オオクニヌシと「古事記」の秘密?                         サイトの歩き方」も参照してください

古事記は『妹、豊御食炊屋比売命、小治田宮に坐しまして、天の下治らすこと、三十七歳なりき。御陵は大野の岡の上に在りしを、後に科長の大き陵に遷しき』の記述を以って閉じられますが、推古帝(554〜628)の諱は額田部(ぬかたべ)皇女と云い、彼女の養育にあたったのが「額田部」を冠した一族でした。額田部「氏」は、姓(かばね)だけでも「臣・首・連・宿禰」と多彩、大和周辺ばかりではなく伊勢、尾張、武蔵、常陸、出雲、讃岐、筑前等の各地にも広がりを持つ大族で、その全てを「検証」することは不可能なので、今回は皇女とは関係が深かったであろう額田部「湯坐」連に的を絞りたいと思います。その理由は幾つかあるのですが、追々、説明して行くことにします。(「湯坐(ゆえ)」は『幼子の入浴を担当する人』を意味しますが、助産の職も兼ねていたと思われ、親子ともども長期間滞在して赤ん坊を育てたのでしょう。壬生部も同じ性格の部民だと考えられます。想像ですが医薬に関する知識も併せ持つ集団だったかも知れません)

大国主の「神裔」とされる神々の中に、何故、明らかに近江国・三上氏の先祖たちと思われる神々(人々)の名前が挙げられているのか、その謎を解きたい一念で『神々の系譜』の迷路にはまり込んでしまった訳ですが、一筋の光明らしきもの?が見え始めました。推古の父は欽明帝(509〜571)、そして母親は蘇我稲目の娘である堅塩媛ですから大臣の立場にあった稲目(506?〜570)が、可愛い孫娘のために自らの邸宅(や使用人など)を提供していても不思議ではなかったはずなのに、彼女の里親に天津彦根命の子孫が抜擢されたのですから、それには理由が無ければなりません。額田部氏には沢山の流れがありますが、天孫系(天照大神の子孫)を称えているのが天津彦根命を祖と仰ぐ一族の人々で、

  @ 天津彦根命−−天戸間見命−−額田部
  A 天津彦根命−−天 御 影 命−−額田部湯坐連.凡河内忌寸
  B 天津彦根命−−天 御 影 命−−意富伊我都命−−額田部連

などの系譜を持ち、いずれも金属生産に関わりを持つ技術集団を統率していた古代豪族だと考えられています。勿論、これらの氏族が全て彼等の言うとおりに「血縁・婚姻で結ばれた同族」であったかどうかは正直分かりませんが、スサノオではなくアマテラスの後裔を称する「額田部」氏族が大和周辺で活躍していたのは事実のようです。そして天津彦根命という神様は宣化帝(467〜539)の妃・稚子媛の実家である凡河内氏にとっても先祖にあたる存在ですから、帝室を物心両面で支える外戚の「同族」としても信頼を得ていた可能性があります。また、額田部と帝室との直接のつながりを示す資料が日本書紀の記述に見られます。まだ推古が十七歳だった欽明二十二年(561)新羅からの使者が訪れていますが、この折、難波の庁舎で「掌客(おさむるつかさ)」として先導役を務めた人物が「額田部連」で、推古十六年(608)秋八月に唐からの「客」があり、

  この日に、飾騎七十五匹を遣わして、海石榴市の術に迎え、禮の辞を告した

外交官が額田部連比羅夫でしたから、同氏は外国語にも堪能な官僚だったとも考えられます。(単なる想像に過ぎませんが、7世紀初め頃の大和で七十五匹もの飾り馬を従えて唐の使者に応対した比羅夫は、かつて継体帝に権力を構成していた豪族たちの情報を内密に提供した河内馬飼首荒籠の様な存在であったかも知れません。つまり六世紀後半から七世紀初め頃の帝室にとって額田部氏は、金属技術で政権を支えるだけでなく、半島各国との外交の場でも貢献し得る力量を備えた有能で使い勝手の良い集団の長だった訳です。また、事実はどうであれ、天津彦根命はアマテラスの子供であると正史が認めた程の存在なのですから、その血統が尊いものであることは言うまでもありません)

推古陵  植山古墳  御上神社

蘇我馬子が率いる連合軍と物部守屋との「崇仏」戦争そして崇峻帝の暗殺という試練を経て即位した推古は、小野妹子などを遣隋使として派遣、大陸文化を進んで取り入れる一方、母方の叔父・馬子との二人三脚で内政も表面上無難にこなしたと言えそうです。西暦620年代に入り厩戸皇子、蘇我馬子そして推古帝が相次いで他界、女帝が後継者を明確にしていなかったことも手伝い、朝廷内が混乱。実力者の蘇我蝦夷・入鹿親子の「専横」が進み「山背大兄王」一家の滅亡という「惨事」を招く結果となった、というのが書紀の言い分で、その様な「世の乱れ」を正すために中大兄皇子と中臣鎌足が立ち上がり、宮中で行事が行われている最中、蘇我入鹿が暗殺されたのです。

「乙巳の変」を成功裏に導いた脇役の一人で、入鹿の従兄弟でもあった蘇我倉山田石川麻呂(?〜649)は政変後の朝廷で右大臣の重責を担いますが、わずか四年後の649年、禍が身に降りかかります。大化四年三月二十四日、実の弟・蘇我臣日向が皇太子(中大兄)に「謀反」の疑いがあると讒言、孝徳帝は糾問の使いを送りますが『私自身が帝に直接弁明する』と答えるのみだったため追討の軍勢が差し向けられます。長男・興志と共に山田寺に籠もった石川麻呂は最期まで自らの潔白を帝に表明する機会を探っていましたが叶わず『三の男、一の女』と共に自害しました。同月三十日に至って「山田大臣の謀反」に連座して二十三人が処刑されたのですが、その中に額田部湯坐連が含まれていました。…、つまり額田部連一族は蘇我氏と近しい立場にあり、少なくとも「親・中大兄」とは目されていませんでした。天武十三年(684)十二月に行われた「八色の姓」に伴う賜姓の折にも「湯坐連」は対象から外されています、閑話休題。

前回までの大国主の系譜や、白鳥伝説に纏わるお話を読んでおられないと、今回の主題を掴みかねるという方も在ると思いますので、もう一度、古事記が伝えているオオクニヌシの系譜にある疑問点を書き出して置きます。それは便宜的に「大国主の神裔」段と呼ばれている部分にある一連の記述で、そこには、

  大国主神と鳥耳神(or鳥取神、八嶋牟遅能神の娘)との間に生まれた子の名は鳥鳴海神(は底本の違いによる)
  鳥鳴海神と日名照額田毘道男伊許知邇神との間に生まれた子の名は国忍富神
  国忍富神と葦那陀迦神、亦の名は八河江比売との間に生まれた子の名は速甕之多気佐波夜遅奴美神

等の神名が綴られ「天日腹大科度美神と天狭霧神の女、遠津待根神との間に生まれた子の名は遠津山岬多良斯神」であると締め括られているのですが、この段に登場している神々の内「鳥鳴海神」「国忍富神」更には「日名照額田毘道男伊許知邇神」「布忍富鳥鳴海神」など幾つかの神名が、明らかに天津彦根命を祖とする近江の三上祝家の系譜から取り込まれたものではないかと考えられるのです。(古代氏族を初めとする系譜の研究で大きな成果を上げている『古樹紀之房間』の管理人・樹童氏は「額田毘道男」を坂戸彦であると見ています)その三上氏系図とは、

 天津彦根命---天御影命---意富伊我都命---彦伊賀都命---天夷紗比止命---川枯彦命---坂戸彦命---国忍富命---大加賀美命---鳥鳴海命

と続く一連の内容で、系譜上では国忍富命の妹・新河小楯姫命が草創期の物部氏の嫡男に嫁いで、穂積氏の始祖(大水口宿禰)などを儲けたとされ、その国忍富命の子供たちが、

  @ 水穂真若命−−蒲生氏祖    A 大加賀美命−−三上氏祖    B 筑箪命−−筑波国造祖
  C 息長水仍比売命−−彦坐王の妃(丹波道主命の母親、垂仁皇后・日葉酢姫命の祖母)

などであり、ここで息長水仍比売命という女性の存在によって天御影命と開化・垂仁の血脈が一つに結ばれます。「古事記」自身、天の安の河の誓約の段において、アマテラスの持ち物(珠=たま)から三番目に生まれた天津日子根命(天津彦根命)は凡河内国造、額田部湯坐連、山代国造などの祖であると明記していますから、三上氏たちが祖先として祀る神様が「正統性」を備えた尊い存在であったことは確かなのですが、七世紀半ば以降、権力の中枢で起きていた執拗な蘇我氏排除の動きの中で『太陽のような神様』と、かつては崇められてきた天津彦根命の神聖さも、地に堕ちたと言えば大袈裟に聞こえますが、敏達・押坂彦人大兄系統の大王たちの世界では輝きを失わざるを得ませんでした。

夫の遺志を継いで「国史」の編纂にも力を注いだとされれている持統帝(645〜703)が、主だった豪族十八氏に対して『その祖等の墓誌』を上進せよと命じたのは五年(691)八月の事でしたが、既にアマテラスを至高に据えた「天降り神話」の骨格は出来上がっていたのでしょう。貶められた冶金の祖神は、有名なアマテラスの「天の石屋戸」の場面でも鏡作りの主役の座を伊斯許理度売命(石凝姥)という出自不詳の女神に奪われ、その父親とされる天糠戸命の名に、かろうじて一族の印(ヌカド=ヌカダ?)を留めるまでに零落したのです。管理人の「タラシ暗号理論」によれば、何々タラシの名前を持つ神様や人物本人、そして周辺を取り巻く人々に関する記述には、後世、大幅な加筆潤色修正削除が加えられているはずですから、ここで古事記の編集者たちは少しでも帝室の系譜に関心のある者には、直ぐに気づく「仕掛け」を施したのではないでしょうか?大国主と近江三上祝との繋がりは未だ明確な姿となって現れてきませんが、播磨風土記にある次の言い伝えがヒントになるかも知れません。

  意此川 品太の天皇のみ世、出雲の御影の大神、枚方の里の神尾山に坐して、毎に行く人を遮え、半は死に、半ば生きけり。
  その時、伯耆の人小保弖、因幡の布久漏、出雲の都伎也の三人相憂えて、朝廷に申しき。
  ここに、額田部連久等々を遣りて、祷ましめたまいき。

ここに登場する額田部連は、まだ彼等の祖神が威光を放っていた時代に生きた人物なのか、大いに荒ぶる「出雲の」「御影の大神」を祈祷によってなだめる役割を担って態々ヤマトから派遣されています。風土記の編者が記録の根拠とした文献が何であったのかは知る由もありませんが「朝廷」は明らかに額田部連が「御影の大神」を祀る最適の人材であると承知していたからこそ彼を選んだはずで、そこに冠された「出雲の」一言がオオクニヌシをも包含するものであったとするなら、天津彦根命と大国主命は大昔から親しい間柄だったことになります。つまり、大国主の血筋が天津彦根命(天御影命)の子孫に受け継がれている可能性があるのだ、と古事記は暗示している様にも見えます。

神足神社  古事記伝略  大社 PR

おまけ話を綴ります。「溺れる者は藁をも掴む」と古人は喝破したそうですが、WEBで見た神社の祭神に関する記述に誘われ、何か手がかりになりそうな物はないか、そんなさもしい思い付きで長岡京市の神足(こうたり)神社を訪ねたのは梅雨の合間。旧山城国乙訓郡十九社の一つである社の祭神は天神立命なのですが国学の第一人者・本居宣長は『古事記伝』の中で、

  天神立命は遠津山岬多良斯神のことである

と言及しているらしい。無論、その社そのものは何処にでもある地域の産土神を祀ったもので、手がかりになるような物は何一つありませんでした。天神立命という神様は、その名に「天」を頂く天孫系、つまり高皇産霊尊の子供に位置づけられているのですが「古事記伝略」(上右の画像)によれば宣長は「遠津」は母親の名前を貰ったものであるとした上で、

  山岬も地名ならん、山城国乙訓郡山崎郷あり、式に同郡、神足神社あり、多良斯は「足り」の意なれば由あり

と述べています。つまり「タラシ」は「足」であり「乙訓」の「山崎」に在るのだからという根拠を想定していたようです。ところで皆さんは、太安麻呂が記した古事記序文を読まれたことがありますか?その最終部分には、

  即ち、辞理の見えがたきは、注を以ちて明らかにし、意況の解り易きは、更に注せず。
  また姓におきて日下を玖沙訶と謂い、名におきての字を多羅斯と謂う。かくの如き類は、本のままに改めず。

とあり、確かに『大国主命と少名毘古那神との国作り』段の冒頭では、

  右の件の八島士奴美神より下、遠津山岬神より前を、十七世の神と称す。

と書かれているのですが、直前にある『大国主命の神裔』段の最終行は、

  この神、天狭霧神の女、遠津待根神を娶して生める子は、遠津山岬多羅斯神。

の文言で締め括られているのです。これは「矛盾」というより、何らかの「意図」が感じられます。そう、思いませんか!オマケついでに、もう一つ。天孫に国を「譲らされた」オオクニヌシと親しかった天孫側の人物で、後に零落した(神話では還矢に当たり亡くなった)天若日子が「八年」もの間、報告をせず、大国主の娘(下照比売)と早々に結婚したという「神話」に、もっと注目すべきなのかも知れません。おしまい。

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