事代主命と八尋熊鰐神(ヤヒロワニ)は同神なのか                    「サイトの歩き方」も参照してください。

表参道の大きな鳥居をくぐり抜け、緩やかな広い坂道を登りつめると石の階段があって拝殿が見えてくる。階段を上がりきって直ぐ右に曲がると、大神神社を経て南東に下る山辺の道が待っている。道なりに進むと崇神帝が都を置いたとされる瑞籬宮跡(志貴御縣坐神社)の横を通って金屋の石仏前に辿りつくことになるが、平等寺の近くに在る小さな社に気づく人は多くない。案内板には「大行事社」(下右の画像)とありますが「行事」とあっても大相撲に関わる神様がおられる訳ではありません。記紀の「国譲り」神話によれば、事代主命は天孫側が送り出した使者と対面して要求に応じた後『その船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち伏して、隠れ』た、つまり自ら海にその身を投じたと伝えられている神様で、神社では『その後は冥界の節度を掌る立場=行事』に就かれたので、お祀りする社の名前はその故事が由来なのだと説明しているようですが、今一つ明確ではありません。何より親神である大国主神そのものが『百足らず八十垌手に隠りて侍いなん』と明言して「隠れた」=冥界、根の国に去ったのですから自らが「行事」役を務めても一向におかしくはありません。社の立札には地域にある「恵比寿」社の元宮でもあるとも表記されています、鍵は「ゑびす」にありそうです。

大神神社 

志貴御縣坐神社  金屋の石仏  位置関係図

大行事社の祭神を見ると「事代主命、八尋熊鰐神、加屋奈流美神」の三柱となっていますが、事代主命が「ワニ」に化身して大阪三嶋の溝杭姫(亦の名、玉櫛姫)の許に通った伝承については度々紹介してきた通りです。話は少し時間を遡ますが大国主神(オオクニヌシ)が国造りを共同でおこなっていた少彦名神が常世国に去ってしまい困惑していた時『海の彼方から』光を放ちながらやって来た神様がありました。その神はオオクニヌシに向かって『私を丁寧に祀るのなら、一緒に国造りを手伝ってやろう』と宣言し、更に『倭の青垣の東の山(三諸山=三輪山)に斎祀れ』と要求したと古事記が伝えています。その神様が大神神社の大物主命だった訳ですが、日本書紀の第六の一書も、ほぼ同じ内容を記した上で『大国主神、またの名は大物主神、または国作大己貴命と号す』とも記録しています。神話の流れからすれば、高天の原を追放された素戔嗚(スサノオ)が葦原中国に降り立ち、娘婿である大国主命が葦原色許男命となって国を作り固め、更に、その国を天孫ニニギノミコトに「譲る」段取りとなるのですが、この途上でオオクニヌシの国造りを手伝う少彦名命が登場し、更には途中退場することにより葦原中国という一つの概念としての国が、大物主命が支配する倭(ヤマト)という具体性を帯びた実在の国に昇華します。元来「オオクニヌシ」という神格は存在しておらず、倭には大物主命という「天の下造らしし大神」が先住していたはずです。それが記紀神話の編集者たちによって「大国主神の国譲り」という物語を神代史の中核に据える作業の過程で、二柱の神々などを意図的に融合させる構想が生まれたのだと推測されます。さて、事代主命は大国主命と神屋楯姫命との間に生まれた息子であり、かつ倭の大物主命の子でもある訳ですが、その彼がある動物に変身します。

  これ、大三輪の神なり。この神の子は、すなわち甘茂君たち、大三輪君たち、また姫蹈鞴五十鈴姫命なり。また曰く、事代主神、八尋熊鰐に化為りて
  三嶋の溝樴姫、あるは云わく、玉櫛姫というに通いたまう。しこうして児、姫蹈鞴五十鈴姫命を生みたまう。これを神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。

これは日本書紀の神代上、第八段「第六の一書」にある文章ですが、神武帝の即位前紀にも同様の文言があり、古事記は娘の名前を勢夜陀多良比売とし、児の名は比売多多良伊須気余理比売と伝え、父親は事代主命ではなく「美和の大物主神」そのものだったとしています。神武と大物主神では余りにも「時間差」があり過ぎて、その分だけ信憑性も損なわれると言えますが、要は、これまで何度も取り上げてきた少彦名命の頁等で解説を加えたように、

  神武帝の倭入りの先導役を果たした八咫烏(賀茂建角身命)は、天孫一族天津彦根命の子陶津耳命と同神であり、
  天日鷲(翔矢)命あるいは少彦名命更には三嶋溝杭命も同じ神の別名に過ぎない。

つまり、倭の先住勢力を代表する事代主命が妻とした女性は、天孫族(天照大神~天津彦根命~少彦名命)の血を受け継ぐ貴種の一人だったのです。大物主命を大国主命の「幸魂奇魂」と見做す(別名)ことによって二柱の神々を融合させたお蔭で、古事記が語る「国譲り」の場面でオオクニヌシに代わって事代主命が天孫側との交渉役(行事)を演じることも可能になった訳です(婚姻譚が事実であれば、事代主は少彦名=天日鷲=八咫烏の娘婿になったのです)。伝承では事代主命が「八尋熊鰐に化」したとありますから、この二神は同体のはずなのですが社では別神として祀られています。ここにも疑念が湧くのですが、それはさておき、三番目の神様の話に移ります。実は、これがとても難題なのです…。と云うのも、この神様は記紀神話に一度も登場せず、神統譜も明らかではないからです。では、特定の氏族にだけ信仰されてきた極ローカルな神格なのかと云うと、そうでは有りません。良く引用される「出雲の国の造の神賀詞」(下・中の画像)には、次のような一文が含まれています。

  すなわち大穴持命の申したまわく『皇御孫の命の静まりまさん大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り付けて、
  倭の大物主櫛甕玉の命と名を称えて、大御和の神なびに坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根の御魂を、葛木の鴨の神なびに坐せ、
  事代主の命の御魂を宇奈提(うなて)に坐せ、賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて、皇孫の命の近き守神と貢り置きて

出雲大社  旧事本紀  PR

神田明神図  恵比寿・大黒図

詳しい解説は要らないと思います。記紀が用意した「大物主=大国主の幸魂=和魂」という設定のもとに、己の子神たちを「皇孫」の守護神として「大倭の国」の神南備に鎮座させると「出雲の大穴持命(オオクニヌシでは無い)」が朝廷に奏上している祝詞の中に「飛鳥の神南備」を本拠とする賀夜奈流美(カヤナルミ)が含まれているのです。神婚譚と倭の神々の系譜などを勘案するなら、この神様も当然、事代主命と大変親しい間柄でなければなりません。最も無難な想定が妻となった三嶋溝杭の娘である玉櫛姫なのですが、天孫族が三輪族の聖地「飛鳥」の産土神として祀られるとは考えにくいでしょう。

一つの可能性に就いて述べてみます。古事記が伝える「大国主の神裔」を参考にすると、彼が八島牟遅能神の娘で鳥耳神(鳥取神)を娶って産まれた神様に鳥鳴海神がいます。賀夜奈流美との類似点は「ナルミ」の部分だけなのですが、事代主命と同世代の神であり、かつ古事記が阿遅須伎高日子根神、事代主神に次ぐ三番目の児として上げている重要な存在でもあって、大国主の系譜そのものが鳥鳴海神の子・国忍富神の血統を通して遠津山岬多良斯神まで伝えられています。社伝にある「ゑびす」神云々の言い伝えは事代主命と、彼の義父・少彦名命のいずれもが「ゑびす」神として信仰されてきた経緯を示すものではないのか、と思えてなりません。神田明神が今も「ゑびす」として少彦名命を祭っているのは何よりの証ではないでしょうか。この推理を支える傍証としては、①少彦名命(三嶋溝杭と同神)が事代主命の舅であること、②少彦名命の父である天津彦根命(天若日子と同神)の妻は、三輪族の頂点に在った阿遅須伎高日子根神の妹(高姫、下照姫)であり、彼自身にも倭家の血が流れていたこと、③出雲国造家が伝えた祝詞にある「飛鳥」の聖地に天香久山神社が建てられ少彦名命が祀られていること、④大国主命の神裔だとされる鳥鳴海命および国忍富命の神名が、少彦名命の兄・天目一箇命の子孫である三上祝家の系譜の中に取り込まれ混在していること、等々を挙げることが出来ます。

蛇足気味になりますが、神々の婚姻にまつわる「ワニ」の話を付け加えておきます。海幸彦・山幸彦の神話はご存知だと思いますが、火遠理命(穂穂手見命)が兄の釣針を無くし困り果てている所に塩椎神(塩土老翁)が近づき「善き議(ことはかり)」を成さんと言い彼を小舟に乗せ綿津見神の宮に送り込みます。そこで出会った海神の娘・豊玉姫と結ばれ三年の月日が流れますが、火遠理命は故郷が恋しくてなりません。海神親子は鯛が喉に引っかけていた釣針も探し出してくれた上、潮の満ち干を自在に操ることの出来る珠を持たせて一尋鰐に命じて「上つ国」まで送り返してくれました。命の子を宿していた姫は、海辺の波限に産屋を建てて出産に臨むのですが、夫である火遠理命に対し『すべて佗国の人は、産む時になれば、本つ国の形をもって産みます。だから、産屋に入って見たりしてはいけません』と告げます。好奇心を抑えられなかった命は、つい、出産の様子を覗き見してしまうのですが、そこには「八尋和邇」になって、うねうねと匍い動く姫の姿があったのです。その後、姫は約束を守れなかった夫の許を去るのですが、大切な子供の養育は妹である玉依姫に託したと神話は伝えています。この玉依姫が神武帝の母親に位置付けられている訳ですから、天孫族宗家とワニのつながりは大和に入る前から濃厚だったと言えるでしょう(伝承をそのままに解釈すると神武の血の四分の三がワニだった事になります。神話に理屈を持ちこむのは野暮ですが、海を仕事場としていた海幸を海神が懲らしめるというのも、考えてみれば可笑しな話です)。

第五代考昭を祖とする系譜を持つ和邇氏の存在は初期の倭王権にとって大切な協力者であっただけではなく、四世紀後半から六世紀前半にかけて政権基盤を拡大した帝室に深く関わった一族でもありました。実質的な始祖と思われる和邇日子押人命の娘(姥津媛)が開化帝の妃となって彦坐王を産んだ系譜が台頭期のワニを象徴しています。同氏の躍進は応神帝の即位と同期しています。神功皇后の武将を務めた武振熊命の娘たち二人が応神妃となったのを皮切りに、反正、雄略、仁賢、武烈、継体、安閑、宣化などの大王の后妃を輩出しているのですから、記紀の内容に和邇氏の存在が影響しなかったとは考えられません。神武の「東征」には、きっと海を支配する雄族・和邇の全面的な支援体制があったのだと思われます。

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