時計、からくり、そして傀儡(くぐつ)                        サイトの歩き方」も参照してください

  目覚まし時計、上部のベルに特徴がありますね

『そんなことをして、一体、何が楽しいのか?』面と向かって尋ねられたとしても、恐らく気の利いた返事は今でも出来ないだろう。「そんなこと」というのは、目覚し時計の分解、と言うより正確には破壊作業のことで、小学校の高学年になると、何故か時計の中身、つまり構造がどうしても無性に見たくなり、親の眼を盗んで不用になりつつあった目覚し時計を箪笥の上から持ち出し、ペンチやドライバーでせっせと壊していたものです。漠然と「時間」そのものに関わる秘密が分かるのではないか、そんな思いもあったのかも知れませんが、やはり第一の理由は「時計が動く、正確に動く仕組み」が知りたかったからだと思うのです。今から40数年以上前(昭和30年頃)の家庭には、機械らしいものと言えば時計の他、ラジオ、ミシン、扇風機など、極限られた物しかありませんでした。そして、子供が触ることのできる(つまり壊すことのできる)機械としては時計が一番身近な存在だったのです。そして、知識欲?に燃える子供が「分解」した時計が、二度と時を刻む事が無かったのは謂うまでもありません。

田舎中学三文オペラ』の主人公たちも、近くの神社の境内で催された「見世物」を見物していますが、地方の「見世物」小屋の出し物の一つに「覗きからくり」というものがありました(下の画像)。これは、今の若い方たちに説明するのが難しいのですが、箱の中に造られた世界(立体的な場面)を「覗き穴(レンズ)」を通して見る仕掛けのことで、今風に言うならパノラマでしょうかね。大抵、箱の中は暗く、よく見ないと何があるのかはっきりと見えない仕組みになっていて、ようやく人形らしいものを見つけると、それが幽霊だったりする訳です。別段、これといって複雑な仕掛けがある訳でもないのですが、好奇心というものは面白いもので、そこに「からくり」があると、見たくなってしまうものなのです。また、大正・昭和の「覗きからくり」は、主に内部に置いた「絵」(ネタ)を見せるものが中心になっていましたが「からくり」が発明された当初は、文字通り「からくり」(仕掛け)あるいは「からくり人形」を見せて、人々を楽しませる遊芸だったと考えられるのです。そして、この「からくり人形」が人形浄瑠璃の発生に深くかかわっていたことは周知の事実です。

    子供たちが「覗きからくり」で見たモノは?? 東海道名所記より

人形浄瑠璃を語るとき忘れては成らない人物が竹田一族で、阿波国出身の竹田近江・清房は、十七世紀前半、江戸に出て、からくり人形の基となる「仕掛け」を考案したり「砂時計」を作っていたのですが、上方で浄瑠璃(義太夫節)などの芸能が盛んになった1650年頃京都に上ります。そして1658年には「出雲掾(いずものじょう)」という掾号(じょうごう・江戸時代以後、浄瑠璃の太夫の芸名に国名と共に与えられる称号)を授かり、翌年には「近江少掾」という号も得て、その道の第一人者であることが認められ、寛文二年(1662)には大坂道頓堀に「竹田からくり芝居」(小屋)を創立、竹田兄弟は芝居、浄瑠璃の発展に大きく貢献したのです。また、竹田からくりではありませんが、1590年の記録として『正月十八日、戎かき、がやってきて、本物の能のように上手に舞った』(『御湯殿上日記』おゆどののうえにっき)という文書があり、少し下った1614年の記録としては『後陽成院の御所で夷かきが、阿弥陀の胸割を演じて素晴らしかった』(『時慶卿記』ときよしきょうき)というものがあり、浅井了意(あさい・りょうい,1612〜1691)が残した『東海道名所記』(1658〜1661年頃・刊行)にも『慶長の頃に京都の次郎兵衛が西宮の戎かき、と語らって四条川原で鎌田正清を演じた』という記述があり、十七世紀初頭の頃までに、人形を使った芝居・芸能・浄瑠璃が京都を中心に、かなり普及していたことが分かります。

 一口メモ・御湯殿上日記=宮中内裏・清涼殿の御湯殿上(という部屋)に出仕していた天皇近侍の女官が書き継いだ日記。1477年〜1826年分が残っている 

  「機巧図彙」  西宮神社    PR

ここで余り耳慣れない言葉が出できましたので、少し説明をしておきましょう。上の「戎かき(えびすかき)」ですが、これは「戎(えびす、夷も同じ)」を「かく」(操る、使う、用いる)人、というほどの意味合いなのですが、何故、からくり(人形)が「えびす」なのか?実は、よく分からない、というのが本音です。でも、それでは「お話しにならない」ので、推理も交えて先に進みましょう。

まず『西宮』(にしのみや)が意味しているものは単なる地名ではなく、現在の兵庫県西宮市に実在する西宮神社そのものです。このお社は「蛭子命(ひるこのみこと)」を主祭神とする古い神社。そして「蛭子」は古事記の国生み神話の冒頭に書かれたイザナギ・イザナミの最初の子供なのです。ただし「蛭子」は「三歳になりぬ足たたずして」(三歳になっても歩くことができなかった)ことを理由に「天磐椽樟船に乗せ、風に任せて放ち棄てた」とされる、一度、棄てられた子供の神様なのです。その「蛭子」と「えびす神」を、誰が、いつ結び付けたのか?それは不明ですが、この西宮神社の近くには産所散所(さんしょ)と呼ばれる地域があり、そこには「傀儡師(くぐつし)」と呼ばれる戎かき、人形使いの人たちが住み「えびす神」の人形操りを行いながら全国を歩き回り、えびす信仰を広める(神社のお札を売る)役割を果たしていたのです。これは想像ですが、彼等が手で操る人形には足が付いていなかった(或いは、足は付いていたが、ぶらりと垂れ下がったまま動かなかった)ため「足がたたなかった」という蛭子伝説とも旨く結び付いたのではないでしょうか。また、これら散所の住人が神社を頼った背景には、荘園を背景とした平安時代からの貴族・豪族の没落、そして武家階級の台頭という社会的な事情があったと思われます。では、傀儡師の起源は?

 一口メモ・西宮神社の主祭神は蛭子の他、天照大神と素戔嗚尊の三神。相殿にオオナムチとコトシロヌシが祭られている。この組合せは珍しい。

十一世紀の後半から十二世紀の初め、権中納言から大蔵卿にまで任じられ菅原道真(すがわら・みちざね,845〜903)とも学才の高さを比較された大江匡房(おおえの・まさふさ、1041〜1111)の『傀儡子記』によれば、傀儡子たちは『一畝不耕、一所不在』(一つの畝も耕さず、一つの所に定住しない)人々であり、昔から『男は狩猟に従事する一方、小さな人形を胸に吊るした箱の上で巧に操り、奇術なども披露し』『女は媚を売り、水草を追って漂泊する』生活を送っていたようですが、平安時代末期以降は、次第に「漂泊」することを止めて都市や町に定住するようになったようです。また、藤原明衝(ふじわら・あきひら,989?〜1066)の著作とも言われる『新猿楽記』(成立は11世紀中ごろ)にも、当時の演戯として傀儡子(くぐつまわし)が紹介されていますから、人形を使った芸としての「傀儡師」は、相当、古い時代から活躍していたことが分かります。

  今昔物語集より   傀儡子記  傀儡師(名所図会)

ところで、この「くぐつ」という舌を噛みそうな言葉ですが、資料として最も古いところでは、既に「万葉集」に、その使用例があります。それは293番、録兄麻呂(或いは、角麻呂)が歌ったとされる一首で、内容は次のとおり。

    潮干の御津の海女の  藁袋(くぐつ)持ち  玉藻刈るらむ  いざ行きて見む

つまり「くぐつ」と謂うものは「莎草(くぐ)」という植物で編んだ籠のことで、傀儡子たちも初めは「人形箱」ではなく、この編籠の中から巧に人形を取り出し、あたかも生きているような動作をさせたので、人人が驚き、強く印象に残ったので、彼等のことを「くぐつ」「くぐつ使い」と呼ぶようになったのかも知れません。さて、今回も、そろそろお開きの時間が近くなりました。ここで、日本最古のカラクリをご紹介して、お話しを締め括ることにいたしましょう。

     今は昔。高陽親王(かやのみこ)と言う人がいた。親王は□□天皇の御子で、細工名人だった。京極寺という寺があり、この寺は親王が建てたものであった。

十二世紀の前半、恐らく1120年から1150年の間に成立したものと考えられている『今昔物語集』巻二十四に載せられている機械人形のお話しがそれで、旱魃に苦しむ人々のために親王は「高さが四尺ほどの、両手に器を下げた子供の人形を造り、田の中に立てた」そうです。これは「人形の持っている器の中に水を入れると」人形が勝手に「器の水を自分の顔にかけて、田の中へ水を落とす」仕組みになっており、その動作が面白く近在の人がこぞって集り、次々に水を器に注ぎ込んだので、田んぼには何時の間にか十分な水が蓄えられた、目出度し目出度し、というお話しです。この親王が、若しも桓武天皇(737〜806)の皇子であったとするなら、からくり人形の起源は八世紀にまで遡ることになるでしょう(桓武天皇の親王に「高陽」という名の人物は見当たらないのですが、同じ読み方をする「賀陽(かや)親王」という名前の方がいるので、物語集の欠字部分は「桓武」ではないかとされています)

また「今昔物語集」巻二十八には、伊豆守・小野五友の目代(もくだい=代理人)が、もと傀儡師だったが『筆も立ち、書物も読めるので傀儡師を止めて事務の仕事をするようになった』というお話しが紹介されていますから、興味のある方は、一度、物語集を読んでみられると良いでしょう。このページの途中で『機構図彙』という本の一部を紹介しましたが、これは寛政八年(1796)に土佐の「からくり半蔵」こと細川半蔵頼直が秘伝書として記述したものですが、十七世紀を代表する作家・井原西鶴(いはら・さいかく,1642〜1693)も茶運び人形を見たことがあったらしく『独吟百韻』という書物の中で「茶を運ぶ人形の車はたらきて」という一句を載せ、その仕組みの精巧さに感嘆しているそうです。皆さんも、からくり人形が見たくなったでしょうか!!!

     
     
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