いざ兵庫・湊川へ、楠正成の戦い                          サイトの歩き方」も参照してください

動乱の続く14世紀、元弘の乱(1331年)の結果、隠岐島に配流されていた後醍醐天皇(ごだいごてんのう,1288〜1339)は腹臣たちの整えた手はずにより翌年隠岐を脱出、この動きに新田義貞(にった・よしさだ、1301〜1338)などの武将が呼応して立ち上がり、足利高氏(あしかが・たかうじ,1305〜1358)が政府軍に反旗を翻したことも手伝い、源頼朝(みなもと・よりとも,1147〜1199)が興した鎌倉幕府は1333年に滅亡することとなったのですが、新しい政府のあり方を巡り内部で対立が激化、新政府は二つに分かれてしまいます。その原因となった理由については様々に解釈されていますが、要は実力主義の武家と、理想主義(保守派)の公家との間で利害の調整がつかなかったことが大きかったと言えるでしょう。日本史の教科書などで「南北朝時代」と称される時期が、これに当ります。自らの正当性を顕示するため高氏は光厳天皇を擁立(これが北朝)、後醍醐天皇は都から吉野(南朝)に逃れて各地に檄を飛ばされました。一進一退の攻防が続き、南朝方も一旦は高氏の勢力を押さえ込むことに成功したのですが、足利軍は九州まで後退したあと西国の武士集団を再び結集、京都に向けて陸海から数万人規模の大軍を送り込んだのです。

  楠公さんの銅像   湊川神社

延元元年(1336)五月二十五日、わずか数百名の一族郎党・手兵のみを引き連れて、この足利の大軍勢を迎え討つため兵庫(神戸の会下山)に出陣した武将の名を楠正成(くすのき・まさしげ,1294〜1336)と言います。記憶力の良い、そして、このオノコロ・シリーズお馴染みの方なら覚えているかも知れませんが、小説『田舎中学三文オペラ』の主人公が話していた小学校の学芸会で観た無言劇(「青葉繁れる桜井の」)の主役が、この正成で、神戸近辺の住人たちは思い入れを込めて湊川神社の主神を「楠公さん」と呼び親しんでいます。あの水戸のご隠居こと中納言・水戸光圀(みと・みつくに,1628〜1701)が正成の偉勲をたたえて『嗚呼忠臣楠子之墓』の墓碑を建立したのは元禄五年(1692)のことでした。

いざ鎌倉』という言葉が全てを象徴しているように、中世の武家社会あるいは武装集団の世界に住む人々にとって「主人」とは、飽く迄も自分の生命財産を保証してくれる直属上司であって、『一所懸命』(いっしょけんめい)に働くのは、取りも直さず自分自身と家族の身を護ってくれることが主従双方の確かな約束事であったからに他なりません。もう少し砕けた言い方をするなら、武士あるいは武装集団が戦場で戦うのは、常に「存亡をかけた自衛(自己と家族・一族)」のためであり、また戦闘の結果味方(主人)に勝利をもたらすことが出来た場合「恩賞」(あるいは土地の安堵=地主としての権利)という具体的な報酬が見込まれたからであり、その意味で当時の人々の考え方は、生活に根ざした実に健全な現実主義に裏打ちされていたと言ってもいいでしょう。つまり個々人が明確な目的を持って自主的に行動していたのであり、漠然とした不確かな見通し・思い込みなどを前提にした観念的で抽象的な物の見方は決してしていなかった、ということです。要は、いかに中世に住んだ人々と言えども、自分たちの生死に関る問題については、現代の我々と余り変わらない現実的な判断を下していたのです。

夢に見た「」−ある日、突然司令官に登用

蒙古襲来(1274年前後)のあたりから国内では治安が不安定さを増し、中央政府はもとより地方権力の基盤も綻びを見せ始め、本来は地主(地頭)が強い支配権を徹底していたはずの荘園内でも『悪党』(あくとう)と呼ばれる新興の武装集団が闊歩する有様でした。もち論、この「悪党」という余り有難くない呼び名は中央権力・幕府の側から見た言い方であり、呼ばれる側にすれば「自分の身を自分で護るしかない状況」に置かれていた訳で、こうした勢力は政権の弱体化を反映して全国に広まりつつあったのです。永仁二年(1294)、河内国赤坂水分(今の千早赤阪村)で地元の土豪・楠家の跡取として誕生した正成(幼名は多聞丸)は、家族一族の間で大切に育てられ、一向に良くならない世相を眺めながら青春時代を過ごしたのですが、曾祖父が「左衛門尉」を私称し、河内国金剛山麓の七郡を領していたとはいえ正式な身分を持った武士ではありませんでした。姓の「楠」についても『館の周囲を取り囲む木々に楠木が多かったため地域の住人が楠殿と呼ぶようになった』という言い伝えがある位の存在だった正成が、では、一体何故「天下」を決する戦の大舞台に登場することになったのでしょう。喩えは良くありませんが、田舎で自活している名もない男が、ある日突然、国防軍司令官に指名されたようなものです。

 楠一族の奮戦振りを伝える『太平記』巻第十六    お公家衆

この辺りの不思議さについて『太平記』(たいへいき、1372年頃に成立)は、次のような夢物語で答えます。

    後醍醐天皇は、ある夜、夢枕に立った童子から『天下の間に、暫くも御身を隠さるべきところなし。
  但し、あの樹の陰に南へ向かへる座席あり。
  是、御為に設けたる玉座にて候へば、暫く此処に御座候へ』と予言された。

そこで天皇は『木に南と書きたるは楠という字なり』と気付かれ、側近の者に辺りを探させたところ楠正成という人物がいた、という誠に良く出来たお話しなのですが、これは恐らく太平記の作者(小島法師?)が創造した邂逅劇の一場面でしょう。ただ、優勢な北朝に対抗しなければならなかった南朝方が、地域で信望の厚い、そして十分な戦闘能力も兼ね備えた有力者を探し求めていたことは確かですから、吉野の辺りにまで河内の楠一族の存在は知られていたと考えても不自然ではありません。天皇に召し出された正成は御前で『天下草創の功は、武略と智謀の二つにて候』と頭脳戦・ゲリラ戦法の重要性を説いていますが、事実、この後の千早城での戦いぶりは局地戦・不正規戦のお手本ともいえる戦いぶりで、鎌倉幕府の正規軍は散々な目に合わされてしまいますが、このような戦い方が出来たのも彼が地域の情報を完全に掌握していた証であり、また、彼への地域住民の協力(信頼)が並々ならぬものであったことを窺がわせるのです。ただ現実問題として捉えれば、いかに緊急事態であれ無位無官の者が天皇に直答できるはずもないのですから、正成という人物にほれ込んだ高位の側近が居た(強い推挙があった)に違いありません。

現実派だった足利尊氏?九州で勢力を回復

それはさておき、一度は協力して鎌倉幕府の打倒に立ち上がり、天皇の名前の一字まで頂いて尊氏となった足利氏は、武家の棟梁として認知され武士集団の象徴的存在となります。そして鎌倉方の残党・北条氏が信濃で挙兵したことを機に尊氏は鎌倉に攻め込み北条時行(ほうじょう・ときゆき,?〜1353)を討伐、そのまま武家政権を復活させようとしたのです。このような事態を朝廷が認めるはずもなく、中央は新田義貞に尊氏追討を命じ、ふたたび国内を二分する戦いが発生、足利軍は1336年に入り一度は京都も占拠するのですが、この時は朝廷軍が猛反撃に転じ尊氏を九州の地に追いやることに成功しました。そして、ページ最初の場面となるのです。歴史的に見て楠正成が一貫して朝廷側の立場を尊重していたことは明らかですが、兵庫の戦いに勝算はありません。先に述べた事の繰り返しになりますが、当時の武装集団は現実的な利害、といって語弊があるなら自分の生死を度外視した、ただ負けるためだけの戦などというものは認めません。若し、どうしても何かの理由でそのような戦の場に身を晒さねばならなかった時は、前線に一度か二度足を向け、敵軍と相対したとき適当に戦う振りを見せ、直、降参するか、あるいはその場から逃げ出したとしても、決して不名誉なことではなかったのです。その最も良い例が足利尊氏で、彼は皆さんも良くご承知のように由緒ある源氏一族であり、当初は天皇方の軍勢を討つために鎌倉幕府から派遣された司令官だったのですが、幕府に見切りをつけ反対勢力に寝返り、新政府の政策が不満になった時点で、また天皇方と対立する姿勢に転じていますが、そのことで当時の武士世界から格別批難された様子もありません。つまり、兵庫に行く時点で正成が踵を返し郷里に戻ったとしても、別段、誰からも責められる筋合いではなかったと言えるのです。

 今日は鎌倉、明日は京都、そして?  高氏兄弟筑紫へ   PR

武士の棟梁でさえ「旗色」の良い勢力に付くのが当たり前といった風潮の中で、正成の立場になって考えてみると、どうしても兵庫湊川で、あれほど執拗に戦いを挑み、そして全滅するだけの「合理的」な理由を見つけ出すことができません。事実、彼は湊川の戦いに向かう正に其の時、朝廷に向けて、次のように率直に語っているのですから。(湊川の合戦は旧暦五月二十五日の午前十時頃に始まり、数万人とも言われた足利軍の「大手・山の手」の主力とまともにぶつかった正成は、数百名足らずの軍勢でなんと七時間あまりも奮戦し、味方の人数が数十名にまで激減したのを見定め、弟・楠正季と差し違え他界しています)

     今度は君の戦い、必ず破るべし。
  正成、和泉河内両国の守護として勅命を蒙る間、軍勢を催すに親類一族なおもって難渋の色あり
  何にいわんや、国の人民にをいてをや。是すなはち天下、君を背け奉る証拠なり。

それは記録したのが足利方の『梅松論』(ばいしょうろん)だからで、彼がそのような事を言うはずがない、という声も聞えてきそうですが、隠岐から還幸された後醍醐天皇を、金剛山で包囲されていた最中にもかかわらず政府軍の攻撃を振り切って奇しくも同じ兵庫まで出迎えた時の軍勢が七千余騎であったことを思えば、自分たちが盟主と仰ぎ、生存の全てを賭けた楠正成の最後の戦いに同調したのが僅か数百騎であったこと自体、何事かを雄弁に物語っているのではないでしょうか。正成は「今度の」「君の戦い」は「必ず破る」と言い切って出発しました、彼の眼には歴史というものがまざまざと見えていたのでしょう。「梅松論」が上のような記述を残した背景には勿論、自分たちの方に「人民」が着いて来たのだから勝利したのだ、という主張が横たわっているのですが、それにも増して理を超えて「君の戦い」に最後まで参戦した勇者を讃える意図があったのかも知れません。

しくば 尋ねきてみよ 和泉なる

ここからは余談になりますが「梅松論」が幕府側の記録とするなら、南朝の重臣であり楠正成とは一つ違いの北畠親房(きたばたけ・ちかふさ,1293〜1354)が執念で書き上げた著書が『神皇正統記』(じんのうしょうとうき、1338年成立)、親房は嫡男・顕家(あきいえ)と共に湊川決戦の後も天皇や親王を護って戦い続けた気骨ある貴族でした。その北畠親子が祭られているのが大阪・阿倍野神社なのですが、この阿倍野(あべの)という地名は、その名の通り「阿倍氏」発祥の地、あるいは阿倍氏が支配権を持っていた土地だとされ、陰陽家として昨今巷でも人気のある阿倍清明(あべ・せいめい、921〜1005)の生誕地も阿倍野だとする説があります。清明についてはWEBにも沢山のHPがあるようですから興味のある方は検索してみれば如何でしょう。

 正成と葛の葉    神皇正統記   

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彼の逸話・伝説の類はきりが無いほど存在しますが、中でも特筆すべきは、その出生に関るもので、一般的には信太森伝説葛葉物語などと称されています。このお話しの核心は「恩返し」物語の典型で、清明の父・安陪保名(あべ・やすな)が信太森葛葉稲荷神社で狩人に追われていた一匹の白狐を助けてやりました。そしてお察しの通り、この白狐が妙齢の美女の姿となって保名の元に現れ、二人が結ばれたことにより一人の男子が誕生したのです。童子丸(清明の幼名)が五歳の秋、今や人の子の母となった葛の葉は庭に咲き乱れる花々の美しさに見とれながら、6年前に出たまま一度も帰った事の無い我が棲家のことなど、取り留めの無い思いに駆られ茫然としているうちに元の狐の姿に戻ってしまったことさえ気付きませんでした。子供の泣き声で我に帰った葛の葉は、その夜、保名の家を去る決心を固め、童子丸には「家玉」を形見として残し、夫・保名には次の一首を残して姿を消したと言い伝えられています。

    恋しくば 尋ねきて見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉

そして最後にもう一つ無駄話しをして今回の締め括りにしましょう。今の若い方に「寮歌」と言っても余りピンと来ないでしょうが、戦前、旧制高等学校(今の大学の教養課程のようなもの)には全国から集まる学生のための寮があり、旧制第一高等学校(現在の東京大学)にも幾つかの寮が存在していたのです。八甲田山で帝國陸軍・青森歩兵第五連隊の将兵200余人が遭難した明治三十五年の三月一日、一高記念祭の席上発表された「第一高等学校東寮寮歌」『ああ玉杯に花受けて』の作詞者は矢野勘治ですが、これに曲を付けた人物の名を楠正一と言い、彼は正成の子孫・伊勢楠氏の一族と伝えられています。楠公さんにも健児たちの声が届いたのでしょうか。

関西では「きつねうどん」のことを「しのだうどん」とも言います。

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