金太郎とマサカリ大王の剣                               サイトの歩き方」も参照してください

お伽噺の世界なのだから、そうそう目くじらを立てて論うことはないのだけれど、気になりだすと夜も寝られない…、とまでは言いませんが、それにしても何故、金太郎は鉞(マサカリ)を担いで熊に跨っているのだろう。皆さんは、そんな疑問に取り憑かれた経験はありませんか?無いでしょうね。物の本によれば、刃先の幅が狭いオノを「斧(おの)」と呼び、刃部が幅広いオノを「鉞(まさかり)」と呼んで区別しているのだそうで、旧くは広刃の斧を「鐇(タツキ)」と記した例もあるのだとか。また、二つを並べ「斧鉞(フエツ)」と表記する場合も多いようです。『子供に、どうして、そんな危険な武器を持たせているのか?』いぶかしむ向きもあるかと思いますが、何しろ彼の母親は山姥(やまんば)で、彼等の棲家が山の奥深くにあるのですからマサカリは武器と云うよりも、山で暮らす人々の必需品(生活道具)と考えれば納得できます。

金太郎の鉞(マサカリ)  大鉞を担ぐ  「前太平記」より

閑話休題、皆さんは『節刀』(せっとう)と云う言葉をご存知でしょうか?昔、時の帝から遣唐使や将軍に任じられた人物に与えられた「証(あかし)」の刀のことで正史上、初めて授与されたのは「磐井の乱」平定に功のあった物部麁鹿火(もののべ・あらかい、?〜536)だったとされています。ところが、書紀・継体二十一年秋八月条には、

  また詔して曰く「大将は民の司命なり。社稷の存亡、ここに在り。つとめよ。恭みて天罰を行え」とのたまう。
  天皇、みずから斧鉞を操りて、大連に授けて曰く、
  「長門より東をば朕制らん。筑紫より西をば汝制れ。専、賞罰を行え。頻りに奏すことにな煩いそ」とのたまう。

とあって継体帝が麁鹿火に与えた物は「刀」ではなく「斧鉞」であったことになっています。尤も、書紀の編集者たちはお隣の大国で編まれた歴史書にある様々な修辞を手本にしていたようですから、この部分も後から「唐風」にアレンジしたものだと考えても良いのですが、実は「帝と斧鉞」に関しては、更に古い前例があるのです。しかも、二つ。先ず一人目は、景行帝の息子・日本武尊(ヤマトタケル、仲哀帝の父親)です。彼は父の命を受けて東奔西走、全国の「荒ぶる」勢力の平定に大きく貢献した勇敢な皇子として書紀などが大々的に喧伝している英雄の一人ですが、四十年秋七月、東国に出立しようとする息子に対して帝は、

  すなわち天皇、斧鉞を持りて、日本武尊に授けて曰わく「朕聞く、かの東の夷は識性暴び強し。(中略)示すに威をもってし、懐くるに
  徳をもってして、兵甲を煩さずして自ずからに臣隷わしめよ」

と訓示、日本武尊は吉備武彦と大伴武日連を従えて出征します。今、熱田神宮が祀る有名な草薙剣を伯母・倭姫命から授けられたのは同じ年の冬十月のことでしたが『身を慎みなさい。油断してはいけません』という伯母の忠告も虚しく、剣を宮簀媛の家に置いたまま山の神と対峙した結果、病を得て能褒野で帰らぬ人となってしまいます。白鳥と化したミコトが最後に辿り着いた所が河内の舊市(古市)邑で、そこには白鳥陵が造営されています。(彼の場合、草薙剣は斧鉞とは性格を異にした、皇子のお守り刀であったように思えます。同じ場面を古事記は『比々羅木(ひいらぎ)の八尋矛を賜る』と記し、皇子が明らかに魔除けの代物を賜ったと伝えています)二人目は、日本武尊の息子、仲哀帝の妻・神功皇后(オキナガタラシヒメ、息長足姫尊)その人です。彼女は、夫が『神の教えに従わず、早く崩御』したため、自ら「財宝の国」を求めて外征を計画します。書紀・摂政前紀(仲哀九年九月条)によれば、

  ここに吉日を卜べて、臨発んとすること日有り。時に皇后、親ら斧鉞を執りて、三軍に令して曰わく

とありますから、皇后は「三軍」(大軍の意)の兵士たちに、本来、帝の専権とされる指揮権、賞罰権など「全ての権限」が己に移譲された事を宣言しているのだと理解できます。五世紀末、西暦478年「倭王」武自身が宋から『使持節都督……大将軍』の爵位を受けているのですから、当然、上で見てきた三例の「斧鉞」記事そのものにも、大陸国家生まれの武官統制思想が反映されているはずですが、より古い時代の倭国には「斧」に関する独自の文化は育っていなかったのでしょうか?弥生時代の始まりを何時にするのかについて、様々な科学的方法が開発される度に議論が巻き起こっていますが、国内で一貫した「製鉄」作業が何時代に、西暦何年頃に始められたのかについても研究家たちの見方は分かれているようです。ただ管理人の乏しい知識で類推するなら「水稲」耕作技術と平行して鉄器が「輸入」されたのは紀元前数百年に遡り、恐らく紀元前後には国内での鉄器製造が細々とではあれ始まっていたと思われます。近年、考古学の分野で注目を集めている山陰鳥取の青谷上寺地遺跡出土の鉄斧は約2,300年前の輸入品だそうで、妻木晩田遺跡でも、紀元1世紀には鉄器の生産が始められていたようですから、摂津三島の古曾部・芝谷遺跡出土の鉄斧(下右の画像)も山陰ルートで入手した完成品だったかも知れません。(1世紀から3世紀に亘る国内最大級の鍛冶工房があったとされる兵庫の垣内遺跡がある土地の名は黒谷と言い、半島製の板状鉄斧が見つかっています)

ヤマトタケル  白鳥陵  鉄斧

上で見た息長足姫命の夫・仲哀帝との関わりが窺われる岐阜大垣の矢剣神社の近くには矢道長塚古墳がありますが、全長87mの方円墳からは石剣76個と伴に鉄斧も出土しており、四世紀後半に美濃大垣一帯を支配した実力者にとって「鉄斧」が威信財としての価値を有していた事情がうかがえます。美濃の王にとって鉄斧が環頭太刀や三角縁銅鏡と並ぶ宝物であったことは確かですが、そもそも「マサカリ」の語源は何なのか?丹念にWEBでも調べてみましたが、結局、分かりませんでした。こうなると、いつもの手で記紀の伝承を探るしかありません。ヤマトタケルが妃の許に置き忘れた草薙剣は、もともと須佐能袁尊(スサノオ)がヤマタノオロチを退治した折に、大蛇の尾の辺りから「発見」したもので、古事記は『都牟刈(ツムガリ)の大刀』、書紀は、

  その蛇を断りし剣をば号けて蛇の麁正(オロチのアラマサ)という。此れは、今、石上に在す。  一書第二

と記し一書第三では「蛇の韓鋤(オロチのカラサイ)」、一書第四では「天蛇斫剣(アマのハハギリ)」という名の剣だったと紹介しています。つまり「蛇(オロチ、ハハ)」が旧勢力(国を譲り渡した側の神々=オオクニヌシ、大物主)そのものを表すことから、その剣は銅製ではなかったかと思われるのですが『韓鋤』の「鋤(スキ)」の字にこだわってみると別の神話が浮上します。日本書紀第二巻は所謂「天孫降臨」を詳細に述べるために編まれたものですが、その冒頭を飾るのが「天稚彦の返し矢」物語りで、高皇産霊尊(たかみむすび)から葦原中国に遣わされた天国玉の息子は、顕国玉(大己貴神)の娘・下照姫(又の名を高姫)と結ばれ復命しません。彼に与えた「天羽羽矢(アマノハハヤ)」だけが戻ってきた事に不審を懐いたタカミムスビが矢を再度投げ返すと、天稚彦の胸に命中、彼は『たちどころに死』んでしまいます。義理の兄弟の喪を弔いに訪れた味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)が、余りにも息子と良く似ていたので両親たちは皆思わず『私たちの稚彦は死んでなんかいなかった。ほら、ここに、ちゃんと居るのだから』と喜び纏わり着いたのです。「亡者(死にたるひと)」にそっくりだと言われて腹を立てたアジスキタカヒコネが、喪屋を「斫り伏せた」剣の名前が「大葉刈(オオハカリ)」(記は「大量」と表記)で、日本古典文学大系の編者は『カリは刀』であろうと注釈を付けていますが、オノコロ・シリーズを愛読書にしている皆さんの脳裏には、また別な感想が浮かんだに違いありません。

大蛇そのものが剣(権威・神)の象徴であるとするなら、オロチの体内に在った剣も又「神」の化身に違いありません。そして古事記は由緒正しい剣の名(正体)を「ツムガリ」だと伝えています。時代はくだりますが、オオクニヌシの子・阿遅鋤高日子根神が帯びていた剣は「オオハカリ」だったとも記し、古い神々の権力の源が「カリ」と呼ばれる刀にあった事を教えてくれます。「カリ」は容易に「カル」「軽」…、つまり「」を想起させます。ヤマトタケルの白鳥陵が羽曳野市軽里にあり、勾大兄(マガリオオエ)安閑帝の陵墓が、すぐ近くの高屋地区にある「偶然」について興味のある方は、リンク先のページを訪れてください。マサカリはかつて葦原中国を支配していた神々の「カリ=神聖な銅の剣」の記憶装置に思えてなりません。

江戸期、藤元元という人が著したとされる『前太平記』巻十六「頼光朝臣、上洛の事」の段によれば、足柄山に住んでいた山姥が山中で寝ていた時、夢の中で「赤竜」が体内に入り込み、雷鳴が轟いた。驚いて目覚めると、既に金太郎を身ごもっていたとあって、彼が雷神の子であったとの言い伝えも根強く残っていたようです。おしまい!

     
     
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