海とのある風景、紀州熊野を訪ねて                                             「サイトの歩き方」も参照してください。

紀の国と出雲は縁(えにし)が深いのだと言う。宍道湖畔で数世紀に亘り稲作を生業としてきた農家の古老によれば、現在でも島根県屈指の名家である田部氏は、中古紀州田辺から移り住んだ一族の末裔で、熊野の大神(須佐之男尊)の教えを千年余りの長きにわたって忠実に守り続け、今なお山陰有数の大森林域を育んでいるらしい。ところが、亦ある地元の物識りの一人によると話は全く逆で、スサノオが天降った地は紛れもなく出雲であって、尊は子供の五十猛命(イタケル)と共にイズモ一体の国造りに励み、豊かな恵みを齎す広大な大地と枯れる事のない青々と息づく見渡す限りの山々大森林を人々に惜しげもなく分け与えた。地域全体に豊穣が満ち溢れているのを見届けたスサノオ親子は、一族の者から選りすぐった神裔を引き連れ、ある日、何処ともなく旅立たれたのだと言う。そして神々の足跡を知り得る方法もあるのだと…。一見、相反する伝承の様にも見えるのですが筆者はどちらの言い伝えも正しいと考えています。確かに、田部家の当主の一人は、かつて受けた取材の折『室町時代の頃に、紀州から出雲の吉田に移り住んだ』と明言していますから「紀州⇒出雲」の移動が中世に在ったことは間違いないと思われます。更に、彼は田部家のような氏族集団は一つではなく幾つもあり、彼らは皆『タタラもん』と呼ばれたとも証言していますから、明らかに製鉄に携わった技術者集団が紀州から出雲の地に移り住み繁栄したのです。

ところで、皆さんは紀国の一の宮を、そして、その社に祀られている神々の名前をご存知でしょうか?「日本書紀」岩戸隠れの段、第一の一書には、

  即ち石凝姥を以て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり。

とあって、石凝姥(イシコリドメ)の造った「日矛」(社伝はヒホコと名付けられた鏡だとする)をお祀りしているのが紀州の日前宮(と国懸神宮)だと分かります。斎部(忌部)氏の書とされる「古語拾遺」は、更に詳しく鏡が祀られることになった理由について、、

  是において思兼神の議に従がい、石凝姥神に令じて日像の鏡を鋳らしむに、初度に鋳らしむところ少し意(是は紀伊国の日前神なり)に合わず

と説明を加えています。つまり初めに鋳造した鏡には「意に合わない」=思っていたのとは質が異なる出来具合だったので、改めて鋳直した物が「伊勢大神」として崇められている鏡だという訳です。石凝姥(伊斯許理度売)は鏡作部の遠祖「天糠戸」の児(石凝戸辺、第三の一書)ですから明らかに金属の神様で、古事記は同じ場面を、

  天の金山の鐡(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻浦を求ぎて、伊斯許理度売命に科せて鏡を作らしめ

と伝え、鏡とは別に鍛人天津麻浦が「剱」(銅剣か?)も鍛造したのだと仄めかしています。(記は何故か、わざわざ『求めた(呼び寄せた)』天津麻浦に「何を」造らせたのか書き留めていません。その後に続くべき文章が脱落してしまったのか、或いはまた編集者の意向ではしょられたのか理由は分かりませんが、折角、思兼神が求めた人物に何も造らせなかったのは不自然と言えます。また『鏡』と対になる宝物と言えば「剱」か「玉」のどちらかだと考えて間違いないでしょう。同様の疑問を本居宣長も『古事記伝』の中で述べており、天津麻浦と石凝姥が各々矛と鏡を拵えたというのが最も古い伝承だったと推測されます。また斎部氏の『古語拾遺』には「石凝姥神の裔、天目一箇神の裔の二氏を率いて、更に鏡、剣を造らしめて護りの御璽と成す」の文言があります。さて、少し遠回りをしましたが、二つの社の神様たちの話に移りましょう。どちらも主となっているご神体が「鏡」(と矛)そのものなのですが、相殿には次の神々が祀られています。(相殿とは、同じ社の中に一緒に祀られているという意味)

  日前神宮  相殿  思兼命 石凝姥          国懸神宮  相殿  玉祖命 明立天御影命 天細女命

  国懸神宮   本宮大社   八咫烏  

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「玉祖命」は余り見かけない神様ですが『古拾遺語』が「櫛明玉命は出雲国の忌部の玉作りの先祖」だと記していますから、恐らく同神とみて差し支えないでしょう。また神々を招集してアマテラスを岩屋から出てもらう算段をした「思兼命」も、古事記では「思金神」と表記されて「金属」との関わりを思わせる事、また「常世思金神」という表現もあることからオオクニヌシの国造りを助けた後「常世国」に旅立ったという少彦名命との相似性を感じさせ、この神様もやはり「金属」「知恵(技術)」を掌る神様の仲間だと分かります。更に「明立天御影命」は、このオノコロ・シリーズの大看板とも云うべき存在ですから多くの説明は不要だと思いますが、初めてサイトを訪れた読者のために解説をすると、この「天御影命」の「御影(みかげ)」は「鏡(銅鏡)」を意味する言葉で、アマテラスの三男・天津彦根命の子供に位置付けられた神様です。従って、天孫系の最も正統派の金属神と表現しても良いと言えます。また、この神様の別名を「天目一箇命」とも言って、忌部氏の言い伝えでは『筑紫・伊勢の国の忌部の祖』とされる存在です。最期まで残った「天細女命」は天の岩戸の前で相当際どい独創的な踊りを披露して八百万の神々をつい「本気」にさせてしまった、強烈な個性を持つ女神ですが、彼女の事はアマテラスも知っていたらしく、

  吾が隠りますに因りて、天の原自ずから闇く、また葦原中国も皆闇けんと思うを、何故にか天宇受売は楽(あそび)を為、また八百万の神も諸(みな)笑える

と率直な疑問を投げかけています。この女性の素性や系譜は殆ど明らかになっていないのですが、天孫降臨の「五伴緒」の一人とされる事、思兼命の要請で岩屋戸で神懸りしている事などから、やはり天孫系に属する神様の一人だと考えられます。更に推理を加えると、明らかに他の二神が天津彦根命の一族ですから、彼女もまた同神の血脈に連なる媛神だった可能性も十分あります。さて、紀の国は「金=鉄や銅」の神々を崇めてきた訳ですが、実は、その大元の祖先とも云える天津彦根命はアマテラスとスサノオが「自分には元々から黒(きたな)い心が無い」事を証明するために行った「誓約(うけい)」の結果、アマテラスが身に着けていた「八坂瓊の五百箇の御統(みすまる)」から生まれた五柱の神々の一人とされますが、筆者はスサノオが「清い心」で「珠」から生み出したという伝承を重視したいと考えています。つまり天照大神の原型は男性神だったと見ている訳です、閑話休題。

斎部氏の「古語拾遺」に戻りますが、彼等は自分たちの一族の出自について、

  天太玉命  斎部宿禰の祖先          天日鷲命  阿波の国の忌部の祖先          手置帆負命  讃岐の国の忌部の祖先
  櫛明玉命  出雲の国の忌部の玉作りの祖先          天目一箇命  筑紫・伊勢の国の忌部の祖先           彦狭知命  紀の国の忌部の祖先

であるとしていますが、日本書紀は第九段第二の一書の中で、高皇産霊尊が大物主神に自分の娘・三穂津姫を妻にするよう勧めた後、

  即ち紀国の忌部の遠祖手置帆負神をもって、定めて作笠者とす。彦狭知神を作楯者とす。天目一箇神を作金者とす。
  天日鷲神を作木綿者とす。櫛明玉神を作玉者とす。乃ち太玉命をして(中略)、この神を祭らしむるは、始めてこれより起れり。

のように神々の役目をそれぞれ定め、太玉命が全般を統括したように述べています。これは各地に分散して栄えた同族が、各家の祖先を別々な独立した存在として「表現」したもので、恐らく全ての神様が「天太玉命」更には「天津彦根命」に収斂するものと考えられます。また「古語拾遺」は手置帆負命・彦狭知命二神の後裔について『その裔は、今、紀伊国名草郡御木、麁香の二郷に在り』と伝え、和名抄にも忌部郷が見えることから、元々別の土地から紀州の地に渡り、様々な技術を伝えた一族が確かに居たことを示しています。熊野本宮大社と言えば昨今の蹴球ブームでも知られる三本足の八咫烏(ヤタガラス)が著名ですが、奈良宇陀市の八咫烏神社の祭神は建角見命(タケツノミ)です。日本書紀が「郷導者(くにのみちびき)」と表現している八咫烏とは神魂命の孫、鴨建津之身命(建角見命)が化身した姿とされ、賀茂県主の祖神に位置付けられた神様ですが、様々の角度からの研究により建角見命と三嶋溝杭耳神そして陶津耳神という神名も同神の別名であることが分かっています。また、阿波忌部氏は「神魂命−−角己利命−−五十狭布魂命−−天底立命−−天背男命」の系譜を伝え、三嶋県主は「角凝魂命−−伊狭布魂命−−□□□−−天湯川田命−−少彦根命」という形で家系を繋いでいますから、八咫烏の建角見命もスサノオ・五十猛命に源を発する天孫族の一員で天目一箇命とも極めて近しい間柄の神様であると思われます。熊野本宮大社について書かれた多くの解説書は一様に「祭神の詳しい素性は良く分からない」と述べていますが、出雲大社と熊野大社(松江市)の亀太夫神事や出雲国造家に伝えられた「火継神事」(世継の神器として熊野大社から燧臼(ヒキリウス)・燧杵(ヒキリキネ)を拝受する)などの存在を忖度すると、二つの神社が大変強い絆で結びつけられていることが理解できます。従って、出雲の熊野大社が言うような「紀州熊野への分霊」が在ったのかどうかは別にして、紀の国の熊野本宮大社も天孫族にとって重要な神様を祀った社であるに違いありません。

那智の滝  熊野灘を望む  熊野那智大社

那智の滝は、海から訪れる者たちにとって格好の目印になります。古代人たちが日本列島を移動しようとする時、海の民たちは一様に熊野の滝を天に上る龍の如くに見立てて崇めたに違いありません。その聖地にどの神様が最も早く示現したのかは定かではありませんが、オオクニヌシと共に国土経営に当たった知恵(技術)の神様・少彦名命が『行きて熊野の御崎に至りて、遂に常世郷に適しぬ』(書紀、第六の一書)と正史も伝えてきたのですから、熊野と出雲のつながりは単なる神々の「勧請」の結果と見るよりも、双方の間に二千年の遥かの昔から、同族意識に支えられた氏族たちの濃密な往来があったとみなすべきでしょう。紀州田辺には歴史上の有名人物がもう一人居ます。軍事の天才・源義経に従がい奥州平泉の地で「仁王立ち」のまま最期を迎えたと伝えられる武蔵坊弁慶その人です。彼の父親ではないかと噂された熊野三山の第二十一代別当の名を田辺湛増(1130〜1098)と言います。出雲の田部家では、その湛増を祖先に上げているそうです。

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