は口ほどにモノを言い                             サイトの歩き方」も参照してください。

「倭の五王」と呼ばれたヤマトの実力者たちが半島に強い関心を持ち続けた五世紀。古墳時代という区分に属する時代の王権にとって金属、取り分け鉄を素材とする道具類は、とても貴重な存在であったと思われます。改めて言うまでも無く「鉄」で作られた道具の一部(剣、鏃)は、より古い金(カネ)であった「銅」とは比べ物にならない「力」を抗争の場で発揮しますから、敵対する勢力との間での戦いを有利に導く「武器」として重宝されたに違いありません。一方、弥生時代に始まったとされる水稲耕作が国内各地に広がった背景にも鉄製器具の普及があったように思われます。湿地帯や河川湖沼の近くで行われていた水稲の耕作地を飛躍的に広げ、備蓄可能な食糧としてのコメを増産するために山裾、谷筋までをも開墾し、また農耕に不可欠な「水」を得るための水路(溝)を開削するために鉄の鋤、鍬、斧そして鎌などの農具類が果たした役割は、武器としての鉄器以上に大きかったのではないかと思われるのです。軍事力そのものの「象徴」とも云える物部や大伴を、殆ど兵を持たない大王が従えているヤマト朝の図式が、その辺りの事情を如実に物語っているのではないでしょうか。又、前回ご紹介した継体帝の「祖」である応神の母と妻(の一人)が何れも息長氏の娘であり、継体を支えた息長一族の直接の祖先が金属と深く関わった迦爾米雷王であったことも決して偶然ではなかったのです。

朱智神社  摂社の金神社

その迦爾米雷王の「名」についてですが、調べきれずに書き漏らしていた事柄があります。それが「カニ米」の「米(め)」の解釈でした。物部「氏」や『先代旧事本紀』に関心をもっている方なら、どなたでも良くご存知だと思いますが饒速日命(ニギハヤヒ)・宇摩志麻治命(ウマシマジ)の親子を祖先に持つ物部一族には、三人の「目連(めむらじ)」と称する人物が系譜上、存在しています。それが、

  十一世孫  目大連(清寧帝の時代)  物部尾輿の祖父
  十三世孫  目  連(継体帝の時代)  物部布都久留の孫、物部麁鹿火の伯父
  十五世孫  目  連(欽明帝の時代)  物部尾輿の孫、物部守屋の甥、石上朝臣麻呂の祖父

の面々で、いずれも時の大王を武力で支えた重鎮であったとされているのですが、その名に負う「(め・もく)」には何か特別な意味が込められているのでしょうか?(研究者たちによって、物部系図には各々の姻戚・先後関係に極めて不自然な部分が多く含まれていることが明らかになっていますが、それには詳しく触れません)現在では、余り良いイメージで用いられることがありませんが、集団の長を表す言葉に「頭目」があります。また人間同士の縦の関係を言う言葉として「目上・目下」があるように、ここで使われている「目」にも同じような意味合いが含まれているのではないのか?更に、欽明に仕えたとする夫々の「連(むらじ)」が系図上、世代が逆転している点に注目するなら、本来「別々」の系統(家)であった者を系譜上に「つなぐ」役目を負わされた人物の「証し」ではないのかとも勘ぐりたくなります。(三番目の欽明朝の人である物部尾輿の「孫」の「目」も、欽明の時代に大連だったと記されています)この様に推理してみると、古代人の名前に現れる「目」という文字には、

  @ 氏族の長・実力者  A 系譜上、何か特筆されるべき背景のある人物(例えば始祖)  B 別々の系譜をつなぐ役割の人物(入り婿?)

など、おおよそ三つの意味が込められていた可能性が浮上します。そして、この解析結果をモノサシにして古代史を見直してみると、新たな興味が湧いてきます。先ず、息長氏の「祖」が「カニ米(目)」であったことの妥当性に関しては改めて言うまでもありませんが、古代史探訪・オノコロ・シリーズの主役である継体帝の母親は、

  尾張氏の出身、凡連の妹あるいは草香の娘・目子

だったことを皆さん覚えていることでしょう。少し時代をさかのぼると第八代孝元帝の母親である細比売命が、

  磯城県主・大目の女(孝元即位前紀)  or  十市県主の大目の女(孝霊記)

であり、先だってワニのページで見てきた春日和珥の祖先も「深目」という名を持っていました。そして何より、古代史上最も謎の多い氏族だとされ、このサイトでも度々取り上げてきた蘇我氏の祖とも言うべき人物の名が「稲目」でした。管理人は密かに、蘇我氏の直接の祖は孝元帝ではなく、継体大王と尾張目子媛との長子・安閑帝の血脈を受け継ぐ、伝説上の存在とされる豊彦王こそ稲目であるという妄想を懐いていますので「稲目」の「稲(いね・いな)」についても再考する必要があるかも知れません。何故なら、稲目を「初めて大臣(おおおみ)」に登用したのが目子媛の次男・宣化帝その人であり、彼の血筋から後に活躍する丹治比真人、為奈(猪名=いな)真人が生まれているからです。この猪名氏の本貫を猪名川周辺を含む箕面・池田・豊中から兵庫宝塚などを含めた地域であるとする見方がありますが「古事記」が残した孝元帝の母親の里・十市県と、多治比氏で左大臣まで上った島(しま)の祖父が「十市王」であったこと、更には火焔皇子の孫とされる額田鏡王の娘・額田女王と天武帝(631?〜686)の子の名前が十市皇女であることを思えば『東は宇多、西は広瀬、南は高市、北は城上』の広域を意味した「十市」県と王権の深いつながりが感じ取られ、猪名氏の「いな」が「いね」に通じる可能性はゼロとは言い切れないのです。(蛇足ですが古代の人々は鮫の事を『フカ』『ワニ』と呼びました)

忍坂の陵域ちかくの丘陵風景 忍坂に建つ生根神社

また日本書紀は孝安紀二十六年条において、帝の「皇后」媛(おしひめ)について、

  磯城県主・葉江の女、長媛  or  十市県主・五十坂彦の女、五十坂

と云う二通りの「別名(別伝)」があったと記録していますが『大和志料』という文献によれば、この「五十坂彦」は事代主命の後裔であると主張していたようで「押(おし)媛」の名を「五十」に当てはめると「五十坂」は「おしさか」と言うことになります。つまり十市県を取り仕切っていた実力者は「押坂=忍坂」彦と名乗る人物だった訳ですが、この名前に見覚えの有る方はきっと多いことでしょう。これまでにもオノコロ・シリーズで何度も話題にしてきた息長氏を代表する女性の一人が允恭帝の「皇后」忍坂大中姫で、欽明帝と「皇后」石姫の間に産まれた嫡男が押坂彦人皇子その人でした。また、国宝として著名な隅田八幡宮・人物画像鏡の銘文(下)、

  癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

にある「意紫沙加(おしさか)」も同じ地名を表現したものだと考えられますから、五世紀から六世紀のヤマト王権にとって「おしさか」は軍事上でも極めて重要な意味を持っていたと思われます。伝承に過ぎないのか、史実を反映したものか即断できませんが、垂仁紀三十九年冬十月条には皇子の五十瓊敷入彦命が『一千口の大刀』を忍坂邑に蔵め、その後、忍坂より移して石上神宮に蔵めたとあります。この折「神」のお告げに従って石上神宮の神宝であった「剣(つるぎ)」を治めたのが和邇一族の春日臣市河(上で見てきた春日和珥深目の兄弟)で、垂仁八十七年春二月には一端、五十瓊敷入彦命の妹・大中姫に渡った神宝の管理権が、姫の手から「物部十千根大連」に授けられたと書紀が伝えていますから、元々「春日」の実力者であった和邇一族が王権の後ろ盾となる「神宝(武器庫)」を「忍坂」で収蔵管理していたが、時代の推移の中で本来「武器庫」であった性格が「神宮」に変質し、管理者の立場も「神宝」しとて剣を祭祀する者へと変わる中、物部を名乗る一族・十一根(十市根)が和邇から祭祀権を引き継いだ(或いは奪取した)のかも知れません。

孝元の兄弟が孝霊であり、その妻・細比売の父親が十市県主の「」大目であるにも関わらず、更に先代に当たる孝安の妻・押(忍)媛命の父が十市県主・五十坂彦だったとする書紀の言い分に、余り強い説得力はありません。恐らくこれは、本来、第八代孝元帝の世代位までしか整備されていなかった帝紀に合わせて編まれた豪族たちの家伝の内容が、七世紀以降何らかの必要に迫られ、それぞれ「書き足された」事情を反映しているのではないかと思われます。その「証拠」と言うのも大げさですが、いつも参照している「新撰姓氏録」所載の皇別氏族335氏のうち、ほぼ三分の一に相当する「108氏」が孝元帝の後裔を称している事実は重いでしょう。何しろ帝位を蔑ろにした悪の張本人蘇我入鹿の蘇我氏まで武内宿禰を通じて孝元の子孫に名を連ねているほどなのですから…。また、六世紀初め、大和朝の手白香皇女に婿入りした大々杼王が自らの出自を第十五代の応神に求め、更に母方の祖先を第九代垂仁としている事も、当時の王族たちの意識の中に占める「始祖」像の一端を窺わせて興味深いものがあります。なお、孝元の父であり押(忍)媛を娶ったとされる孝安の子孫を称する氏族は一つもありません。

「万葉仮名」という言葉を古文の授業などで目にした方も多いと思われますが、古代においては、

  イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ及びの14音

について人々は「聞き分け」「言い分け」そして「書き分け」ていたとされます。それが「上代特殊仮名遣い」とも言われる仮名文字の使い分けで、今回取り上げた「目(め)」も当然これに該当しています。仮名は「甲類・乙類」に峻別され「め」を表す仮名は、それぞれ、

  甲類=売、馬、面、女    乙類=梅、、迷、昧、、眼

の二つの文字によって書き分けられているのです。孝安紀にある「押媛=長(ナガ)媛」という別伝からは、この帝の妻が「ナガ」族の娘であったという伝承を窺うことも出来、息長(オキナガ)一族との関わりや仲哀帝の后・大中姫、応神帝の后・仲姫命そして允恭帝を押し立てた忍坂大中姫へと続く「ナカ・ナガ」の血脈も浮かび上がってくるのですが、それは又、次回以降のお楽しみに取って置くことと致します。

      
     
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