまけ話しです−−。関西以外の土地で育った方が何かの折に近畿圏に来られ、その言葉遣いの「面白さ」に感動?される事も多いのだとか…。しかし、次のような二人の遣り取りには、到底着いて行けないでしょう。

  『なぁ、今度の日曜、自分どないするん?』

  『そやなぁ、どうしょうかなぁ、ほんで自分はどおなん?』

専門的には、このような人称代名詞の使い方を「一人称の二人称への転用」と言いますが、要するに「相手も己も」同じ一人称(自分)で呼ぶ話し方の典型です。聞きなれない人にとっては耳障りな言葉遣いですが、出雲や相馬地方では現在でも『わ、わぁ』は「自分、貴方」の両方の意味を持つ言葉として話されていますし、本来、一人称であるはずの「わ、わぁ」を「貴方」という意味で使う地方も残っています。関西風の決して上品とは云えない二人称の「ワレ」も同様の範疇に入ります。大陸の人々が「邪馬一国」などの人々を「倭人」と呼んだのも、彼等が「自分のことも、相手のことも」どちらも「わ、わぁ」と話したからなのかも……、妄想です。

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