海と、そびえる巨人そして真言                     サイトの歩き方」も参照してください。

世間の評価はおいといて、管理人が勝手に「空(そら)の詩人」と呼んでいるは、その処女詩集『山羊の歌』の中で、

彼の作品には実に多彩な表情をした「空」が現れます

  私が歴史的現在に物を云へば

  嘲る嘲る 空と山とが           『春の日の夕暮

  ひろごりて たひらかの空、

    土手づたひ きえてゆくかな

  うつくしき さまざまの夢。         『朝の歌』                            

  しかはあれ この魂はいかにとなるか?

  うすらぎて 空となるか?         『臨終

  夏の空には何かがある、

  いぢらしく思はせる何かがある、     『夏の日の歌

  暗き空へと消え行きぬ

    わが若き日を燃えし希望は。     『失せし希望

など独特の語り口で多様・多彩な、しかも重層的で絵画の雰囲気すら漂う複雑な「空」の表情を巧に描写。代表作の一つ『いのちの声』の最終部分では、

  ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

と達観してみせた彼なのだが、次の作品を書いている過程において、また、書上げた後、或る特定の人物を心の片隅で少しでも意識していたのかどうか、は想像の域を出るものではない。

  あゝ 空の歌、海の歌、ぼくは美の核心を知つていると思ふのですが、

  それにしても辛いことです、怠惰をのがれるすべがない。     『憔悴

「真魚」の二文字を見て、昨今流行の活け魚料理屋、その壁に掛けてある名物料理のお品書きを思い出す方があるかも知れませんが、それは正しい連想とは云えません。

西暦774年6月15日(宝亀5)讃岐の国、多度郡の豪族であった佐伯田公(さえき・あたい・たきみ)は一人の男子を授かりました。母親・阿古屋(あこや)は阿刀氏の出身で、幼名を真魚(まお)と名付けられた彼は、十五歳まで国許の聖堂(国学設備)で学んだ後、都でお役人(桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講・家庭教師)をしていた叔父・阿刀大足(あと・おおたり)を頼り上京、十八歳で大学の門を叩き見事に合格、明経道を学んだとされています。当時の「大学」は中央貴族の子弟のための、官僚育成機関のようなものだった訳ですから、真魚君も語学が得意であったのにもかかわらず「明経科」へ入学したという事は、当然、官吏になるつもり(親達の望みを叶える)だったのだと思われます。(しかし田舎の小豪族の息子が、よく大学に入れたものです)

  (本文とは直接関係ありません)  

息子・真魚を『貴物(とうといもの)』と呼んで慈しんだ父母は勿論、佐伯一族の大きな大きな期待を背に延暦十年、晴れて大学生になった彼なのですが、僅か1年足らずで退学、仏の道に踏みだしました。それから数年『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(後に加筆訂正を加えて『三教指帰(さんごうしいき)』と改題)で自己の思想を戯曲風に表出、仏教へ邁進する己の直観の正しさを誇示するのです。その作品の中で、彼自身がモデルとされる「仮名乞児」は胸を張り、次の台詞を口にします。

  私は、仏陀の勅命を奉じて兜率天への旅をしている者だ。

彼の弟子達が本人の話を基にして編集した文書に『御遺告(ごゆいごう)』があり、そこには若き日の出来事なども語り継がれているのですが、まだ大学に在学中か、あるいは退学直後の頃、一人の沙門(僧侶)と出合い、一つの秘術を授かります。それはインドで生まれた「密教」に源を発する秘法「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」で、極極大雑把に言ってしまうと、  

  ある真言を、それを唱えるのに相応しい場所で

  決められた時間内に百万回唱え続けると

  万巻の仏教典を、悉く、忽ち暗誦することが出来るようになる

という、まるで「嘘」のような便利至極な記憶術だったのです。詳しい内容は勿論、一体どのような「真言」を唱えればよいのやら、知識が皆無の管理人にはチンプンカンプンな話しですが、仏教の奥義を求めて已まない佐伯真魚は近畿で、そして近隣の山中で難行苦行を重ねます。しかし、何百万遍「真言」を唱えても宇宙との交感が得られなかったことから、彼は、生まれ故郷の四国に帰ることを思いつき、土佐の室戸岬の岩屋に籠り「勤念」するのでした。そして、或る日ある時、不思議な体験をすることになります。「御遺告」は、その様子を次のように伝えています。

  土佐の室生門崎に寂留す。心に観ずるに、明星口に入り、

  虚空蔵光明照らし来つて、菩薩の威を顕す

飲まず食わずの苦行の果て、明星を胎内に取り込んだという彼の眼に、その時、籠っていた洞窟から見えていた風景は「空と海」、見渡す限りの「海と空」だけだったのです。

空海さん(若き日の姿なのでしょうか?)  「御遺告」(奈良国立博物館・収蔵)

それから更に数年、僧・空海(くうかい)は突然、留学生として遣唐使の一員に加えられ、藤原葛野麻呂一行と共に延暦二十三年(804)唐に渡ります。都・長安での摩訶不思議な出来事のご案内は、また別の機会に譲ることにしましょう。

冒頭で紹介をした作品の生みの親、山口県出身の詩人・中原中也(なかはら・ちゅうや)は、その日記に意味不明な『オンダラソワカ』という短い書き込みを行っていました。その断片的言葉と管理人そして中也の弟さん・思郎さんとの一期一会については『思郎さんのこと』で詳しく書いていますが、もしも、この言葉が大岡昇平や吉田煕生などの云うような「呪文」だとしたら…、そしてそして、それが、

  虚空蔵菩薩を表す「真言」の

  オンバサラ・アラタンノウ・オンタラク・ソワカ

の後半部分だったとしたら、中也と空海を繋ぐ一本の糸が見えてくるようにも思えます。

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