事代主命と「」について考える                                                    「サイトの歩き方」も参照してください。

仲哀帝の皇后、気長帯姫命(オキナガタラシヒメ)は、海外遠征を終えた後、筑紫で生まれたばかりの誉田別皇子(ホムタワケ)を連れて大和に凱旋すべく難波の港を目指して瀬戸内海を東上したのですが、皇后親子たちが乗り組んでいた船が「海中を廻る」ばかりで前に進まなくなってしまいます。不思議な現象に神意を感得した皇后は船を務古水門(むこのみなと、西宮市)に回航させて占いを試みますが、その模様を日本書紀は次のように伝えています。

  ここに、天照大神、誨えまつりて曰わく「我が荒魂をば、皇后に近づくべからず。まさに御心を広田国(西宮市)に居らしむべし」とのたまう。
  即ち山背根子が女、葉山媛を以て祭わしむ。また稚日女尊、誨えまつりて曰わく「吾は活田長狭国(神戸市)に居らんとす」とのたまう。
  因りて海上五十狭茅を以て祭わしむ。また事代主尊、誨えまつりて曰わく「吾をば御心の長田国(神戸市)に祀れ」とのたまう。即ち葉山媛の弟、長媛を以て祭わしむ。

これは仲哀帝の遺児である忍熊王との対決を目前に控えた極めて緊張度の高い状況の中で、皇祖アマテラスが応神帝母子を無事に大和入りさせるために「敢えて」回り道をさせてまで、今、祀るべき神々の存在を再確認させた場面だと考えることが最も自然な解釈なのですが、一つだけ首を傾げざるを得ない記述が含まれています。祭主の父親として書紀が記録している「山背根子」が新撰姓氏録に云う摂津国神別氏族の山直(天御影命十一世孫、山代根子の後裔)であるとするなら、それは紛れもなく天孫一族の天津彦根命の子孫ですから、アマテラスの御魂を祀るのに最適の人選であったと言えるのですが、その「弟(いもうと)」である「長媛」を事代主命の祭主にすることは有り得ません。何故なら、誰でも知っている通り、コトシロヌシという神様はアマテラスが国譲りを迫った時、出雲側の代表であり「父親」でもあるオオクニヌシに代わって申し出の諾否を任され、国を譲った後に「海中」に隠れ去ったとされる旧体制を象徴する存在なのですから、その御魂を天孫族の一員が「祀る」ことなど本来出来ない相談なのです(祖霊は等しく自らの子孫によって祭られることを望みます)。にも拘らず正史の書紀が神名に「尊」の字まで付け足して事代主命の威厳を伝えようとしているのは、とても不自然に思えてならないのですが、それはさておき事代主は時代を超えて天武の御代にも神威を顕します。

長田神社  生田神社

西暦672年、先帝の没後間もなく「壬申の乱」が起こります。大海人皇子方の将軍大伴吹負は近江の軍勢に打ち破られ、供の者一二名だけを率いて乃楽山から辛うじて逃げ出し、墨坂まで応援に駆けつけてきた置始連菟の軍と「偶(たまたま)」合流することが出来、更に金綱井まで後退して散り散りになった部下の再集合に努めました。この折起きた異変について書記は以下の通り記録しています。

  これより先に、金綱井に軍せし時に、高市郡大領高市縣主許梅、にわかに口を閉びて、言うこと能はず。三日の後に、方に神に着して(註・神憑りして)言わく、
  「吾は、高市社に居る、名は事代主神なり。また、身狭社に居る、名は生霊神なり」という。すなわち顕して曰く、
  「神日本磐余彦天皇の陵に、馬および種々の兵器を奉れ」という。                                   [天武元年七月条]

神名に具体性を欠く憾みはありますが、日本古典文学大系の編集者たちは「高市社=高市縣坐鴨事代主神社」「身狭社=牟佐坐神社」に比定しているようです。高市社は一先ず置くとして身狭(むさ)社に「居る生霊神」とは一体どのような神威なのでしょうか?実は良く分からないというのが筆者の本音で、現在、この社に祀られている高皇産霊神は後世になってからの祭神のようで、元々は渡来系である身狭村主青が祀った神様は別に居たと思われます。新撰姓氏録は高市縣主を『天津彦根命十二世孫、建許呂命の後なり』と記載し、古事記も同様の系譜を伝えていますから、彼の家系は天孫の流れを汲む一族であることに間違いありません。そうすると、ここでも明らかに対立する側の後裔が事代主命の神威を称え、それらを祀ることによって大海人皇子(天武)の勝利が齎されたと正史の中で語り続けたことになります。

神功皇后は夫の仲哀帝が「神の教に従がわずして早く崩御した」後、自らが神を祭る主人役(神主)となって再び「神の教」を聞こうとしますが、その時、皇祖アマテラスと一緒に顕れた事代主命の名を書紀は『天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神』と格別な表記を採っています(摂政前紀、仲哀九年三月条)。これは恐らく、

  また曰く、事代主神、八尋熊鰐に化為りて、三嶋の溝樴姫、或るは云わく、玉櫛姫というに通いたまう。
  しこうして児、姫蹈鞴五十鈴姫命を生みたまう。これを神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。            (神代紀より)

とある神武(天孫)と事代主命(地祇)の姻戚関係を殊更に強調した文飾によるものだとも考えられますが「三嶋溝樴(溝杭)耳神」については興味深い仮説があります。古代氏族の系譜を比較参照することで、それぞれ異なる名前で知られてきた神々が、実際には「同一」の神様の別名であったことを「葛城氏」などの頁で詳しく紹介してきましたが、その核心部分だけを示すと、次のような内容となります(物部氏の系譜で③④が重複しているようにも見えますが、伝えられた内容をそのまま写しています。飽く迄も推測に過ぎませんが同じ名前の当主が何代も続いた氏族があったと考えることは可能です。その例は現代でも見る事が出来ます)。

  田使首系譜  ①伊久魂命----②天押立命(神櫛玉)③陶津耳命----④玉依彦命----⑤剣根命              (註・陶津耳の兄弟が都留支日子=剣彦)
  鴨  氏系譜  ①天神玉命----②天櫛玉命----③賀茂建角身命--④玉依彦命----⑤五十手美命---⑥麻都躬乃命
  三上祝系譜  ①天照大神----②天津彦根命---③天目一箇命---④意富伊我都命--⑤彦伊賀都命---⑥天夷沙比止命
  物部氏系譜  ①天照大神----②天押穂耳尊---③火櫛玉饒速日--④饒速日命----⑤宇摩志麻治命--⑥彦湯支命           (物部大連系譜より)
  斎部氏系譜  ①天底立命----②天背男命----③天日鷲翔矢命--④大麻比古----⑤由布津主
  三嶋氏系譜  ①〇〇〇命----②天湯川田命---③少彦根(名)命------玉櫛姫(活玉依姫)

三島溝杭神社  三島鴨神社 

広田神社  神功皇后  高市系図

神々の履歴書を分析しようとすると底なし沼に脚を取られて身動きできなくなるのが自明ですから、難波田使首が伝えた系譜を軸に極々簡潔に話を進めようと思います。その前提となるのが「陶津耳命(スエツミミ)」の兄弟と「玉依彦命(タマヨリヒコ)」の姉妹の存在です。先ず、陶津耳命には「都留支日子」という名前の兄弟がいますが、この神様ツルギヒコは三上氏の系譜に「天目一箇命」の名称で記されているのと同神で別名を「天御影命」とも言います。天孫系で多くの氏族の祖神となった存在で額田部氏、凡河内氏、山背氏などが後裔に当ります。一方、玉依彦命には「竒美加比咩(キミカヒメ?)」という妹があり、この女神の別名が「玉依姫命」と云います。これに「先代旧事本紀」所載の次の文言を加味するとどうなるか(下の画像を参照してください)。

  「天皇本紀」 事代主命は三嶋溝杭の娘、玉櫛姫と結ばれた。     「地祇本紀」 事代主命は三嶋溝杭の娘、活玉依姫と結ばれ一男一女を儲けた。

飽く迄も推論ですが「山城国風土記」逸文が記した賀茂建角身の子供二人(玉依日子と玉依日売)についての伝承を手掛かりにして、ここに在る「三嶋溝杭の娘、活玉依姫命」という女神を「田使首」「鴨氏」の系譜にある「玉依彦命」の姉妹だと仮定すると「③」の項目に縦に並んだ陶津耳命、賀茂建角身命(ヤタガラス)、天日鷲翔矢命そして少彦名命は、皆同じ神様を違う言葉で言い表したものだと考えることが可能になります。また「②」の列についても物部氏を除いて、全ての神名は同一神の別名だと思われます。そこで先に見た事代主命の尊称にあった「玉櫛入彦」の文言が俄かに注目されます。ここにある「入彦(イリヒコ)」は彼が三嶋溝杭の家に「婿入り」した証ではないのか?三嶋の地に「鴨神社」が鎮座しているのも事代主命が「ワニ」に化身して大和から摂津へ移動した足跡ではないのか?そんな気がしてなりません。さて、今回のお話しもそろそろ終わりに近づきました。新参の神武帝を自ら案内役となってヤマトの中洲に迎え入れ、帝室から大変喜ばれた神様が賀茂建角身命(ヤタガラス)だったのですが、彼は神話上オオクニヌシと一緒に国造りを行った少彦名命でもあった訳です。そして少彦名命は父の天津彦根命(天若日子)が妻の兄、味鋤高彦根命と「懇意」だったように大物主命(櫛甕玉)、事代主命(玉櫛入彦)とも大変親しい間柄で、自分の娘(玉櫛姫)の婿に事代主命を選び、双方の血統を受け継いだ孫娘(姫蹈鞴五十鈴姫)をアマテラスの直系である神日本磐余彦尊の后として送り込んだのです。「国譲り」の裏事情を垣間見た思いです。

古事記は「大国主の神裔」の段において『この大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売命を娶して生める子は、阿遅鉏高日子根神』は『今、迦毛大御神と謂うぞ』と最高の尊称を贈り「出雲国造神賀詞」では『阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神南備に坐せ』と帝室の重要な守り神であることを宣言していいるのですが、この神が何故「迦毛=カモ」という呼称を冠しているのかについては何も語ろうとしません。鴨氏の解説などに良く引用される「山城国風土記」逸文が伝えている「賀茂社」の由来でも、要は「賀茂建角身命」が神武の先導を恙なく終えた後、

  山代河のまにまに下りまして、葛野河と賀茂河との会う所に至りまし、賀茂川を見はるかして、言りたまいしく『狭小さくあれども、石川の清川なり』とのりたまいき。(中略)
  その川より上りまして、久我の国(賀茂川上流の地域)の北の山基に定まりましき。その時より、名付けて賀茂という。

ように成ったと記しており、祖先の名が何故「カモ」だったのかに関しては口を噤んだままです。上の推論からみて本来有していた「鷲(ワシ)」という猛禽の名を敢えて捨ててまで水鳥の名称を選んだ背景には、一体どのような事情があったのか?鴨という言葉が「神(カミ)」に通じるものがあるとは言え…。

山城国風土記  田使首系譜  先代旧事本紀 

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