松本清張益田岩船、巨石異聞                                           「サイトの歩き方」も参照してください

小説『或る小倉日記伝』で芥川賞を獲得した推理作家の松本清張(1909〜1992)が新聞の連載小説として『火の回路』を書き始めたのは昭和48年6月のことだったが、会社勤めを始めて間もなかった当時は何をするにも余裕というものがなく、見出しに眼を走らせる程度で、清張の歴史物の一環だろう位にしか見ていなかった。むしろ、まだ二十歳前に発表されていた『古代史疑』(雑誌・中央公論、昭和41〜42年)の記述から彼が古代史に強い関心を寄せ、推理畑の小説家にしては随分と情報収集にも熱が入っているなぁと感じていた。『火の回路』は昭和50年末になって『火の路』と改題されて出版されたのだが、実際に手に取って目を通したのは、ずっと後になってからだと思う。

著作権とか難しい問題があるので、その作品の筋書きなどをここで細かく再現する訳には行きませんが、冒頭に主人公たちが旅先で「偶然」出会う場面があり、奈良の明日香が舞台に選ばれ「酒船石」などの石造物についての細かい描写が続きます。そして今回取り上げる益田岩船が登場するのですが、数十年後、まさか自分がその巨石と対面するとは思ってもいませんでした。前回、蘇我馬子の墓ではないかとされている石舞台古墳についての記事を掲載しましたが、岩船も石舞台と同じ石英閃緑岩という岩石で造られています。その大きさですが、長さ11m、幅8m、高さ4.7mあって重量は推定700屯以上と見積もられています。近くの採石場から切り出した物だとしても、現地まで、どのようにして運び上げたのか不思議でなりません。また、岩船の上部には一辺が約1.6mで深さ約1.3mの四角い穴が二つ掘られており、大きさもさることながら、一体何のための人工物なのかが巨石ファンの興味をそそっている訳です。(松本は石舞台の岩が二上山から切り出されたと考えていました)

石舞台古墳  益田岩船  名所図会より

清張も作品の中で触れていますが、国学者(1730〜1801)の本居宣長は明和九年(1772)三月初旬から中旬にかけ、友人・門人たち五名で吉野と飛鳥を巡る旅をしており、その道中の見聞記録が『菅笠日記』という随筆となって残されています。旅も終わり近くになった三月十一日、朝一番に岡寺に詣でた宣長一行は飛鳥寺を目指しますが、途中「あやしき大石(酒船石)」を見学、更には「五輪なる石(蘇我入鹿の塚)」が『半ば埋もれている』様子も見て、怪しき石については、

  この石、いずれの世に、如何なるよしにて、かく作れるにか、いと心得がたき物の様なり。
  里人は昔の長者の酒船と言い伝えて、このあたりの畠の名も、やがて酒船と言うとかや。
  この石、昔は、なお大きなりしを、高取の城築きし折に、かたはらをば多くかき取りもて去にしとぞ。

など率直な感想を述べているのですが、すぐ近くに在ったはずの石舞台古墳については、

  岡より五六丁、巽の方に嶋の庄という所には推古天皇の御陵とて、塚の上に岩屋あり、内は畳八ひらばかり敷かるる広さに侍る。

と書き残してはいるものの、どうやら現地を訪ねた様子はなく、そのまま飛鳥寺次いで飛鳥神社へと回ったようです。オノコロ・シリーズで何度も紹介している秋里籬島による「大和名所図会」が発刊されたのが、ほぼ20年後の寛政三年(1791)で、益田岩船の解説文には、

  暮れゆく春のかたみは、深山の花のまた散りのこり。岩つつじ咲き乱るる頃、里人この岩船のうへにて風光を臨み、
  ながき日のならい、海棠の花のねむれるをりふし、時鳥の初声におどろきけるも一興とやいわん。

とありますから、この間に「推古帝」の御陵ではないかと見られていた「岩屋」や「長者の酒船」見物よりも、里人たちの或いは大和を訪れる人々の関心が益田岩船”観光”に変化していたと見ることも出来そうです。さて、作家・清張の仮説は彼の作品を読んでもらうとして、その岩船の「正体」なのですが管理人にも皆目見当がつきません。WEB上でも様々な説が展開されていますが、いずれも決定打に欠けるようです。実物をご覧になれば直ぐ分りますが、岩船の側部には沢山の削り跡が残されており、明らかに加工「途中」で作業が放棄されていたと考えられます。そうすると七世紀頃の大和朝廷内部の動向と無関係ということはあり得ませんので日本書紀が、

  田身嶺に、冠らしむるに周れる垣をもってす。また、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観を起つ。号けて両槻宮とす。または天宮という。
  時に興事を好む。すなわち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百漕をもって、石上山の石を載みて、流れのままに控引き
  宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗りていわく『狂心の渠。功夫を損し費やすこと、三萬余。垣造る功夫を費し損すこと、七萬余。
  宮材爛れ、山椒埋もれたり』という。また、謗りていわく『石の山丘を作る。作るままに自ずからに破れなん』という。

と批判的な記述に終始している斉明女帝(皇極が重祚、594〜661。在位655〜661)の「志向」に関連付け、益田岩船・酒船石だけにとどまらず現在、斉明の母親・吉備姫王陵などに置かれている「猿石」や「亀石」なども含めた飛鳥一体に散らばる古代の不思議な石造物群が、或る一つの目的のもとに作成されたとする作家の「推理」もあながち絵空事と切り捨てる訳に行かないようです。                                                                                                                                                                                                   

飛鳥の猿石たち  菅笠日記  扶桑略記  PR

 清張が主人公の「論考」の形を借りて主張したような精神的(宗教的?)背景があったのかどうか不明ですが、この女帝が「興事(おこし造ること)」を好み、多くの人々を使役して「石の垣」「石の山丘」を造営しようとしたことが事実で、しかも、それらの建造物の全てが「自ずからに破れた」と言うのであれば、周囲の眼には彼女の行為そのものが「狂心(たぶれこころ)」の為せる業としか映っていなかったのかも知れません。以前、別の記事でも書いた事ですが、蘇我氏暗殺の現場に居合わせた女帝については余り芳しくない記述が多く、例えば正史の書記が、重祚した年の夏五月条と七年五月条でそれぞれ、

  庚午の朔に、空中にして龍に乗れる者あり。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より馳せて生駒山に隠れぬ。
  午の時に至りて、住之江の松嶺の上より、西に向かいて馳せ去ぬ。

  天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。この時に、朝倉社の木を斬り除いて、この宮を作る故に、神忿(いか)りて殿を壊つ。
  また宮の中に鬼火見れぬ。これによりて大舎人および諸々の近侍、病みて死れる者衆し。

と伝え、亡くなった翌月の八月条でも、重ねて、

  皇太子(中大兄皇子)、天皇の喪を奉従りて、還りて岩瀬宮に至る。
  この夕に、朝倉山の上にありて、大笠を着て、喪の儀を臨み見る。衆、みな磋怪(あやし)ぶ。

様子を書き残しているのですが、十二世紀初めに僧・皇円が編んだ『扶桑略記』は、上で見た書記の文言を引用した上で、これらは「蘇我豊浦大臣」つまり滅亡させられた蘇我氏の霊(怨念)のなせる業だとも言っているのです。また、未見ですが『住吉大社神代記』という資料も、ほぼ同じ内容の伝承を記録しているようですし、著名な「善光寺縁起」では皇極帝が地獄に堕ちていたとも表現されています。天智政権の誕生を陰で支え続けたはずの彼女が藤原氏の影響下で編纂された正史の中で、何故「変人」扱いされたのか飛鳥の石造物と同様、深い謎の闇に包まれています。

ところで、本居宣長の「桜好き」は良く知られていますが、それには理由があります。彼の父親は伊勢の地で商いをしていたのですが、どうしても夫婦の間に子供が出来ません。そこで奈良吉野の水分神社に祈願すると、やっと子宝に恵まれ、産まれたのが宣長だったのです。両親は彼が小さい頃から、お前は『水分神社の申し子』なのだと言い続けて育てたのだそうです。きっと桜への思いも吉野という存在があったからこそ生まれたと云えそうです。

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