纏向の古墳群と天照御魂神、そして太田地名について                 「サイトの歩き方」も参照してください。

二両編成のJR桜井線に乗りこみ無人の巻向駅で下車する。一つしかないホーム端の小さな昇降口を出て、直ぐ線路を跨いで南側に進んで行くと、卑弥呼の墓ではないかと云う見方もある箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫大市墓)が視界に入りますが、今回お話ししようと思う幾つかの古墳群は駅の西北西一帯に点在しており、その中でも「最古の前方後円墳」として注目を集めているのが纏向石塚古墳で全長は約96メートルあります。下の画像を見てもらうと「かまぼこ」型の台状に造成されているのが分かると思いますが、これは先の大戦時、この古墳上に高射砲の陣地を構築するために削平したもので、本来の墳丘がこのような形をしていたのではありません。後円部の径が約64メートル、前方部の辺が約32メートルあり、全体が「3対2対1」の比率で設計されていると考えられ「前方部」が三味線のバチのような独特の形状を持っていることから、纏向型前方後円墳と呼ばれて定型化されれた方円墳とは区分されています。つまり箸墓よりも、この石塚古墳の方が、より早く造成されていたのです。時期については様々な「説」があるようですが、極大雑把に言えば「三世紀初めから三世紀前半」頃ではないかと思われます。魏志などによれば倭を統合する象徴として君臨していた邪馬台国の女王卑弥呼が亡くなったのが西暦248年前後という事ですから、この古墳はほぼ彼女が生きた時代と変わらない時期に造られていたと考えられます。

纏向石塚古墳  鶏形  弧文円板

この石塚古墳からは、とても興味深い遺物が見つかっています。最古の方円墳とも謂われる同墳は後円部を中心として20メートルもの幅を持った周濠に囲まれていたと考えられているのですが、発掘調査の折に「弧文円板(部分)」と「水鳥」などが沢山の農具(鍬、鋤)に混じって出土しているのです。三世紀のヤマトでは木製の農具も一般庶民にとっては貴重品だったと思われるのですが、地域の首長の墳墓にそれらの実用品を惜しげもなく副葬したのは、埋葬主体の霊を祀ると同時に、地区全体の豊かな実りを予祝する儀礼も執り行われていた証なのかも知れません。考古学の専門家によれば「円板」は復元すると直径が凡そ56センチメートルの大きさになるそうです。また、出土の状況が「周辺に丸太」が横たわっていたことも分かっていますので、儀式の際には丸太を組んだ鳥居のような「門柱」が拵えられ、その上部に円板や鳥形板を飾り付けていた可能性もあります。単なる想像に過ぎませんが、朝日と共に「鬨を告げる」鶏には夜の暗闇を切り裂き、力強く輝く太陽を呼び出す特別な霊力を備えた生き物だという認識があったのかも知れません。記紀神話の中にも、

  故ここに天照大神御見畏みて、天の石屋戸を開きてさしこもり坐しき。ここに高天原皆暗く、葦原中国悉に闇し。(中略)
  是をもちて八百萬の神、天安の河原に神集いて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて

と、真っ暗闇から世の中の平安を取り戻す役目を負った「長鳴鳥」が神々の信望を集めていたと記しています。古墳時代が進む中、板状の鳥はハニワの鳥に変身し、中期以降になると「水鳥」たちも現れてきますが、一方の「弧文円板」は土器石棺などの文様として使われ続けるものの、円板そのものが発展を遂げた遺物は出土していないようです。葬送儀礼に深く関わった特別な意匠に違いないと思うのですが、円形に纏められていた点に注目すると「魂」そのものの表象だったとも考えられそうです。ただ、上の画像でも分かる通り「鶏」には朱が装飾されているのですが、弧文板は「黒漆」が塗られていたそうです。そこからは何やら冥界の紋章を彷彿させます。国土地理院の画像情報による航空写真(下左の画像)を見れば一目瞭然ですが、ほぼ正三角形に整然と並んだ石塚、纏向勝山(全長約115メートル)、纏向矢塚(同約96メートル)の古墳群は三世紀のヤマトにあって間違いなくこの地域が「首長たちの霊が鎮まる」重要な場所であったことを如実に示しています。それぞれが20メートル程度の濠で囲まれていたのなら、三つの古墳が周濠を挟んで隣接し地域の水瓶の役割を果たしていた可能性もあります。

纏向古墳群  勝山古墳  矢塚古墳

さて、長々と纏向に点在する最初期の古墳について述べてきましたが、実は今回の主題はそれらの古墳ではなく全く無名の社にあった石碑に触発された一つの想像なのです。巻向駅と石塚古墳の丁度中間点に当たる奈良桜井市太田には、地区住民が集うための公共施設公民館が建てられているのですが、その建物に接して一つの社がひっそりと佇んでいます。神社の由緒などを記した案内板の類も一切ありませんから、普通なら何の躊躇いもなく通り過ぎるはずなのに、何か後ろ髪を引かれる想いのような感覚があり、一旦通り過ぎた路地を引き返し薄暗い小さな境内に入ってみると、そこには貧弱な拝殿に不釣り合いな、まだ新しさを残した一抱えほどもある石造物が待っていたのです。上左の写真の右隅にこんもりとした社の繁みが写り込んでいますが、穴師から西へ下る道筋を選んでいなければ、恐らく神社そのものに出会う事も無かったと思われます。「天照御魂神社」と彫られた石榑を眺めていると背の高い老人が現れ『これは太田地区の産土神だ』と教えてくれました(下右の画像)。

ヤマト王権の基盤つくりに貢献したとして初代と同じ「ハツクニシラス」の称号を持つ第拾代崇神帝は登極早々大きな試練に直面します。日本書紀によれば、崇神五年「疫病が国中を襲い、人民が次々と倒れて尽きそうになった」のです。事の重大さに呻吟する帝は神意を問おうと「神床」に着くと、

  大物主大神、御夢に顕れて曰りたまひしく『是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(オオタタネコ)をもちて、我が御前を祭らしめば(略)国安らかに平らぎなん』

との神託を得ます。河内の陶邑に居た一人の人物が、御諸山(三輪山)に「意富美和の大神」を祀ることになった起源説話に登場しますが、この男の姓は「オオタ」でした。帝に『汝は誰が子ぞ』と問われたタネコは、

  僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古ぞ。

と誇らしげに自己紹介していますが、この系譜に表れている「陶津耳命(スエツミミ)」は天津彦根命系の三嶋溝咋耳命(別名・天日鷲命)だと思われますから、恐らくオオタタネコは母方の実家がある河内の三嶋に住んでいたのでしょう。日本書紀の神代上第八段の一書第六には、

  「吾は日本国の三諸山に住まんと欲う」と云う。これ、大三輪の神なり。
  この神の子は、即ち甘茂君等・大三輪君等、また姫蹈鞴五十鈴姫命なり。また曰く、事代主神、八尋熊鰐(ワニ)に化為りて、三嶋の溝樴姫、或は曰く、玉櫛姫というに通い
  たまう。しこうして児、姫蹈鞴五十姫命を生みたまう。これを神日本磐余彦火出見天皇の后とす。

と三輪氏族による「別伝」を載せています。偉大な初代神武帝の皇后の生家や、その直系子孫の名前を崇神が「知らなかった」とは思えないのですが、同じ書紀が子に相当する垂仁二十五年の一書として、倭大神が、穂積臣の遠祖大水口宿禰(物部一族)の口を借りて、

  然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまうといえども、微細しくは未だその根源を探りたまわずして、粗に枝葉に留めたまえり。故、その天皇の命短し。

とあからさまに批判している処を見ると、大物主神が「祟り」を成す位に天神地祇への理解が深くない大王だったのかも知れません。ただ、崇神の母親は物部本宗家の娘・伊香色謎命(イカガシコメ、上の大水口宿禰は大伯父に当たる)ですから祭祀に疎いとは到底考えられないのですが、閑話休題。定型化した大型の方円墳を次々造成して周辺を威圧した王家より一足早く大和に天降った一族がありました。神武が独り言のように旅立ちの前に名を呟いた「饒速日命(ニギハヤヒ)」その人で、筆者は彼が天津彦根命の子孫の一人であり先に見た「天照御魂神(あまてるみたま)」の原型となった人物ではないかと想像しています。日本史の解説では『古代祭祀を物部氏が主導』したという意味の文章が見られますが、物部氏自体が所謂天孫族の一員であり、祭政一致の言葉通り支配層の「仕事」の一部として祭祀が含まれていたのです。大和三輪の神々と親交を結び婚姻関係にあった三嶋の地にも天照御魂神は鎮座しています。それが新屋坐天照御魂神社三社で、祭神は「天照国照彦火明命」となって天孫族の「天火明命」と混同されていますが、実質がニギハヤヒであることに違いはありません。実は、この三社の近くに「継体天皇陵(太田茶臼山古墳)」が在り、その直ぐ西隣に太田神社が鎮座しているのです。三嶋の「太田」については次の資料が有名でしょう。

古図の大田神社  「播磨風土記」より  天照御魂神社

  大田の里、土は中の上なり。大田と称う所以は、昔、呉の勝(すぐり)、韓国より渡り来て初め紀伊の国名草の郡の大田に至りき。
  その後、分かれ来て、摂津の国三嶋の賀美の郡の大田の村に移り至りき。そが又、揖保の郡の大田の村に遷り来けり。
  これは、本の紀伊の国の大田をもちて名と為すなり。

「播磨国風土記」揖保郡にある一文です。「太田・大田」は一般名詞ですから闇雲に何でも関連付けることは不適切かも知れませんが、ここに云う「紀伊国の大田」は和歌山市太田を指しており近隣には日前宮・国懸神社が建てられています。その神体が何れも「鏡」であって相殿に「思兼命、石凝姥命」「玉祖命、明立天御影命、天細女命」の五柱が祀られている事は、この神社もまた天津彦根命の子孫たちが造営した聖地の一つであることを示しています。記紀神話によれば天孫族の天若日子は高御産巣日神とアマテラスによって葦原中国に遣わされますが、下照姫と結ばれ八年も報告を怠ったとあります。また、阿遅鉏高日子根神とは大変「愛わしい友」であったとも記されています。纏向石塚古墳から出土した、夥しい数の鋤、鍬などの農具に想いを馳せる時、大和三輪の開拓を主導したであろう農耕神の象徴としてのアジスキタカヒコネの姿が仄見えます。勿論、神々の時代と三世紀を同列に論じてはいけませんが、大和の国作りを三輪族が先行して行い、それに天孫族の一員が協力した後、神武に代表される大王家がヤマトを制圧する。古い神々は逼塞し、名を変え姿を変えながら、辛うじて生き残りを図る。その一例が太田に在った天照御魂神社だったように思えます。何だか石塚古墳がオオタタネコの墓のような気がしてきました。

 TOP    
     
 人気のページ   お地蔵さまの正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   応神天皇は神の子   オオクニヌシは天目一箇命か