日本古代史早わかり、卑弥呼神武は親戚か?                          「サイトの歩き方」も参照してください。

何か、歴史小説の吊広告にでも使えそうな見出しの文言ですが、古代史最大の「謎」と云えば邪馬台国(と、その女王卑弥呼)が存在した場所がどこなのか、その一点に尽きるのではないでしょうか。また、記紀神話の核となっている神武「東征」譚は史実を反映しているのか、更には、神武帝を始めとする大和の大王家は邪馬台国とどの様な関わりを持っていたのか?を古代史ファンは皆知りたがっているのだと思います。中原中也のダダ詩解説と、カブトムシの飼育記から始まったオノコロ共和国も開国から既に十有余年、そろそろ終末期が近づきつつ有る憾を強く意識するこの頃なのですが、読者の皆さんに読み応えのある記事を何時までご提供することが出来るのか、些か心許なく思う昨今ではあります。出来るなら、此の辺りで今まで誰も書き得なかった超新説をご披露して皆さんから拍手喝采を頂きたいのは山々なのですが、そんな甘い話がそうそう転がってはいないので、これまでに筆者が日本史探訪の道程で感じ得てきた事柄のあれこれを綴って、今回の更新としたいと思います。

1 一世紀から二世紀までの主な出来事  「後漢書」東夷列伝には、                                [註:後漢書は五世紀、宋の時代に成立、編者は范曄]

  「建武中元二年  倭奴國  奉貢朝賀  使人自稱大夫  倭國之極南界也  光武賜以印綬」
  建武中元二年(西暦57年) 倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝賜うに印綬を以てす。

の記事があり「倭奴国」が使節を後漢(西暦25~220年)に送っていたことが分かります。また「倭国」が幾つもの「小国」に分かれて存在しているという知識が後漢側にはあり、倭奴国が「倭国」の「極南界」(最も南側の端)に位置しているとも捉えていたようで、倭国全体は南北に広がる領土で構成されていると見ていた節もあります。また

  「安帝永初元年  倭國王帥升等  獻生口百六十人  願請見」
  安帝、永初元年(西暦107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。

とも記録され、ほぼ半世紀の後、今度は「倭国王」自身が「160名」もの「生口(捕虜などの奴隷?)」を安帝に献上したことが分かっています。
これより前の記述としては「漢書」地理志(西暦80年頃に成立、編者は班固32~92)の、

  「然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫 樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」

があるので既に西暦前の時代から「百余国」から成る「倭人」の国が楽浪郡(西暦前108年に設置)の海の彼方に存在しており、大陸の王朝に朝献を行っていたことが記録されています。そして、この後、「三国志」魏書東夷伝等にある、以下の記述によって倭国から邪馬台国への変遷があったことを知ることが出来ます。  [三国志は西暦280年以降に成立]

  「其國 本亦以男子爲王住七八十年  倭國亂  相攻伐歴年  乃共立一女子爲王  名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
  其の国もまた元々男子を王として70~80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。
  鬼道を用いてよく衆を惑わした。年齢は長大であったが、夫は無かった。
  「桓靈閒  倭國大亂  更相攻伐  歴年無主  有一女子  名曰卑彌呼  年長不嫁  事鬼神道  能以妖惑衆  於是共立爲王」(後漢書、東夷列伝)
  「漢靈帝光和中  倭國亂  相攻伐歴年  乃共立一女子卑彌呼爲王  彌呼無夫壻  挾鬼道  能惑衆」(梁書、東夷条)

後漢の「桓靈閒」は西暦146~189年に当り、また「漢靈帝光和中」は西暦178~184年にそれぞれ相当しますから、倭国王の帥升が朝貢してから凡そ「70~80年後」の、西暦180年に至った頃、倭国内は大いに乱れますが、各国の指導層たちは一人の「女子(卑弥呼)」を「共立」することで連合国家の体制を固め直す道を選びました。卑弥呼の託宣が実際にはどのようなものであったのか知るすべは有りませんが、大衆の強い支持があったのは間違いなさそうです。

「後漢書」より  「漢書」より  「魏書」より

2 邪馬台国の在った場所と神武帝の活動期などについて

あくまでも一つの見方に過ぎませんが、日本列島が置かれている位置を前提として考えると、やはり大陸、半島との距離的な近さが文化の伝達にとって極めて有利に働いたと考えるべきだと思います。勿論、人々の移動移住は特定の地域(方角)からだけに限られたものではなく、北方や南方からも幾度となく繰り返されたと見るべきですが、筆者の乏しい考古学的な知識だけで見ても、西暦前後の弥生時代において九州北部が文化的に一歩も二歩も進んだ地域であったと判断されます。従って、魏書の云うような国家規模であったかどうかは別にして、小さな「国々」の連合体の盟主的立場の邪馬台国が、そこに在ったと考えるのが最も合理的だと言えるでしょう。ただ、全ての「国」が卑弥呼の側に付いたのではなく、後漢書が指摘する「狗奴国」などは明確に邪馬台国と対立していたのです。[自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種]九州を基点として「東」と云えば出雲、吉備、四国そして畿内、東海の全てが当てはまりそうですが、地理志が謂う「倭種」も挙って列島の各地で独自の「国」作りを進めていたと推理すべきでしょう。(魏志の倭人条には[鉄鏃を使う]と云う文字が見えますが、鉄鏃の出土数は九州北部が突出しています)

筆者は倭国の「乱」が収束しようとしていた正にその頃、神武帝たちの「東征」が始まったと考えています。ただ「東征」と云う文言からは、如何にも強大な軍事力を擁した「国ぐるみ」の侵攻を思い浮かべますが、その実体は神武自身の家族郎党に幾つかの同志的一族が合体した、せいぜい数十名、多くても百数十名足らずの軍(船)団だったはず。当サイトでは神武の親子を主人公にした小説「サノの初夢」でも彼らの実像を描き出す試みを行ってきましたが、瀬戸内海を大動脈とし利用した海人たちの航路開拓は、倭国の発展(及び混乱)と同期して二世紀末には飛躍的な拡大があったと推測されます。つまり、言葉を変えれば物々交換を目的の一つとした海人たちの交易は、九州一円は勿論の事、瀬戸内海沿岸の諸国や古代河内湖の周辺から紀伊半島の海岸を巡る諸国更には東海の地域にまで及んでいたと考えるべきで、その「見聞」に基づいた地域ごとの詳細な情報を得ていた神武一行が、数年間の歳月をかけて九州北部の故地から西日本の各地を経由して大和の一角に辿りついたのが二世紀の第四四半期頃だったと想定出来そうだと考えているのです(神武より一世代ほど古いニギハヤヒたちが既に大和入りを果たしており、彼は、その情報も得ていました)。

その具体的な根拠は、古代氏族の系譜を時代的に遡りながら調べてきた過程で得られた一つの心証なのですが、大王たちの諱に注目した筆者は皇統系図を眺めている間に一つの仮説を思いつきました。それを「瓊・玉・渟理論」と呼びます。発想の発端は垂仁帝の皇子である五十瓊敷入彦命の業績とされる次の一文です。

  五十瓊敷命(五十瓊敷入彦命)を河内国に遣わして高石池、茅渟池を作らしめた(垂仁紀三十五年、秋九月)。三十九年冬十月、五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮に居しまして
  剣一千口を作る。因りて、その剱を名付けて川上部と謂う。石上神宮に納めた。此の後、五十瓊敷命に命せて石上神宮の神宝を主らしむ。
  一に云う。五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上で大刀一千口を作らせ、この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら
  十の品部を賜った。その一千口の大刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。
  また、その大刀は忍坂邑から移して石上神宮に納めたという。   [註:大穴磯部は景行が都した桜井市穴師を暗喩しているとも考えられます。現在、兵主神社が建っています]

治水は現代でも生活基盤を左右する大切な自然対策の一つですが、古代社会においても大王の果たすべき事業の一つとして認識されていました。先代の崇神帝が依網池や軽の酒折池を作り上げて国土を豊かにしたと伝えられているのには理由があったのです。また、書紀は飽く迄も垂仁が皇子に命じて「造らせた」と記録していますが、古事記は、垂仁段で、

  次に印色入日子命(五十瓊敷入彦命)は血沼池(ちぬのいけ)を作り、また狭山池を作り、また日下の高津池を作りたまいき。
  また鳥取の河上宮に坐して、横刀一千口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り、即ちその宮に坐して、河上部を定めたまいき。

と述べ、三つの池の造成主体が皇子その人であったことを明確に伝えています。これらの伝承を総合すると五十瓊敷入彦命と名付けられた、垂仁帝と日葉酢媛の長子は「① 自らが居住していた茅渟(大阪南部)の地で大量の武器を製造し、② それを大和忍坂の武器庫に保管、③ 更に剱を石上神宮に移管した後、自らが武器を管理し、④ 楯、織物、弓矢、珠および土器(土木)などの製造に関わる十もの技術集団を従え、⑤ 河内の国内に三つの灌漑池を造成した」訳ですから、これは明らかに「大王」と呼ぶに相応しい人物だった事になります。また、その名前(に含まれる[五十瓊]の文字)に注目すると、彼が垂仁(活目入彦五十狭茅、イクメイリヒコイサチ)ではなく、その先帝とされる崇神(御間城入彦五十瓊殖、ミマキイリヒコイニエ)の息子であった可能性が極めて高くなるのです。「瓊」は『に・ぬ』とも読ませて「(赤く)美しい玉=太陽」を表した文字ですが、皇統の祖神の名前が「天津彦彦火瓊瓊杵尊」である事に思いを致すなら、また皇祖である天照大神が身に着けていた「八坂瓊の五百箇の御統」(記では八尺の勾璁)から天忍穂耳尊(瓊瓊杵尊の父親)を始めとする五柱の子供(天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命)が産まれたとされる神話からも「瓊」が帝室の正しい血統を示す重要な「一文字」として意識されていたことが分かります。「瓊・玉・渟理論」の詳細は別の頁を参照して頂くとして、神武から崇神まで「全て直系」で繋がれた系譜を仔細に検討すると、

  ⑦五十瓊敷入彦命(景行?)-⑥崇神(五十瓊殖)-(開化、孝元)-⑤孝霊(太瓊)-(孝安)-④孝昭(観松彦)-③懿徳(耜友)-②安寧(手見)-(綏靖)-①神武

実際には、上に示した様な形での各世代による大王位の継承が在ったのではないかと思われます。神武帝の活躍した年代の推定根拠は、崇神帝の在位(主な活動期)を「凡そ四世紀初め、西暦300年頃」に置き、一世代の間隔を「25年」と仮定した引き算で求めた数字であって、具体的には「300年-(25年×5世代)」=西暦175年頃となる訳です。勿論、これらの数字は恣意的な要素が含まれていますから、その「精度」が高くないことは云うまでもありませんが、応神帝の没年とされる「甲午年」を西暦394年だと仮定出来るのであれば、これらの推定年代も強ち的外れなものでは無いと自負しています(丸括弧の数字は世代を示したものです。つまり神武と崇神は五世代離れているという意味です)。

3 邪馬台国と神武たちの大和朝には何らかの繋がりがあったのか?

応神天皇  魏書  神夏磯姫  宮跡

さて、若しも上で見てきたような年代推測が許されるとした場合、九州の邪馬台国と畿内で発展を遂げた神武たちの政権との間には、果たしてどの様な繋がりが在ったのか、或いは無かったのかという点が大いに気がかりですが、実は、残念なことにこの辺りの事情を知ることの出来る具体的な公の資料は国内外に一つも存在しません。従がって、魏書に記された邪馬台国「見聞記」の続編は個々人が想像力と推理力とで補うしかないのです。そこで注目されるのが五十瓊敷入彦命の実体であると考えられる景行帝の業績なのです。彼の「九州巡幸(四世紀半ば頃?)」を架空のものとして全く評価しない研究者も少なくありませんが…。確かに古事記には巡幸の記述が無いとは言え、茅渟の地で武器を量産し、河内国内では複数の人工池を造成、晩年に至っては新たな鉄資源を求めて近江への遷都まで実現した景行帝の行動力は、他の大王と比較しても抜きん出ています。そのバイタリティの結晶が「八十人の子女」だとも言えそうなのですが、それはさておき。何故、彼が九州に出向くことになったのか?、その原因は「熊襲の反抗(貢物を献上しなかった)」だったと書紀は記録しています。前年の十一月に美濃国から大和に戻った景行帝は纏向に新たな日代宮(桜井市穴師)を造営、翌年(景行十二年)八月、筑紫の地に到ります。その折の様子を日本書紀は次の様に描写しています。

  即ち留まりて、先ず多臣の祖、武諸木、国前臣の祖、菟名手、物部君の祖、夏花を遣わして、その状を察しめたまう。
  ここに、女人有り、神夏磯媛と云う。その徒衆甚多なり、一国の魁帥(ひとごのかみ)なり。天皇の使者の至ることを聞きて、即ち磯津山の賢木をこじ取り、
  上枝には八握剱を掛け、中枝には八咫鏡を掛け、下枝には八尺瓊を掛け、また素幡を船の舳に樹てて、参向て啓して曰さく。

書紀は神武帝の即位前紀の中でも「頭八咫烏」の話の後に出てくる兄猾と弟猾の二人を『菟田縣の魁帥』と呼び、大王に反抗する勢力の「頭目」を魁帥という言葉に込めて記述していますが、実は大己貴神の国譲り条においても注目すべき文言を記録しています。その一書第二を見ると、

  故、経津主神、岐神(ふなとのかみ)を以て郷導(くにのみちびき)として、周流きつつ削平ぐ(中略)。
  帰順う者をば、加褒美む。この時に、基準う首渠(ひとごのかみ)は、大物主神および事代主神なり。
  即ち八十萬の神を、天高市に合めて帥いて天に昇りて、その誠款の至りを陳す。

此処での「国譲り」の舞台が明らかに大和(三輪)の地であったことが伝わると同時に、大王が従わせた「国」の神々をも「ひとごのかみ」と呼んでいたことが分かります。景行の使者を最大限の儀礼で迎えた「女人」は「一国の魁帥」で、彼女は「甚だ多くの衆徒」を従えていたとあり、その名前には「神」の一文字まで冠されています。筆者は「神夏磯媛」という尊称を与えられた「魁帥=さきがけて衆を率いた人物=国王」に邪馬台国・卑弥呼の残像を観る思いがしています。卑弥呼の没年が西暦248年頃とすれば、既に一世紀近くの歳月が流れています。かつての女王国でも宗女・壹與の後に何代もの王が位を引き継いできたのかも知れません。江戸期に刊行された『武勇魁図会』という書物には「土蜘蛛を退治する神夏磯媛」という主題の絵が掲げられています。この図会は江戸に東洲斎写楽が登場した寛政六年(1794)に出版された『武勇魁殿図会』に倣ったものらしいのですが、媛を「退治する側」の存在とする見方が一部にはあった事が良くわかる資料です。書紀の編者たちは北九州の女王を比較的好意的に描いていますが、大和の大王との繋がりは微塵も感じさせることはありません。神武一行が九州の地を出立してから早、六世代百数十年もの月日が流れ去りました。卑弥呼の伝承も新たな大王たちの「神話」作りの過程で、深い霧の彼方に忘れ去られる運命に在ったのでしょうか。

異なる見方も出来るかも知れません。筑紫国の宇佐は、神武にとっても縁の深い場所でした。彼の即位前紀甲寅年には、以下の記述が見えます。

  行きて筑紫国の菟狭(宇佐)に到ります。時に菟狭国造の祖有り。号けて菟狭津彦、菟狭津媛という。
  すなわち菟狭の川上にして、一柱騰宮を造りて饗奉る。この時に、勅をもて、菟狭津媛を以て、侍臣、天種子命に賜妻せたまう。
  天種子命は、これ中臣氏の遠祖なり。

それから何代もの時間が経過した訳ですが、祭祀をも掌っていたと思われる神夏磯媛が景行に伝えた「残しき賊者」の筆頭が「鼻垂」という人物で、彼は『妄に名号を仮りて(勝手に君主の名を僭称して)』『山谷に響い聚りて、菟狭の川上に屯結めり』と表現されています。つまり、素直に読めば、かつて神武に従がい、祀り事の第一人者である中臣氏の祖先の支配下にあったはずの「菟狭の川上」に、王を名乗り山野満ち溢れるほどの徒党を従えた「賊」が蔓延っていた事になります。しかし、是は書紀編者の筆先が滑ったと見るべきで、この時期既に宇佐には大王に組する実力者が居たはずで「神夏磯媛」も、その一族の象徴と捉えるべきだと考えます。また、八世紀初頭という日本書紀が編まれた時期を重視するなら、中臣氏の正統性を強調する効果を狙った逸話の一つと言えるでしょう。

記紀神話によれば、宇佐の祭神は参柱の女神であり、天照大神と素戔嗚との誓約の折に、彼の佩いていた「十握剱」を三段に折り、天の真名井の聖水で清め、大神が吹き付けた気吹の狭霧から産まれたとされ『胸形君らの以ちいつく三前の大神』(古事記)なのです。「新撰姓氏録」は宗像朝臣を「大神朝臣と同祖、吾田片隅命の後なり」(右京神別)と記載していますが、スサノオ自身が天孫の原点なのですから宇佐の女王と景行帝は遠い親戚と呼んでも差し支えなさそうです。

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