紀州路の旅、熊野三山のある風景                                                               「サイトの歩き方」も参照してください

貴賤を問わず、かつては「蟻の熊野詣で」とまで形容された信仰の聖地。その人気は全盛期に比べれば衰えたとはいえ、まだまだ健在のようだ。古代史に首を突っ込めば、いつかは訪れなければならない場所の一つなのだが…、生まれて六十有余年その機会に恵まれなかったのですが、ひょんな事から熊野路を巡る一泊二日の旅に出ることに。紀の国と言えば記紀神話上「樹の国」と云うことで、素戔嗚尊・五十猛命親子が神代の時代から植林興産に励んだ土地柄だとされています。一方で、帝室とも肩を並べるほどの古い歴史を持った氏族の一派が住み着き、製鉄などの技術を広めた地域でもあると謂われ、古代史研究家たちの関心の的となってきたのです。悠久の歴史を誇る神々は、後に新たに渡来した仏教と融合することで、より混沌とした仏神世界を現出しましたが、今回は、いつもオノコロ共和国・日本史探訪のサイトを訪れてくださる読者の皆さんに、今風に云う「パワースポット」熊野の見所を画像でご紹介することにしました。若し、来年の初詣あるいは春秋の旅行先の一つに紀国和歌山を予定されている方は、是非、ご参考になさってください。

熊野本宮大社  大斎原の大鳥居

熊野本宮大社(田辺市本宮町)の主祭神は、同社の案内板によれば「家津御子大神(ケツミコ)」ということで、この神名は素戔嗚尊(スサノオ)の別名だとする解釈が最も一般的なのですが、研究者の間では「元々から素戔嗚が祀られていたのかどうかは不明」だとする意見も出ているようです。その根拠の一つとなっているのが神社が建てられていた敷地、良く知られているように社は明治22年の大洪水で流失するまで、熊野川の「中州」の真ん中に建てられていました。だから「水」に関わりの深い神様が原点ではないのか、という訳です。ただ、坐摩神社の頁で詳しく述べたように、帝室でも水の神(井戸の神)を丁重に祀り続けてきたのも事実ですから、水神とスサノオが無縁という訳では決してありません。「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる旧社地は本宮大社から遠くありませんので、大鳥居を目標に熊野川沿いの景色も楽しんでください。大社では神殿が横並びの姿で皆さんを迎えてくれるはずですが、主祭神のケツミコが祀られている第三殿は右端にある社ではなく、中央に位置している神殿です。その左にある最も大きな社は結宮と呼ばれるもので夫須美と速玉を祀り、右側の若宮に天照大神が祀られています。(「若宮」は普通、主祭神の児神をまつる社とされます)

次は新宮市の熊野速玉大社ですが、ここの祭神も熊野速玉大神(イザナギ)・熊野夫須美大神(イザナミ)とされてはいますが、諸説あるようです。ところで何故「新宮」なのかと云えば、もともと近くの神倉山の磐座(真南約1q)に祀られていた神々を「新たな宮」を作り遷座していただいたので「新しい宮」という名前になったという訳です。その「元の宮」には現在も神倉神社という小社があって大きな岩(ゴトビキ岩・下右から二つ目画像))がご神体として祀られています。速玉大社の摂社として著名な神倉の社は細い道筋の奥まった所に参道入り口がありますから、事前に良く下調べをしてから出かけるか、それとも地元のタクシーを呼んで訪れることを勧めます。また、磐座までの距離自体は大して遠いわけでは無いのですが、登り口から社までは全て急な石段(538段)の連続ですから、脚力に自信の無い方は途中適当に休憩をはさみながら登ってください。そうしないと息が切れます。杖があると尚良いでしょう。石段は鎌倉幕府の創設者・源頼朝だとする伝承があり、祀られているのは高倉下(タカクラジ)という神様です。今回は神様談義が主題ではありませんから詳しくは述べませんが系譜上、この神様は物部氏の祖先・饒速日命(ニギハヤヒ)と天道日女命との間に生まれた天香語山命の別名で、尾張連の祖に位置付けられています。記紀神話では神武帝のヤマト入りの場面で活躍しています。(熊野と出雲は古くから交流があったとされていますが、出雲風土記は興味ある伝承を掲載しています。それは「琴引山」に関するもので、飯石郡にある琴引山の峰に窟があり、その裏に『天の下造らしし大神の御琴』があり、石神もあって昔から琴引山と言うのだ、とあります。要するに琴の形をした巨石が存在しているという言い伝えなのですが、神倉神社のゴトビキ岩と酷似して興味をそそります)

神倉神社石段

三つめの社が熊野那智大社(東牟婁郡那智勝浦町)です。と言うより「西国三十三か所」第一番札所である那智青岸渡寺のある処と云った方が分かりやすいのかも知れません。この神社が、もともと大滝の近くに創建された事情は良く分かる気がします。想像にしか過ぎませんが恐らく古代の海人たちは皆、熊野灘を南北する折に、那智の滝を目印に航海を続け、次の停泊地・寄港地を決める手掛かりにしたのでしょう。神話にある神武帝一行の熊野上陸そして大和入りという段取りも、この大滝あって初めてリアリティが増すのだと言えます。那智大社の祭神も色々な伝承に覆われていますが「那智権現」とされる「古い神」は大己貴命(オオナムチ)のようで、第四殿で祀られる主祭神の熊野夫須美大神は「火の神」とも伝えられます。太古から水が命の豊饒さを支える不可欠の存在であったことに疑う余地はありません。それが「火」の神様に変身した背景には、このサイトで度々取り上げてきた古代の金属冶金そのものが、彼らの精神文化に与えた強烈な「火の力」が横たわっていると思われます。神々は、海の彼方から「次々」と出現したのです。

「延喜式神名帳」に那智大社の名が載せられていない事実が意味しているものは何なのか?殊更に深く考えたことは無いのですが、十世紀の神祇官の立場にある者から見て、当時の那智社は「神社」と見做されていなかったのだろうと解釈するのが無難なのかも知れませんが、では那智社の「何処が」神社らしくなかったのかと言えば、神官たちにとってお祀りの対象となる「神様」の具体的な名称が不明、あるいは不透明だった可能性があります。つまり、それだけ自然信仰の形に近いものだったのかも知れません。神倉の本宮に登り、天空高くそびえる巨岩を見上げると、そんな思いが強くなります。「巨石信仰」と簡単に一括りにしてはいけないのかも知れませんが、記紀神話の世界でニギハヤヒの天磐船天降りを知り、大和飛鳥の益田岩船や播州の石乃宝殿を実際に眼にした者としては、古代人たちが自然の偉大さを畏怖した心根に触れる思いがします。那智の社も山腹にありますから、観光客用の駐車場から参道を登らねばなりません。直ぐ近くのように見えて、そう簡単には辿りつきません。

   熊野那智大社   青岸渡寺   

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釣りの醍醐味を知る人々にとって紀国和歌山の熊野灘一帯の岩場は「絶好のポイント」と見られているのか、WEBで検索してみると太公望たちの釣果談義で溢れています。無趣味の旅人としては、荒い磯に寄せては返す幾重もの波頭を眺めながら源実朝(1192〜1219)の一首『大海の 磯もとどろに 寄する波  われて砕けて さけて散るかも』を、やっと思い出す有様でしたが、白々とした大小の波の遥か彼方から古の来訪者が陸続とこの浜辺にも押し寄せたのだと思うと、何か、己の祖先の一人も若しかすると、この大海原の彼方から新天地を夢見て丸太船を漕ぎ出したのではなかったのか、そんな想いにもかられました。

海原の眺望とは無縁の山々に囲まれた小さな町で育った者にとって眼前に広がる黒々とした大海は、詩人中原中也が『冬の海』で「あれは浪ばかり」と歌いあげた創造空間そのものにも思え、果てしない時空の広がりに一瞬、若き日の心のきらめきが復古し、自己の内部で感性の宇宙が甦ったような錯覚にとらわれたりしたものでした。海は実に多様な場面を用意して旅する者を迎えてくれます。自然が紡ぎだす景色に限りと云うものはありません。見る側の心の趣きひとつで千変万化するのです。季節を選び、時刻を待って「見た」と思う風景も、実は己の心の中の何処かに仕舞い込んでいた記憶の片鱗が放った光芒だったのかも知れません。いやいや、そのような心理分析などする必要は何も無い。そこにある風景をただ楽しむだけで良いのだ。百聞は一見にしかず、と言うではないか−−、そんな声も聞こえてきます。

駆け足の小旅行記はこれでお仕舞いです。探せば見所はまだまだ沢山あることでしょう。また、グルメを自負される方のために海の幸を堪能できる食事処も各地で暖簾を掲げているに違いありません。一人旅あるいは二人三脚はたまた団体旅行、旅の楽しみ方も色々です。提供は「オノコロ共和国・日本史探訪」でした。

那智の滝 大島の夕焼け

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