高良神社の祭神・高良玉垂神武内宿禰なのか                                    「サイトの歩き方」も参照してください。

奇岩の一つでもある石の宝殿と云えば兵庫の生石神社の御神体が良く知られていますが、実は大阪の寝屋川市にも同じ名前の遺物が伝わっています。同市打上にある「石の宝殿」或いは「石の唐戸」と呼ばれている石槨(横口式)がそれなのですが、そこは高良神社の境内でもあり、江戸期には骨壺らしきものも発掘されたようですが、石槨のある場所の地形から類推すると、七世紀頃に造られた当時から「盛り土」は施されずに、敢えて巨石を「見せつける」ための構造物であった可能性すら有りそうなのですが、明確な答えを見つけ出すことは困難で、様々な「説」が生まれる要素に満ちた奇妙な石榑であることに変わりありません、それはさておき、今回の主題は巨石ではなく、一人の、一柱の神様なのです。

石の宝殿  高良神社(寝屋川)

半島経由の渡来神を意識したのか本居宣長は『古事記伝』巻二十二のなかで、強いて「高良」に「コウラ」という訓を与えていますが、社名については『神社覈録』が「加波良(かはら)と訓じるべし」とも伝えており、八幡神に就いて著した『男山考古録』も「古は、河原(かはら)と称したが、今は、通して高良と称える」と記しています。何れの「読み」が正しいものか筆者には判断が付きかねますが、字面だけに拘って言うなら「高良」は「優れた高」を表している訳ですから、記紀神話などに登場する神々の中から少しでも繋がりの或る一柱を挙げるなら、差し詰め「高木神」辺りが妥当ではないのかとも思いますが自信はありません(傍証とも言えないかも知れませんが、久留米の高良大社が鎮座している高良山は、もともと高木神の神域だったと云う言い伝えがあります)。また、当たり前の事ですが「高良」という名前が元々の名称ではなかったのだとすれば、この二文字に「たから=宝」の意味も付加されていると考えても良いのではないでしょうか!宣長は著作の中で概ね、

  また「筑後国三井郡、高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)神社、名神大」とあり、これらもこの大臣を祭るという。民部省図帳の残編というものがあるが「高良玉垂宮」は
  玉垂命を祭るとされている。また「天平の年に武内宿禰と荒木田襲津彦を祭って相殿とした」ともある。この他にも、この大臣を祭るという神社はかれこれ見える。
  なお高良は、今は「こうら」と読んでいるが「高」の字は、古い書物では「こ」の仮名に使っていたから「こら」というのが本来だろう。  
(註:図帳は全国の田籍と田図の公的記録)

と述べていますが、祭神については「玉垂命」だと明言しています(武内宿禰と荒木田襲津彦は後から相殿として祀られた)。冒頭で紹介した寝屋川の高良神社も資料を見る限り「竹内宿禰」を祀っているようなのですが、京都府八幡市の著名な神社である石清水八幡(男山八幡)神社の祭神を比較材料にすると、その推定は怪しくなってきます。と云うのも、同社の案内文書によれば、

  武内社につきましては、社殿内部にお祀りされております。

との事であり、以前は境内摂社だった武内社は主祭神に近侍する形で祀られているのですが、八幡社の南東に位置する頓宮の隣には独立した高良神社の本殿と舞い舞台が設えてあり(下左の画像参照)、その祭神が高良玉垂命ですから、明らかに二柱の神様が同一神と云うことは有り得ないのです。

高良神社本殿(石清水)  民部省図帳  PR

天平年間における朝廷最大の関心事と云えば「藤原広継の乱(西暦740年)」であり、東大寺の盧舎那仏が建立され、国内で仏教の存在が一段と重みを増した時期でもありました。広継が任地である北九州で乱を起こしたと聞いた聖武天皇は、その討伐平定にあたって宇佐神宮に「戦勝」祈願をしていますが、これは本邦随一の武神とも言うべき宇佐八幡神の神威を是非とも発揮して欲しかった帝の本心を良く表した願い事でした。その祈りの深さは終戦後、すぐ同社の神宮寺(弥勒寺)に三重塔を寄進したことに象徴されています。また、宇佐神宮そのものの創建が聖武帝自身の勅命によるものであり、帝の願いが大仏(仏教)と同様に「国家鎮護」にあったのだとすれば、八幡神は正しく狙い通りの役割をきっちり果たしたと言えそうです。更に仏教への傾斜を進めた聖武は西暦745年に東大寺の大仏建立を発願しましたが、当時、日本国内では大仏像の鍍金用の金が採掘されていなかったため朝廷は大陸まで買い付けに行く算段までしていたのです。ところが翌々747年、突然、宇佐の八幡神が『黄金を必ず国内で産出させる』と云う異例の託宣を発し、その予言通り749年になって百済王敬福が「黄金900両」を帝に献上、大変喜ばれた天皇は渡来系の貴族を特別に異例の昇進をさせたことは別のページで詳述した通りです。天皇の期待通りに神威を如何なく発揮した宇佐の八幡神は西暦749年、東大寺の守り神として手向け山に勧請され、遷座第一号の先例となりました。後、桓武帝により都が平安京に移されますが、九世紀の半ばに至って、再び宇佐神が『吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん』との神託を下し、今の地に貞観二年(860)に社殿が造営されたのです。

聖武帝が宇佐神宮を伊勢と並ぶ「第二の宗廟」と捉えた背景には、上で見てきた具体的なご利益が在った訳で、その八幡神の社を「宗廟」とするからには、当時の朝廷には八幡の神を帝室の「祖先」であると認識していたことになるでしょう。その様な神様をお祀りする社の摂社として高良神社は男山の麓に鎮座しているのですから、高良の祭神もまた帝室所縁の神様であることに間違いなさそうです。それでは「玉垂」の意味する処から、この神様の実像を探ってみましょう。「玉」は垂仁天皇や稲背入彦命更には五十瓊敷入彦命の頁などで繰り返し主張してきた通り「皇統=天皇の位」を象徴する一文字であることは明らかです。そして、その至極の「玉」を「垂らした(天下に知らしめた)」のですから、この神が始祖神あるいは、それに準ずるほど高位にあったと推測できます。つまり、今でいう「人皇」や「帝の子供」などでは有り得ないのです。天皇家で「始祖」と云えばアマテラスを真っ先に想起する方が多いかも知れませんが、この神様は伊勢に鎮座されており、別神です。また「玉垂」神が大変帝室にとって重要な存在でありながら、記紀にも一切登場しないのは何故なのか?その理由を忖度するなら、アマテラスを光り輝く鏡の「表」面だとすれば、恐らく、この神様は「暗闇に紛れて身を隠す」陽の当らない場所を治めていた(と記紀などが伝えた)負の「裏」面を掌る神様であるに違いありません。筆者が凡そ十年余りの歳月をかけて調べたオノコロ・シリーズ用の資料を総動員するなら、それに該当するのはスサノオとオオクニヌシを措いて他に無いと考えられます。

田使首系図  鴨縣主系図  天津彦根系図

この「玉」という言葉は容易に「魂」を連想させますが、記紀神話でもお馴染みの神々の名前にも「玉」や「魂」は頻繁に現れます。例えは欽明朝に「田令」として備前国児島に赴任したとされる田使首瑞子の家が伝えた『難波田使首』(国立国会図書館収蔵)によれば、

  高魂命−−伊久魂命−−天押立命(又名、神櫛玉命)−−陶津耳命(陶荒田神社)−−玉依彦命−−生玉兄彦命(剣根命の兄)

という神々の系譜が明らかとなっています。高良社の本源は久留米に建つ高良大社であると思われますが、その鎮座地は「三井郡」ですから「三井」即ち「御井=水」の神と密接な関係にある神様が玉垂神の本質だという事も分かります。同社に残る『元々、高良山には高木神が居た』と言う伝承を踏まえた上で「高魂命=高木神=御井神」の等式が成り立つのだとすれば、玉垂神の本質が「伊久魂命・天押立命」に他ならないことは明白でしょう。鴨氏の系図調べで「陶津耳命」が「ヤタガラス・少彦名命」の別名であったことも判明しています。従って、その父親の「天押立命(神櫛玉命)」は当サイトの主人公の一人、天津彦根命その人に他なりません。つまり玉垂神は天津彦根命・天目一箇命親子神を神格化した「オオクニヌシ」であり、彼等の本源はスサノオなのです。

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