惟喬(これたか)親王伝説、ろくろ木地師                              サイトの歩き方」も参照してください。

琵琶湖から真東へ愛知・名古屋方面に抜けようとすると、南北に壁のように立ちふさがる山並みの群れがある。その名前は鈴鹿(すずか)と言い、とても優しげな、一見雅な里山の風情すら思い抱かせるのだが……。

JR東海道線、今は湖の西側を走る線と区別して「JR琵琶湖線」と呼ばれる鉄道路線に「近江八幡」という駅がある。ここで地元密着型の典型とも言うべきワンマン運転の「近江鉄道」に乗り換えて終点の八日市へ。同じ鉄道会社の運営するマイクロバスを乗り継ぎ、ひたすら東の山を目指して登ること1時間以上、バスは永源寺、政所、蛭谷などという曰くありげな停留所を通り過ぎ、君ケ畑に辿り着く。集落の家並みは数えるほどしかなく、耳を澄ませると御池川のせせらぎも微かに聞こえてくる。旧滋賀県神崎郡永源寺町一帯に、何時の頃からか一つの物語が言い伝えられるようになった。それは、

  文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王(これたかしんのう,844〜897)が轆轤(ろくろ)の技法を里人に教えた

と言った木地師の発祥に関する内容の「伝説」で、中世から江戸期までの間に、

  全国各地の木地師の祖は惟喬親王である

との「信仰」にまで発展、実際に親王を祀る立派な神社も建立されている。蛭谷にある筒井神社(祭神は親王と応神天皇)そして君ケ畑にある大皇器地祖神社(おおきみちそじんじゃ、元は大皇大明神と呼ばれていた)がそれ。後者の神社縁起(未見)には、

  一時、儲弐位(ちょじい、世継ぎの皇子)に位して四品を授けられ。

  仏門に入られた後、貞観十七年(875)、摂津水無瀬宮を出て東近江に向い

  深山に分け入って小松畠に居を定め、村の名を君ケ畑と改められた

と具体的な年号まで記されているそうなのですが、史実はどうだったのか?−−親王が道康親王(後の文徳天皇)の第一皇子として誕生され、幼い頃からとても聡明であったため、父母(母親は紀名虎の娘・静子)を始め周囲からも未来を嘱望されていましたが、皇太子の座に着いたのは右大臣・藤原良房(ふじはら・よしふさ,804〜872)の娘・明子(あきらけいこ)が生んだ惟仁親王(後の清和天皇)でした。父帝が亡くなり、僅か八歳の弟が即位する直前、惟喬親王は太宰権帥(大宰府の副長官)に任命されます。この人事が親王を朝廷・中央政権から遠ざけようとするものであったことは明白で、これに続く太宰帥、常陸太守、上野太守の官職も同様の意図から出たものだったのでしょう。言い伝えにあるような『藤原氏による暗殺の危険性』が存在したのか、今となっては確かめようがありませんが、貞観十四年、二十八歳という若さで親王が出家の道を選ばれたのは事実で、その表向きの理由は『病のため』とされ、京都近郊の小野(山城国愛宕郡)に隠棲し、五十四歳で亡くなられたと歴史書は伝えています。(親王の出家と、貞観十四年九月の良房の死が関連しているのかも知れません)火の無い処に煙は立たないと昔の人は云ったそうですが、ケムリどころか親王の御殿とされる建物や神社まで建てられ、現在でも始祖としてお参りする人が絶えないのだとか!不思議と言えば、之くらい不思議なこともありません。さて、その「真実」は一体何処に隠されているのでしょう?(大皇器地祖神社・下中の画像)

金龍寺    惟喬さん

新選姓氏録』(しんせんしょうじろく)が、あの「聖徳太子」(しょうとくたいし,574〜622)の命を受け、数次にわたって遣隋使として海を渡り様々な文物を持ち帰った小野妹子(おの・いもこ、生没年不詳)について、

  滋賀の小野村に住んでいたので「小野」を氏とした

と極めて簡潔に解説していますが、今、小野神社が建っているのは滋賀県大津市志賀町の一隅、境内には小野篁(おの・たかむら,802〜853)神社そして近くに小野道風(おの・とうふう,894〜966)神社もあります。有力古代豪族であった和邇氏(わにし、第五代考昭天皇を始祖とする)の流れを汲む小野氏が、琵琶湖周辺の地域を本拠としていたのは歴史的にも明らかであり、平安の都のお膝元、旧山城国の中にも同氏の拠点が幾つか存在します。

  葛野郡の小野、愛宕郡の小野そして宇治郡の小野

の三箇所がそれですが、先に紹介をした惟喬親王の隠棲先こそ「愛宕郡の小野」の地に他なりません。その土地の名前を取り、人々は親王のことを『小野の宮』と呼ぶのが慣わしでした。義理の従兄弟にあたり、不遇をかこっていた在原業平(ありはら・なりひら,825〜880)が、

  世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

と歌ったのは、親王が未だ水無瀬の離宮におられた頃、共に、渚の院に遊ばれた時の逸話らしいのですが、有名な『伊勢物語』八十三段では、業平が降りしきる雪の中、余程の思いを胸に小野の里に親王を訪ねる話を述懐しています。また『古今和歌集』では、その折の様子が、

  惟喬の親王のもとにまかりかよひけるを、頭(かしら)おろして小野といふ所に侍りけるに、正月にとぶらはむとてまかりたりけるに、 比叡(ひえ)の山のふもとなりければ、
  雪いとふかかりけり。しひてかの室にまかりいたりて、拝みけるに、つれづれとしていと物悲しくて、かへりまうできて、よみておくりける

と詳述され、第970番歌として知られる有名な一首が記されるのです。

  忘れては 夢かとぞ思ふ おもひきや 雪ふみわけて 君を見むとは

この時代にあっては桓武天皇(かんむてんのう)の娘、伊都内親王を母に持ち阿保親王の王子であった業平でさえ十数年にわたって一度の昇進にも与れないと云う、藤原氏一族による恣意的な政治が朝廷を完全に支配していました。藤原良房の死を期に「引退」の道を選んだ親王の姿が男・業平の眼には一体どのように映っていたのでしょう?『夢かとぞ思ふ』と息を呑み、さらに『おもひきや』と続けた歌人の心に、一方ならぬ深い、そして「悲しい」思いが十二分に込められているように思われてなりません。「小野の宮」「惟喬親王」は、天皇にも成り得た悲運の貴種でありながら、権力には一切執着しない清廉の士である、その様に里人が噂し合うまで、多くの年月は必要とされませんでした。事実、宮は出家後、表立った活動から縁を切り、御所に程近い烏丸にあった広大な屋敷も、いつの間にか藤原氏某の持ち物となってしまったのです。

 鈴鹿山系  ろくろ 百万塔   PR

天平宝字八年(764)に勃発した「恵美押勝(えみ・おしかつ、藤原仲麻呂,706〜764)の乱」の平定に成功した称徳天皇(しょうとくてんのう,718〜770)は、戦の蔭で犠牲となった多くの将兵・良民たちの菩提を弔うと同時に国家を「鎮護」するべく大号令を発します。それは、

  無垢清浄光大陀羅尼経の教えに従い、百万基の陀羅尼経を収めた経塔を作り

  大安寺、元興寺、法隆寺、東大寺、西大寺、興福寺、薬師寺、四天王寺、川原寺、崇福寺の十大寺に

それぞれ十万基ずつ奉納せよ、と云う物で、今日では奈良の法隆寺にのみ四万五千七百余りの三重の百万塔(上・右の画像)が寺宝として収蔵されています。その形状からも分かる通り、これらの百万塔(三重の塔身、および上部の相輪に分けられる。塔の高さは約21センチ)の製造には「ろくろ」が使われ、塔身の底面には作成に携わった工人の名前、工房名を墨で書き入れたものも多く見受けられます。これまでの研究の結果、その工人が二百八十名にも及ぶことも明らかになっていますが、天平宝字六年(762)の『正倉院文書』にも「ろくろ工」の名前が記されています。つまり、海外から持ち込まれた「ろくろ」の技術は、八世紀半ばまでには官営の工房で管理されるようになっていた、と云う事なのです。

この「官」の技術が、いつ、どのような過程を経て「民間」へ流出し、一般民衆の手に広まったのか、それを証明する手だては無いのですが、百万塔製造のため工房に集められた近畿一円の職人たちが、その「仕事」を終えて古里に帰るとき、こっそりと(あるいは役人たちの目こぼしにより)幾つかの「ろくろ」(の先端に取り付ける鉄製の部品)を持ち帰り、お椀や皿を作るために改良を加えたと想像すれば、一世紀という年月は丁度「良い加減」のようにも思えるのですが、如何でしょう?(国記『続日本記』によれば、宝亀元年四月、称徳天皇が「百万塔の作成に携わった官人以下仕丁以上の者百五十七人に、地位に応じて位を与えた」そうなので「仕丁」として役務をこなしていた者に「褒美」としてロクロが授けられた可能性も残されています。なお「仕丁」というのは律令制のもとで五十戸につき二人、三年間中央官庁などで雑役に服する人のことを指します)

さて、これまでに判明した「事実」をここで確認して、次の推理に移りましょう。

  ロクロは八世紀半ばまでに官製の工房に持ち込まれていた

  百万塔の作成のため数百名の工人・仕丁が都の「工房」に集められた

  百万塔が770年に完成し、仕丁たちは古里に帰った

  惟喬親王という人物が872年に出家し、897年に亡くなった

  惟喬親王は「小野の宮」と呼ばれた

これらの事実から推して、君ケ畑に残る「木地師伝説」が正に「伝説」であり、史実を反映したものでないことは明らかです。荒唐無稽とも思われる、その筋書きを創作し演出した集団の存在を窺わせます。マスコミの類が一切存在していない世界で「情報」の伝播は、人の口を通じて行われる以外には考えられません。誰かが、誰かたちに「意図的」に「情報」を語らせない限り、広い地域に「同じ話」が伝えられることは決して在り得無いのです。そして、その「話」の内容は簡潔で庶民たちにとって分かりやすく、また、受け入れやすいものでなければなりません。

小野氏が祀る「タガネツキオオミ」と「小野の宮

都の大事業でフル回転した「ろくろ」技術は、その役務についた仕丁や工人などの手を経て徐々に「民間」にも浸透、特に材料となる木々に恵まれた地域では、食糧と交換が可能な貨幣に代わりうる「物品」を産む技術として重宝されたと考えられます。一方、都では平安時代から中世にかけ大きな地殻変動が起き、朝廷の威厳は蔑ろにされ藤原氏に代表される「貴族」政治が世の中を席捲、次いで「武力」を蓄えた実力者たちの台頭が始まることとなります。権威はおとしめられ、力を持つ者の時代が現出したのです。そんなご時勢の中、琵琶湖の周辺に住む一風変わった女の集団が現れ、諸国を歩きわたりながら一つの神の名前を唱えて家々の門を叩きました。後世、小野巫女と呼ばれた彼女たちが広めた神名が「小野神」、そして小野氏は自分達の祖先が『タガネツキオオミノミコト』(鏨着大使主・米餅搗大使主)であると信じていたようなのです。

そして、ここからは例によって管理人の妄想になるのですが、上で見た小野氏の祖とされる「タガネツキオオミ」の「タガネ」が、製鉄に関連した鏨(たがね)技術そのものだとするなら、小野神の実態は「オオミ」で「タガネ」を「ついた(造った)」最初の人だと云うことになります。この「タガネ」がロクロ作りに必要不可欠なものであることは言うまでもありませんが、製鉄に関わる人々も、木地師と同様に山々を歩き回る「非定住」の民なのです(鉄に限らず「金属」全般に関わる人たちと言った方が正確かも知れません)。幸い、というか全くの偶然なのか、近江には、かつて『天皇の位を捨てて(事実では無いが、結果的には皇太子になれなかったので、そう言えなくもない)』まで小野の地に隠棲された(ということは権力から迫害を受けた)小野の宮・惟喬親王という方が住んでおられ、その生き方の見事さ・悲しさは物語にもなり、世に流布されて来たのです。ここで、独りの知恵者が現れます。

  近江は昔から木地師が多く活躍している

  近江は、古代豪族の小野氏の本拠地であり、小野氏は金属のカミサマが祖先である

  小野には、かつて惟喬親王が(迫害を受けて)隠棲されていた

  惟喬親王は「小野の宮」と称され「伊勢物語」にも登場する(程の有名人である)

ここまで材料が揃っているのだから、後は簡単?です。近江地方では誰一人知らぬ者の無い「小野」という氏の名と地名、そして人々の記憶の彼方にあった悲劇の主人公「小野の宮」をブレンド、里人も近づくことの無い山奥の秘境・君ケ畑を舞台にして木地師の始祖「伝説」が生まれたのです。そして巫女たちも、この新しい「小野」伝説を広めることに吝かではありませんでした。この惟喬親王には、もう一つの「伝説」があります。それも「職人(技)」に関連しており、

  親王が京都・嵐山の法輪寺に参篭されていた時

  本尊仏である虚空蔵菩薩から「うるしの製法」「漆器の製造法」を教えてもらい国中に広めた

というもの。ここでも彼は、庶民の生活に必要な「手仕事」を初めに教えた人物として評価されている訳です。今回のお話の舞台となった近江・大津は天智天皇(てんじてんのう、626〜672)が667年に即位した古い歴史を持つ街として知られていますが、君ケ畑へ向う途中にあった「八日市」という町は、推古天皇(すいこてんのう、554〜628)の時代に瓦作りを指導した聖徳太子が開いた「市場」が発展したものだとする伝承があり、太子信仰を基盤にした太子講が盛んな町でもありました。WEB上の幾つかのページでは、惟喬親王が御池岳の山頂付近に住まわれた時、

  深山辺の 池の汀に 松たちて  都にも似ぬ 住まいとぞおもふ

と歌われたと解説されていますが、東洲斎写楽のページでもお馴染みの大田南畝(おおた・なんぽ,1749〜1823)は、随筆『一話一言』巻二十四の中で、狂歌仲間の浅草庵(伊勢屋久右衛門,1755〜1820)宅で、文化三、四年頃、関家の家臣某から聞いた話として、

  近江の国日野より政所、たで畑を過ぎて、君が畑に至る間の山谷に紅葉多し。
  君が畑に大君大明神といふあり、惟高親王を祭る。一年に七十五度の神事あり。
  君が畑より六里ゆきて御池が岳といふあり。是はむかし御庭の池なりといふ、紺菊多し。
  伊勢物語に在原業平朝臣の雪に降り込められけんも此あたりなるべしとゆかし。
  また、惟高親王手植えの松あり、大さ三囲ばかりなりといふ。

と述べています。伊勢物語の舞台である「小野」と「御池岳」を勘違いしている部分があるにせよ、江戸末期の武家社会で、親王に関わる「伝説」が広く流布されていた事実を示すものとして注目されます。群雄割拠の時代が収束し、江戸に幕府が開かれて数十年、十七世紀の半ばになって全国各地に棲み付き、ロクロ使いを生業とする木地師たちを統轄する役所が作られることになりました。筒井八幡宮と大皇大明神が組織の中核であったことは言うまでもありません。

大皇器地祖神社  親王御墓所 写楽が描いた惟高親王

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