記紀神話が創られた時代                                              サイトの歩き方」も参照してください

今まで、何気なく記紀神話と一言で片付けてきましたが、日本で最初の国記ともいえる、これらの書物が書かれたのは、一体どのような時代だったのでしょう。国の成り立ちの根本を書いたものなのですから、当然、その時代に最も勢力の強かった人々(一族、縁者など)が、自分たちの影響力を最大限に行使したに違いありません。俗に「神話」と呼ばれている様々なお話しも、ただ、面白おかしく読ませるためにだけ書かれたはずはありませんから、それらのお話しの背景には、書かれるだけの暦とした理由があったと考えるほうが良いでしょう。では、古事記や日本書紀が書かれた前後の時代に、日本では、どのような事件が起こり、また、どのような人々が権力の中央に居たのでしょう。それが分かれば、子供だましの御伽噺のようにも見える『神話』の向こうに、本当に書きたかった(或いは書けなかった)事柄の真相が現れてくるかも知れません。そこで、皆さんお馴染みの、年表をつくってみることにしましょう。それでも、余りかけはなれた時代の出来事はいらないと思いますので、大体6世紀末から8世紀前半の間に限って抜き出して見ます。

その前に、古事記を編纂しようとした当時の状況について、直接、当事者から話を聞いてみることにします。登場する人物は、皆さんもよくご存知の3人の方たちです。一番目の証言をしてくださるのは天武天皇(てんむてんのう、631?〜686)です。

    聞いている処では、諸家が持っている記録の内容には事実と異なる部分があるらしい。虚偽の加筆も多いと聞く。

    今のうちに帝紀旧辞を集め、正しい内容を後世に伝えたい。

二番目の証言者は、元明天皇(げんめいてんのう、661〜722)です。

    旧辞に間違いがあるのは惜しむべきことだ。帝記にある誤りも正したい。

最期に、古事記の編集人である太安万侶(おお・やすまろ、?〜723)さんにも聞きました。

    天武天皇の意思に添い帝紀や旧辞を集め、偽りを削り、事実を定め、仔細に採録しました。

これらの証言は、いずれも「古事記・序文」から意訳し採録したものですが、当時、古事記の原本となる資料は一つ(の系統)ではなく、しかも、その資料は「諸家」つまり皇室以外の多くの豪族が夫々に持っていたことが分かります。端的に言えば、天皇家だけの資料で古事記を編集したのではなく、諸家に伝わる記録のうち太安万侶(つまりは天武天皇・元明天皇)が正しいと認定した内容だけを選別して採録したのだということです。また、両天皇が「虚偽」「誤り」と強い表現を使って諸家に伝わる資料を批判されているのは、勿論、最大の権勢を誇った蘇我氏一族等(の伝承・資料)が念頭にあったからに他ならないでしょう。言葉を換えれば、8世紀の初頭に至った時点でさえ、蘇我氏側から流布され、諸家に伝わっていた「記録」には侮り難い影響力があったのです。証言の中で最も注目しなければならないのは、二人の天皇から指摘されている「帝紀の誤り」が、具体的に何を指しているのか、という点なのですが、これについては個々の説明・証言がなされていないので、想像するより他はありません。

古事記より 帝紀の「誤り」とは何だったのか

いわゆる状況証拠と伝聞が残された唯一の手かがリとなるのですが、蘇我氏の存在とは一体どのようなものだったのでしょう。幾つかの言い伝えを紹介してみます。そうすれば天武の謂う「誤り」が見えてくるかも知れません。

    蘇我蝦夷の邸宅を上の宮門(みかど)、入鹿の邸宅を谷の宮門と人は呼んだ。

    蘇我入鹿の子供たちは親王に準じた扱いを受けた

    国記・天皇記が蘇我氏の邸宅に保管されていた

この三つの伝承が事実を反映したものであったと仮定するなら、そこから導かれる答えは一つしかありません。また、天武が表明した懸念が何を根拠にしたものであったのかも分かります。その解答は「蘇我氏自身が天皇位に就いていた」時期があった、という解釈です。かつて「聖徳」太子(しょうとくたいし、574〜622?)等が編纂した「国記」や「天皇記」が蘇我氏の手中にあったのだとしたら、その内容は、全て蘇我氏を正当化する文章で満ち溢れていたことでしょう。天武は、そのような「記」を決して認める訳にはゆかなかったのです。

西暦 日本国内での主な出来事 中国・朝鮮半島の動き
592  蘇我馬子崇峻天皇暗殺推古天皇が即位。  隋、中国を統一する
593  聖徳太子(厩戸皇子)が摂政となる。  602 百済が新羅を破る
603  冠位12階を制定
604  憲法17条を制定  607 高句麗が百済を破る
607  第1回遣隋使を派遣(小野妹子)。「隋書」は600年の来朝を記録
622  聖徳太子が逝去(日本書紀は621とする)  618 唐が建国
629  舒明天皇が即位      唐、中国を統一する
630  第1回遣唐使を派遣
642  宝皇女が即位して皇極天皇となる
643  蘇我入鹿山背大兄王の一族を滅ぼす
645  中大兄皇子中臣鎌足ら蘇我入鹿を殺害。年号「大化」と定める。
 軽皇子が即位する・孝徳天皇古人大兄皇子が殺害される
647  七色十三階の冠位を制定。  649 蘇我石川麻呂、謀反の疑いをかけられ自刃する
655  宝皇女が重祚して斉明天皇となる
658  有馬皇子、謀反の疑いをかけられ処刑
663  白村江の戦いで、百済・唐・新羅連合軍に大敗  660 百済が滅亡する
667  近江の大津宮に遷都
668  天智天皇(中大兄皇子)が即位。近江令を制定。  高句麗、滅亡
669  中臣鎌足が大織冠を授かり、藤原姓を賜るが翌日に死去
670  庚午年籍(戸籍)を作成、初めて「日本」と号する。法隆寺より出火
672  壬申の乱、飛鳥浄御原に遷都。 大友皇子が自害
673  天武天皇が即位、鵜野皇女(後の持統天皇)立后
676  新羅、朝鮮を統一する
690  持統天皇が即位。三輪中納言遷都をめぐり辞職  周に国号を改める
697  文武天皇が即位、藤原宮子を夫人とする  698 渤海が建国
701  大宝律令が完成(藤原不比等らが編纂)
707  阿倍皇女が即位して元明天皇となる
710  平城京に遷都
712  太安万呂「古事記」を選上
713  諸国に「風土記」の編集を命ずる
715  氷高皇女が即位して元正天皇となる
720  舎人親王ら「日本書紀」を選上
724  聖武天皇が即位。 725 宇佐神宮が建立される
729 藤原不比等の娘(藤原光明子)が皇后となる
738  橘諸兄が右大臣となる。阿倍内親王(後の孝謙天皇)が皇太子となる
739  法隆寺の夢殿建立。 740 藤原広嗣の乱。山背恭仁宮に遷都
745  平城京に都を戻す、行基が大僧正となる。玄ムを筑紫に左遷
749  藤原仲麻呂が紫微中台長官となる。宇佐神宮の道鏡に関わる「神託」が出る
752  東大寺の大仏開眼供養が行われる
759  大伴家持が「万葉集」を編纂する

少し年表の項目が多くなりましたが、どうしても必要な事項に限って入れたつもりです。さて、皆さん、上の表を見て、どんなことを感じましたか?余りピンときませんか!では、分かりやすく、この1世紀半の出来事から記紀の書かれた時代背景となり得る条件を考えてみましょう。

    1 女性の天皇は珍しい存在ではなかった。皇位の継承直系とは限らずに行われていた。

    2 七世紀の前半までは蘇我氏が実権を握っていた(上の通り)。

    3 天智・天武両天皇の時代に中臣氏(藤原氏)が台頭した。

    4 七世紀まで外を向いていた意識が大陸・半島情勢の激動を受けて内向きに変化した。

先ず「1」についてですが、私たちは今の感覚というか、所謂、常識から逃れることが出来にくいので、つい「天皇(大王)」という言葉から男性をイメージしてしまうのですが、表にも明らかなように、日本が国家としての体制を整えつつあった6世紀から8世紀の段階では、女帝の存在は当たり前のものでした。また、これも今では誰もが当然だと考えている直系相続(つまり親から子へのみ天皇の位が引きつがれる事)も、この時代のスタイルではなかったことが分かります。むしろ、直系相続が原則ではなかった、と言ったほうがいいのかも知れません。この事実を前提にして、天皇系譜を見れば、また、違った想像をいろいろとすることも出来るでしょう。では、直系相続ではないとするなら、当時の皇位継承はどのような方法がとられていたのか?それは、系譜を図にしてみれば、直ぐに分かる事です。できるだけ簡略化しましたので、下の表を見てください。(ニ重線=は夫婦を表しています)

 

天皇名の前についている数字が「代」を表しているのですが、上の系図を一見して分かるように、29代欽明から子に伝わった皇位は4人の異母兄弟(姉妹)によって次々に継承された後、本来、皇位を受け継ぐべき「聖徳」太子あるいは押坂彦人大兄皇子の世代をとばして、30代敏達の孫、34代舒明に引き継がれます。
そして、以後もそのような直系以外の人物への皇位継承が繰返されてゆくのです。この「祖父・祖母から孫」への継承のあり方は、これまで古事記の世界に馴染んできた皆さんなら、直ぐに気がつくことと思いますが、アマテラスが孫に国を託した神話(天孫降臨)と瓜二つの構図なのです。それが最も端的に現れているのが「天武」から「文武(683〜707)」への引き継ぎ方で、天智の皇女であり、かつ天武の皇后でもあった持統天皇(じとうてんのう,645〜703)は早世した息子・草壁皇子に代わり自ら中継ぎの天皇となり、孫の42代文武に皇位をつないだのです。
後から付けられたそれぞれの天皇の名前に深い意味−−人となりや業績、特色を表現したものとして−−があるのだとするなら、まさに「持統」という名にふさわしい役割を果した天皇であったと言えないでしょうか。
余談になりますが、天文ファンの読者なら西暦684年の日本列島大地震とハレー彗星大接近を関連付けて、その直後に天皇と同じ権力を持つ様になった持統の諡号が「御統(みすまる)」つまり「統ばる」(すばる)に因んでつけられたものだ、と考えるかも知れません。

ではなく兄弟姉妹に受け継がれる皇位

それでは「2」に移りましょう。これは事実が明らかにしてくれています。まず、欽明天皇(きんめいてんのう、509〜571)という人物ですが、この人は自分の子供のうち4人までが天皇になった、歴代天皇のうちでも珍しい存在です。その欽明の皇后は敏達の生母・石姫ですが、妃として蘇我氏から二人の娘(堅塩姫、小姉君)が入っており、用明・崇峻・推古の三帝は、いずれも蘇我氏の娘を母として生まれ、用明天皇(ようめいてんのう、540〜587)は歴史上初の蘇我氏を外戚に持つ天皇(蘇我稲目が外祖父)となったのです。従って、よく言われているように「聖徳」太子もまた蘇我氏の血を受けた皇子であり、歴史上初めて女性として天皇の位についた推古天皇(すいこてんのう、554〜628)も蘇我氏系の女帝でした。そうした背景を考えるなら、欽明−敏達−押坂、と皇位が直系に継承されず、わざわざ蘇我氏と縁の深い3人の兄弟姉妹に受け継がれたのは、実力者・蘇我氏の意向を反映したものだったと言えるでしょう。そして父・欽明から推古までの4代90年にわたり外戚としての蘇我氏の権力が肥大したことは言うまでもありません。

推古帝の没後、蘇我蝦夷が自分の血縁である山背大兄王(やましろおおえおう,?〜643)ではなく敏達直系の舒明を支持したのは「聖徳」太子と同様に山背が「反蘇我氏」の姿勢を明らかにしたからなのでしょうが、皇族を母に持つ敏達の子孫を担ぐ事で他の豪族(蘇我氏一門ではなく他の氏族)の協力が得やすかった、という事情もあったに違いありません。そして敏達と推古の代で行われた夫婦間の皇位継承(推古の場合は、一旦、崇峻が中継ぎ役となっている)が舒明と皇極の間でも行われ、一旦、弟に皇位を譲ったものの孝徳が没すると重祚(一度退位した人が再び天皇となる)して斉明天皇となったのです。そして、この間に国内では重大な出来事が次々と起こります。

西暦645年、皇極天皇の執政として権勢を振るっていた蘇我入鹿が、中大兄皇子(後の天智天皇てんじてんのう,626〜672)と中臣鎌足(なかとみ・かまたり,614〜669)によって暗殺されたのです。いわゆる「大化の改新」です。ただ、これで蘇我氏の影響力が全て一挙に殺がれた訳ではなかったのですが、改新に同調(協力)した蘇我氏一族の倉山田石川麻呂(?〜649)まで、謀反の疑いで朝廷の中央から排除された(自害)ことが、周囲の豪族たちに与えた衝撃は相当大きなものであったに違いありません。そして、もう一つの重大事件は662年の「白村江」の戦いです。この時期、日本は朝鮮半島の戦乱に深く関り、百済救済のために援軍まで送ったのですが、斉明が崩御した翌年、新羅軍に大敗してしまいます。防人の制度が設けられたのは、そのためでした。

藤原不比等の旧名は「(ふひと)」だった    

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 時代の節目という言葉は、正にこの時期のためにあるのかも知れません。近江に遷都した中大兄は即位して天智天皇となり、改新の立役者・中臣鎌足に「大織冠」を与え、新たに「藤原」の姓を授けます。「3」と「4」の説明に入った訳ですが、勢力の交代が一気に進められたと考えるのは早計です。何故なら、蘇我氏の排除に全精力を傾けたはずの天智に、まだ蘇我氏から三人もの嬪(夫人)が入って居るからです。この点、天智の娘であり蘇我氏直系の持統を皇后としていたにもかかわらず、天武の姿勢は明らかに反蘇我・親藤原色に染まっていました。それは、天武の夫人として二人の藤原姓を持つ女性が居た事が証明しています。672年の壬申の乱を乗り越えた天武は、諸豪族の影響力を極力抑えるため大臣制度を廃止、その代わりに新しい姓・冠位を制定し、律令や史書の編纂を命じるなど、国内の中央集権体制の基盤固めに腐心したのです。

その重要な支えとなった人が皇后持統天皇で、天武崩御の翌月、いち早く息子・草壁の最大のライバル大津皇子(おおつみこ,663〜686)を謀反の嫌疑で退け、自ら皇后の立場で朝廷を支配、草壁即位の抵抗勢力一掃に努めたのですが、2年半にも及んだ天武の喪の間に草壁が逝去してしまう不幸に見舞われます。草壁の遺児・軽皇子は幼く、到底皇位に就くことはできません。そこで、自ら中継ぎ役の天皇として即位、無事、皇統を孫の文武に引き継いだのです。この文武天皇は藤原氏の娘(宮子)を正夫人として迎えたことで、過去、蘇我氏が持っていたものと同じ「天皇の外戚」という強力な武器を結果的に藤原氏に与えたわけですが、それに反発する勢力も決して少なくなかったことから、彼は意表をつく行動にでます。

文武がどうしたのか?知っている方がありますか!!今、学校の歴史(社会)でも日本の古代・奈良時代などは、どのような扱いを受けているのでしょうか、詳しくは教えていないでしょうね。

文武は、なんと、自分の母親に天皇の位を譲ってしまったのです。管理人は日本史の専門家ではありませんから、歴代天皇の事跡を全て把握しているわけではありませんので断定は禁物ですが、これは稀有の出来事と言えるでしょう。もっとも、母の元明天皇が即位したのは文武の崩御後でしたから、正確には「譲位」ではないのですが、このことにより持統・文武の間で行われた「祖母から孫」への皇位継承が、再び、元明・聖武の間で繰返されることになったのです(より、正確にこの間の事情を説明すると、皇位を継がせるべき首皇子(聖武)が余りにも幼かったため祖母・元明ひとりで中継ぎの役割を果すことが困難であったため、更に異例な方策として皇子の叔母にあたる元正天皇が二人目の中継ぎとして即位、23歳に成長した聖武に皇位を譲ったのです)

大織冠神社 古墳の石室

このページも終わりに近づきました。あと、一つ二つだけ重要な事柄を指摘しておきましょう。まず、聖武が即位したのが西暦724年のことです。その父・文武が即位したのは697年です。では、古事記・日本書紀が出来上がったとされるのは何年だったでしょう?上の年表を、もう一度見てみましょうか。古事記の完成は712年、日本書紀が出来上がったのが720年、そして書紀の編纂の中心に居た皇族は草壁の兄弟であり文武の叔父にあたる舎人親王(とねりしんのう、676〜735)でした。

最期の最期にもう一つ。第45代聖武天皇は藤原安宿媛(光明子)を皇后としました。文武の夫人・宮子、聖武の皇后・光明子の二人は、いずれも藤原不比等(659〜720)の娘で、不比等の旧名は史(ふひと)でした。

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