茨田一族と息長氏のつながり                         「サイトの歩き方」も参照してください。

倭の五王と称される古代天皇のうち「讃」か「珍」ではないかと見られている仁徳天皇は、大和ではなく難波に都を造りました。これを高津宮と云います。弥生時代後期から古墳時代にかけての大阪平野には、もともと大阪湾の一部であった河内湾が広がっており、農作物の栽培なども当然行われておらず、淀川・大和川・石川などの多くの河川から水が入り込み、たびたび洪水にも見舞われたと考えられています。河川が自然にもたらす多量の土砂が堆積を重ね、河内湾と海を隔てる天然の堤防を作り上げ、長い年月を掛けて「湾」の内部は淡水化し「湖」になったのだと研究者たちは見ています。即位から十一年、大王は群臣たちに指示します。

  今、朕、この国を視れば、郊も澤も廣く遠くして、田圃少なし乏し。また河の水、横に流れて、流末はやからず。いささかに霖雨にあえば、海潮遡りて
  港里船に乗り、道路また泥になりぬ。故、群臣、共に視て横なる源を決りて海に通せて、逆流を塞ぎて田宅を全くせよ。       仁徳紀十一年夏四月条

詔から半年後工事が始められ『宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る』ように整え、更には『また将に北の河の澇(大波)を防ぐ』ための茨田堤も築きました。この堤防造りが大変難工事で築いても直ぐに崩れる箇所が二つあり、どうしても堤を完成することが出来ません。さて、どうしたものかと悩んでいた天皇の夢枕に「神」が現れ「二人の人物を河伯」に捧げて祭れば工事は無事完了するだろうと告げます。つまりは「人身御供」を差し出せという事になって東国と河内から指名された二人が現場に連れて来られ、武蔵人・強頸は「泣き悲しみ」ながら入水しましたが、もう一方の河内人・茨田連衫子は、手に持った匏(ひさご)二つを河の中に投げ入れ、神と請(うけい)で対決します。

  河伯、祟りて、吾を以って幣(神への供物)とせり。ここを以って今、吾、来れり。必ず我を得んと欲はば、この匏を沈めてな泛ばせそ。
  即ち吾、真の神と知りて、親から水の中に入らん。若し匏を沈むることを得ずは、自ずからに偽の神と知らん。何ぞ徒に吾が身を亡さん。

古代の河内湖  河内名所図会 

衫子が用意していたのは「全匏(おふしひさご)」つまり完全な防水加工を施した「ひょうたん」ですから、神様が飃風を巻き起こして匏を水中に引き込もうとしましたが「波の上に轉い」ながら沈むことなく「浮き踊りつつ」遠くへ流れ去りました。彼が自らの命を「犠牲」にしなくて済んだという訳です。『これ、衫子の幹(いさみ=才能・知恵)に因りて、その身亡びざらくくのみ』と書紀に逸話を収録した編者が、神の要請を巧みに退けた機転を称えている茨田連(まんたむらじ)は「新撰姓氏録」にも記述があります。

  右京 皇別    茨田連     多朝臣同祖 神八井耳命男 彦八井耳命之後也
  河内国 皇別   茨田宿祢  多朝臣同祖 彦八井耳命之後也 男野現宿祢 仁徳天皇御代 造茨田堤 日本紀合

古事記の神武段にも「その日子八井命は茨田連、手島連の祖」という註文があるので同氏が「皇別」の系譜を主張していたことが分かりますが、書紀は「彦八井耳命」その人を記録していませんから、多朝臣「同祖」という系譜には疑問符が付きそうです。ただ、物部氏の伝承を記録した「先代旧事本紀」に「櫛角別命は茨田連の祖」(天皇本紀)とあり、姓氏録の山城国皇別の項にも姓は異なりますが『茨田勝(まんたすぐり) 景行天皇皇子 息長彦人大兄瑞城命の後なり』と記載されている事、そしてこの景行皇子を息長氏の祖先・稲背入彦命の別名であると見るなら、茨田氏が早い時期に分岐した息長一族の支流であると考えることが可能なように思えます(繰り返しになりますが古事記は、景行天皇と針間之伊那毘大郎女との間に生まれた櫛角別王が茨田下連の祖と記載しています)。また播磨国風土記に『枚方の里、枚方と名づくる所以は、河内の国茨田の郡の枚方の里の漢人、来りて始めてこの村に居りき。故、枚方の里という』ともあって、同地に渡来系の人々が居住し、堤造りや田畑の開発に労力(と技術)を提供していたことも明らかになっています。

時代はかなり下りますが、仁徳朝に完成をみた茨田屯倉に関わる記事が、次のように宣化紀に載録されています。

  胎中之帝(応神天皇)より、朕が身に泊るまでに、穀稼を収蔵めて、儲粮を蓄え積みたり。遥に凶年に設け、厚く良客を饗す。国を安みする方、更に此に過ぐるは無し。
  故、朕、阿蘇之君を遣わして、また、河内国の茨田郡の屯倉の穀を運ばしむ。

海外からの使節が常に往来する筑紫国は、大和と隔絶した遠国であるので万が一食糧難に陥った緊急時にも、直ぐに救援物資(食糧など)を届けることが難しい。だから平時の今こそ全国の各地にある屯倉に蓄えてある米を運び込み、危機に備えるべきだとして帝は蘇我稲目、物部麁鹿火、阿倍臣たちに指示し合わせて「那津の宮家」を整備せよとも命じています。大王の屯倉から九州まで大切な穀物を運ぶ役目を与えられた「阿蘇之君」が、古事記の云う神八井耳命の後裔であり「火君」とも同族であるという記述を信用するなら、この氏族もまた息長の血脈を受け継いだ実力者の一人と看做すことが出来、時代を象徴した古墳の石室材として使用された阿蘇ピンク石の近畿地方への運搬も、阿蘇君や茨田連などが担当していた可能性が高いと思います。

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